今日は数週間ぶりに洗足の工房に来ています。
夢の街手しごと工房の風渡りの庭は春真っ盛りです。
写真は一日のイースターのお祝いにやって来た草の実や種や葉っぱで作られているひよこちゃん。
実はカンナちゃんと私がいた北海道の伊達のちいさな修道院でつくられたものです。
何度か朝早くのおミサに伺いました。
ちいさなおばあちゃんシスターがいる修道院で懐かしいです。
夢の街手しごと工房の風渡りの庭は春真っ盛りです。
写真は一日のイースターのお祝いにやって来た草の実や種や葉っぱで作られているひよこちゃん。
実はカンナちゃんと私がいた北海道の伊達のちいさな修道院でつくられたものです。
何度か朝早くのおミサに伺いました。
ちいさなおばあちゃんシスターがいる修道院で懐かしいです。
7年前まで私は魂の家族であった仲間と共に
ミュージカルショーを観ることの出来る
日本で始めてのエンターテイメントカフェをやっていました。
その上演されていたショーの一つに
「Earth Beat~大地の鼓動」と言うものがありました。
ちょうどロハスと言う言葉が使われる前、スローライフと言う言葉が生まれた頃です。
いまや、ナチュラル系の人にとってはバイブルの様になっている雑誌、
「天然生活」なんかもまだありませんでした。
このショーは「いのちの環」をテーマに作りました。
朗読・演奏・ミュージカルの部分から構成されていて、
ミュージカル部分はネイティヴアメリカンと白人たちの歴史の中で名高い
ジョン・スミスの物語をベースにしています。
ディズニーのアニメ「ポカホンタス」でもおなじみです。
朗読に使われた詩は「今日は死ぬのにもってこいの日」と言う
ネイティヴアメリカンに残されている詩集からのものでした。
決まった読み方をするのでなく、出演するキャストが
それぞれの感性において、その詩をその時感じたままに
自由に動きつつ「語る」というスタイルの朗読でした。
このスタイルで朗読をするのを聞いていると
今ははるか彼方の昔に語られた言葉たちが、
今も私たちの心にあるべきものであることが良くわかりました。
ネイティヴは7代先の子孫のために今日を生きると言います。
今日決めることが7代先に生きる子孫にとって大事なことかを考える。
その行動の奥にあるものを直に感じ取ることが出来ました。
それから「ミミズのカーロ」と言う、ドイツのある小学校での
ごみに関するエコ活動をテーマに会話が繰り広げられ、
「本当のごみって何か?」を話し合います。
そして土に帰らないごみは捨てないと言う話になり、
土に戻らないゴミを使って即興演奏を行うのです。
そして、今日作られた文明の利器である
エレクトーンと言う電子楽器を使い、
この楽器が今も語り継がれるネイティヴたちの文明のように
この先の時代に「善きもの」として語り継がれていくよう
心から祈りを捧げつつ、毎回キーボーディストに寄って
大地の音を再現した即興曲が演奏されていました。
そして白人とネイティヴの歴史に触れます。
作品の中ではひとつの結末を迎えますが、
その後行われたネイティヴに対する残虐な歴史も語ります。
そして、一番最後に舞台にはネイティヴの酋長の装いで俳優が現れ、
アメリカの歴史に名高い「シアトル酋長の手紙」が語られます。
バックには即興で俳優の演技にあわせた音楽が奏でられ
さらに一言一言が客席に染み渡りました。
最後、ショーの中では争った白人とネイティヴの二人が
がっしりと握手を交わします。
そしてネイティヴアメリカンに伝わるボディトークで
「われわれは兄弟。生命の環のなかに生きている」
と笑顔で言葉を交わすのです。
そんなショーをやっていました。
私は自分で書いたものではこのショーがとても好きでした。
華やかさにはかけますが、シンプルで暖かく、心に染み入るものでしたから。
もう先々週になりますが、「解決します!」の公演が終わってから
親しい方のご家族が相次いでご帰天なさいました。
そのうち2名の方はまだ30代前半の若い方々で、
どちらも突然の出来事でした。
7年前に突然に帰天したソウルメイトもまだ20代でしたから
若い方に対する周りの方のお悲しみを察することが出来ました。
