以前、楽天ブログをしていたころ、僕のブログをよく見に来てくれた人々のブログを久しぶりにめぐってみた。
東北のどこかに住んでいた人は今は南の島に住んでいるという記事があった。引っ越しの理由は明記していなかったが、あの事故のあと更新が長く途絶えていて、再開した時にはもう引っ越していたこと。その当時の文面に急にどことなく悲壮感が漂うようになったことなどから、福島原発事故が契機であったと僕は推察している。
まだ生まれてそれほど間もない幼児がいた人だから、彼女にとっては自然な選択だったのだろう。
幸せな人だなと思う、なぜなら奥さんが避難したくても旦那さんの反対で泣く泣くとどまっている人は大勢いるのだから。
そう思ってみるせいかその人のブログからは、幸福感があふれているように見える。
一人だけ訪問できない人がいた。
その人はやはり写真が趣味で、よく自分で撮った写真を載せていた。
ところがある時期に奥さまが脳の病気で倒れられて、それ以来仕事を辞めて奥さまの介護をひたすらやっていた人だった。
更新回数も激減し、たまに更新されてもその記事にはやはり悲壮感があふれていた。
その人のところだけは「お気に入り」に入っているのだが、いけなかった…
SNSの世界もやはり現実と同じで縁というものがあるみたいで、すれ違う人はすれ違うし、何度も帰ってくる人は帰ってくる。
そしてこれもやはり現実と同じで、適度な距離が大切。ほどほどに、ほどほどに。
2012年12月以降(マヤのカレンダーの終焉以後ということ)、自分とバイブレーションが合わなくなった人々との縁は徐々に切れていくということが、スピリチャルな世界では言われていた。魂の波長の違うもの同士は共存できなくなるかららしい。
驚くべきことに、僕を巡る人間関係もこれとほぼ時を同じくしてかなり変わった。
さて僕は高いほうに行ったのだろうか、それとも低いほうに行ったのだろうか(笑)
まぁどちらでもいい。なぜなら今のフリークエンシーを楽しんでいるから。
夏も盛りを過ぎてようやく乗り越えたなという安堵感に浸っている。
今は久しぶりに小説というものを読んでいる。
ドストエフスキーの大作だ。これだけは読んでおかなければ死ねないと前々から思っていたもの。
自分の頭がついていくかどうか正直不安だが、なんとかいまのところついていっている。
東北のどこかに住んでいた人は今は南の島に住んでいるという記事があった。引っ越しの理由は明記していなかったが、あの事故のあと更新が長く途絶えていて、再開した時にはもう引っ越していたこと。その当時の文面に急にどことなく悲壮感が漂うようになったことなどから、福島原発事故が契機であったと僕は推察している。
まだ生まれてそれほど間もない幼児がいた人だから、彼女にとっては自然な選択だったのだろう。
幸せな人だなと思う、なぜなら奥さんが避難したくても旦那さんの反対で泣く泣くとどまっている人は大勢いるのだから。
そう思ってみるせいかその人のブログからは、幸福感があふれているように見える。
一人だけ訪問できない人がいた。
その人はやはり写真が趣味で、よく自分で撮った写真を載せていた。
ところがある時期に奥さまが脳の病気で倒れられて、それ以来仕事を辞めて奥さまの介護をひたすらやっていた人だった。
更新回数も激減し、たまに更新されてもその記事にはやはり悲壮感があふれていた。
その人のところだけは「お気に入り」に入っているのだが、いけなかった…
SNSの世界もやはり現実と同じで縁というものがあるみたいで、すれ違う人はすれ違うし、何度も帰ってくる人は帰ってくる。
そしてこれもやはり現実と同じで、適度な距離が大切。ほどほどに、ほどほどに。
2012年12月以降(マヤのカレンダーの終焉以後ということ)、自分とバイブレーションが合わなくなった人々との縁は徐々に切れていくということが、スピリチャルな世界では言われていた。魂の波長の違うもの同士は共存できなくなるかららしい。
驚くべきことに、僕を巡る人間関係もこれとほぼ時を同じくしてかなり変わった。
さて僕は高いほうに行ったのだろうか、それとも低いほうに行ったのだろうか(笑)
まぁどちらでもいい。なぜなら今のフリークエンシーを楽しんでいるから。
夏も盛りを過ぎてようやく乗り越えたなという安堵感に浸っている。
今は久しぶりに小説というものを読んでいる。
ドストエフスキーの大作だ。これだけは読んでおかなければ死ねないと前々から思っていたもの。
自分の頭がついていくかどうか正直不安だが、なんとかいまのところついていっている。
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