ターナー
湖に沈む夕日
国立新美術館でひらかれている Light テート美術館展を見てきた。
というかターナーを見に行ってきたといっていい。美術の歴史にくわしくない人(僕も含めて)ターナーっていうとその絵を見る限り印象派なのではないかと思っているひともいると思う。でも、ターナーはモネよりも65歳も年上なのだ!印象派がはじまる約30年も前にこんな絵を描いている。芸術の世界では普通こういうことは同時期に起こることなのでとても不思議に見える。
今ターナーのいろんな絵を見ながら思ったのだが、この絵はカラーで描いた水墨画ではないか、ということ。そういうふうにとらえると、東洋の水墨画は印象派をさかのぼること数世紀、ターナーよりもはるかに前に印象派的世界を創造しているということになる。
そうおもうと僕らアジアの美術愛好家はもうすこし東洋美術というものの偉大さについて自覚していいのではないか。
ジョセフ・ライト オブ ダービー
トスカーナの海岸の灯台と月光
そして今回、僕が最も興味を持ったのがこの作品、ジョセフ・ライト・オブ・ダービーという画家の作品だが、この光の扱われ方に目を奪われた。
ターナーの場合は光を心のフィルターを通してより抽象化して描いているが、この人の場合、より写実的で実際に僕らに目に見える世界に近い描き方をしている。ただ、現実の光よりも強く強調されていて、それがある種の異様な神秘性を生み出している。ただ、残念ながらこの写真ではそれがはっきりと伝わってこない。それを感じ取るには本物をみてもらうしかない……
もしかすると僕が当日スマホで撮影した写真の方がその辺のことがよくわかるかもしれないので、下に載せておきます。もちろんこの作品は撮影が許可されています。
僕がこの絵を見て驚いたのは、まるで本当に光源が絵の中にあってそこから四方八方に光が照射されているように見えることだ。もちろんそれは光源(この場合は月)の位置と、それが反射する山や港、海の位置、角度によって濃淡をつけているからであることは言うまでもない。こうやって文字に書いてしまえばそれだけのことなのだが、実際に眼の前で見ているとそんなに単純ではないようにおもえる。
光がそこかしこに偏在している、その偏在の仕方が実に精緻でしかもはっきりと実体を持っていて、光の粒子の一粒一粒が見えるようなのだ。
たぶん、絵を描くうえでなにを描くのが一番難しいかというとやはり光だと思う。明白な形を持たず、そこここに偏在しているからだ。つまり、光を描くということは「はっきりと形のないものを描く」ということになる。
この絵を見ていると、その偏在している光の「実在性」とでもいうのだろうか、それを感じるのだ。しかもそれが肉眼で見るよりも強調されているので、独特の神秘性を生み出している。
ターナーにしても、このジョセフ・ライトにしても、印象派の画家たち、そしてあの光の魔術師、フェルメールにしても、レンブラントにしても、また、日本や中国の高名な水墨画家にしても、後世に名を遺す画家というのはすべてこの「見えないものを見せる」ことに関して卓越した、ほとんど神がかりな力を持っている。
見えないものをどうやって描くのか……こうやって目の前にあるから描いたことは間違いない、間違いないが、どうやって?
この問いにはっきりと答えられる人はいるだろうか?たぶんだがそれを言葉で答えられる人はいないと思う。
彼らだって絵を学び始めて間もないころはもちろんできなかったに違いない、が、その技量がある一線を越える段階に来ると「自然に」その境界線をまたいでいたのではないだろうか、彼ら自身も気づかないうちに。
いろんな芸術の表現形態がある中で、絵と音楽はとくに創作者のその神がかり的な偉大さを感じ取ることができる分野だ。視覚と聴覚という人間のもっともはっきりと認識できる感覚器官で感じ取ることができるからだ。目に見えないものを見せ、耳に聞こえない音をきかせる…でも一体どうやって…
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