私たち周りにいる人間は、お心を察することは出来ても
家族を突然に失う深い悲しみはやはり家族にしか分からないものだと思います。
私は経験上、そう感じています。
くしくもその亡くなられた方のお一人はソウルメイトのお誕生日に帰天され、
なんというか、この偶然に深い何かを感じずに居られませんでした。
春爛漫の自然や桜の中での突然の悲しい出来事は大きな衝撃を残すものです。
冬の静けさから、一気に芽吹きが起こり、すべてが変わりだす春。
自然も人も生命の輝きにあふれ、生き生きと動き出す春。
数年前、この春に悲しみを迎えたとき、その事が悲しくてたまりませんでした。
私だけが世界から取り残されたようでした。
人を失った日は辛いものですが、必ず来るべき日が来ないのはもっと辛かったりします。
私はソウルメイトと同じく四月生まれですが、お誕生日は辛いですね。
多分、きっと今なくなられた方のご家族はそうでしょうね。
予測のつかないことだったから、未来が変わったことも受け入れられず、
どうやったら元に戻れるのか、どうやったら生きていけるのか考えるけど
そんなことなんて全く考えられない状況だったし、
何を聞いても自分を責めてしまって…。
「生まれ変わり」のとか話をされても、隣に居た当事者は辛い。
生まれ変わって来ても、隣に居た人と同じ立場ではないからです。
親兄弟はそれでもまた会えるのだと思えるでしょう。
でも、隣で一生を生きる予定だった人には苦しいものだと思います。
一人ぼっちだって気持ちが渦巻きます。
あの頃はいろんなことが大変でした。
とにかく、よく生きてこれたよなと思います。
今も元通りになんてならない。そんなものでしょう。
「早く忘れて元気になれ」なんて他人が言ってはいけないせりふかもしれません。
結局は自分で乗り越えるしかないのでしょうね。
ただ、今は新しい道を歩くことも大事なんだと思えるようになりました。
そして、新しい道を歩くことが、今までの道をそれていくわけではないことも。
そして忘れる必要もないんだとも思っています。
そんなことを考えられるようになるには、人にも寄るでしょうが
結構長い年月がかかると思います。特に親しい人の死というのは大きいです。
そんな事を思い返している時に誕生日を迎えました。
複雑な誕生日でした。
けど、ふとこのショーを思い出しました。
「私たちは生命の環の中に生きている」
あの言葉を。
多分、あの頃、この言葉を聞いたら悲しかったでしょう。
さらりと受け入れることは出来なかったでしょう。
でも、今は何となく分かるのです。それが真実であることが。
そして、私たちは生命の織物の糸の一本であることが。
いまだいろいろな面で不安定な私はなぜか悲しい気持ちで誕生日を迎えたんです。
そうしたら、本当に、本当に久しぶりにソウルメイトが傍に来てくれました。
間違いなくソウルメイトでした。
きっと妙に孤独感にないなまれて寂しい気持ちでいたから、
人は一人ではないことを教えに来てくれたのかなと思いました。
そんな暖かいオーラでした。
私もいつか新しい世界に旅立ったとき、
親しい人の寂しさに寄り添える魂でありたいと思います。
私は人に誕生日を主張しないので、周りも思い出さず、
そのまま祝うこともなく過ぎていくことも多いのですが、
今年もそんな感じでおりましたら、ある友人がお祝いの言葉を
そしてカンナちゃんがプレゼントを持ってお祝いに来てくれました。
ありがたいものです(^^)
写真はカンナちゃんからのプレゼントの桜。
今年は桜を観に行けなかったから嬉しかったです。
感謝感謝です。
最後に、親しい人との別れの悲しみの中に居るすべての方へ
心を込めてお送りします。
「私たちは生命の環の中に生きている」
生命の織物~シアトル酋長の手紙
はるかな空は涙をぬぐい今日は美しく晴れた。
明日は雪が大地をおおうだろう。
けれど私の言葉は星のように変わらない。
ワシントンの大酋長が土地を買いたいと言ってきた。
どうしたら空が買えると言うのだろう? そして大地を。
私には解らない。
風の匂いや水のきらめきを、あなたはいったいどうやって買おうというのだろう?
すべてこの地上にあるものは私たちにとって神聖なもの。
松の葉の一本一本、岸辺の砂のひと粒ひと粒、
深い森を満たす霧ゃ草原になびく草の葉、虫の一匹一匹にいたるまで、
すべては私たちの遠い記憶の中で神聖に輝くもの。
私の体に血がめぐるように、木々の中を樹液が流れている。
私はこの大地の一部で、大地はわたし自身なのだ。
香りたつ花は私たちの姉妹。熊や鹿や大鷲は私たちの兄弟。
岩山の険しさも草原のみずみずしさも、
子馬のからだの温もりもすべて同じひとつの家族のもの。
川を流れる眩しい水は、ただの水ではない。
それは祖父の、そのまた祖父たちの血。
小川のせせらぎは祖母の、そのまた祖母たちの声。
湖の水面にゆれるほのかな影は、私たちの遠い思いでを語る。
川は私たちの兄弟。
渇きをいやし、カヌーを運び、子供たちに惜し気もなく食べ物を与える。
だから白い人よ、どうかあなたの兄弟にするように川に優しくして欲しい。
空気は素晴らしいもの。
それはすべての生き物の命を支え、その命に魂を吹き込む。
生まれたばかりの私に、始めての息を与えてくれた風は、
死んでゆく私の最後の吐息を受け入れる風。
だから白い人よ、どうかこの大地と空気を神聖なままにしておいて欲しい。
草原の花々が甘く染めた風の香りをかぐ場所として。
死んで星々の間を歩くころになると、
白い人は自分が生まれた土地の事を忘れてしまう。
けれど私たちは死んだ後でもこの美しい土地の事を決して忘れはしない。
私たちを生んでくれた母なる大地を。
私が立っているこの大地は私の祖父や祖母たちの灰から出来ている。
大地は私たちの命によって豊かなのだ。
それなのに白い人は母なる大地を、父なる空を、
まるで羊か光るビーズ玉のように売り買いしようとする。
大地をむさぼりつくし、後には砂漠しか残さない。
白い人の町の景色は私たちの目に痛い。
白い人の町の音は私たちの耳に痛い。
水面を駆け抜ける風の音や、雨が洗い清めた空の匂い。
松の香りに染まった柔らかい闇のほうがどんなにか良いだろう。
ヨタカの寂しげな鳴き声や、夜の池のほとりの
カエルのおしゃべりを聞く事が出来なかったら、
人生にはいったいどんな意味があるというのだろう。
私には解らない。
白い人には何故、煙りを吐いて走る鉄の馬のほうが、
バッファローよりも大切なのか。
私たちの命を繋ぐ為にその命をくれるバッファローよりも。
私にはあなた方の望むものが解らない。
バッファローが殺し尽くされてしまったら、
野生の馬がすべて飼いならされてしまったら、
一体どうなってしまうのだろう?
聖なる森の奥深くまで人間の匂いが立ちこめた時、
いったい何が起こるのだろう?
獣たちがいなかったら人間はいったい何なんだろう?
獣たちがすべて消えてしまったら、
深い魂の寂しさから人間も死んでしまうだろう。
大地は私たちに属しているのではない。
私たちが大地に属しているのだ。
たおやかな丘の眺めが電線で汚される時、藪はどうなるのだろう?
もう ない。
足の速い子馬と狩りに別れを告げるのはどんなにか辛い事だろう。
それは命の歓びに満ちた暮らしの終わり。
そして ただ生き延びるためだけの戦いが始まる。
最後の赤き勇者が荒野とともに消え去り、
その記憶をとどめるものが平原のうえを流れる雲の影だけになった時、
岸辺は残っているだろうか。 森は繁っているだろうか。
私たちの魂のひとかけらでも、まだこの土地に残っているだろうか。
ひとつだけ確かな事は、どんな人間も、
赤い人も白い人も、分ける事は出来ないという事。
私たちは結局おなじ一つの兄弟なのだ。
私がこの大地の一部であるように、あなたもまたこの大地の一部なのだ。
大地が私たちにとって掛け替えがないように、
あなたがたにとっても掛け替えのないものなのだ。
だから白い人よ。
私たちが子どもたちに伝えて来たように、
あなたの子どもたちにも伝えて欲しい。
大地は私たちの母。
大地に降り掛かる事はすべて、私たち大地の息子と娘たちにも降り掛かるのだと。
あらゆるものが繋がっている。
私たちがこの命の織物を織ったのではない。
私たちはその中の一本の糸に過ぎないのだ。
生まれたばかりの赤ん坊が母親の胸の鼓動を慕うように、
私たちはこの大地を慕っている。
もし私たちがどうしてもここを立ち去らなければならないのだとしたら、
どうか白い人よ、私たちが大切にしたように、この大地を大切にして欲しい。
美しい大地の思いでを、受け取った時のままの姿で心に刻みつけておいて欲しい。
そしてあなたの子どもの、そのまた子どもの、
そのまた子どもたちの為にこの大地を守り続け、
私たちが愛したように愛して欲しい。
いつまでも。
どうか、いつまでも。
ミュージカルショーを観ることの出来る
日本で始めてのエンターテイメントカフェをやっていました。
その上演されていたショーの一つに
「Earth Beat~大地の鼓動」と言うものがありました。
ちょうどロハスと言う言葉が使われる前、スローライフと言う言葉が生まれた頃です。
いまや、ナチュラル系の人にとってはバイブルの様になっている雑誌、
「天然生活」なんかもまだありませんでした。
このショーは「いのちの環」をテーマに作りました。
朗読・演奏・ミュージカルの部分から構成されていて、
ミュージカル部分はネイティヴアメリカンと白人たちの歴史の中で名高い
ジョン・スミスの物語をベースにしています。
ディズニーのアニメ「ポカホンタス」でもおなじみです。
朗読に使われた詩は「今日は死ぬのにもってこいの日」と言う
ネイティヴアメリカンに残されている詩集からのものでした。
決まった読み方をするのでなく、出演するキャストが
それぞれの感性において、その詩をその時感じたままに
自由に動きつつ「語る」というスタイルの朗読でした。
このスタイルで朗読をするのを聞いていると
今ははるか彼方の昔に語られた言葉たちが、
今も私たちの心にあるべきものであることが良くわかりました。
ネイティヴは7代先の子孫のために今日を生きると言います。
今日決めることが7代先に生きる子孫にとって大事なことかを考える。
その行動の奥にあるものを直に感じ取ることが出来ました。
それから「ミミズのカーロ」と言う、ドイツのある小学校での
ごみに関するエコ活動をテーマに会話が繰り広げられ、
「本当のごみって何か?」を話し合います。
そして土に帰らないごみは捨てないと言う話になり、
土に戻らないゴミを使って即興演奏を行うのです。
そして、今日作られた文明の利器である
エレクトーンと言う電子楽器を使い、
この楽器が今も語り継がれるネイティヴたちの文明のように
この先の時代に「善きもの」として語り継がれていくよう
心から祈りを捧げつつ、毎回キーボーディストに寄って
大地の音を再現した即興曲が演奏されていました。
そして白人とネイティヴの歴史に触れます。
作品の中ではひとつの結末を迎えますが、
その後行われたネイティヴに対する残虐な歴史も語ります。
そして、一番最後に舞台にはネイティヴの酋長の装いで俳優が現れ、
アメリカの歴史に名高い「シアトル酋長の手紙」が語られます。
バックには即興で俳優の演技にあわせた音楽が奏でられ
さらに一言一言が客席に染み渡りました。
最後、ショーの中では争った白人とネイティヴの二人が
がっしりと握手を交わします。
そしてネイティヴアメリカンに伝わるボディトークで
「われわれは兄弟。生命の環のなかに生きている」
と笑顔で言葉を交わすのです。
そんなショーをやっていました。
私は自分で書いたものではこのショーがとても好きでした。
華やかさにはかけますが、シンプルで暖かく、心に染み入るものでしたから。
もう先々週になりますが、「解決します!」の公演が終わってから
親しい方のご家族が相次いでご帰天なさいました。
そのうち2名の方はまだ30代前半の若い方々で、
どちらも突然の出来事でした。
7年前に突然に帰天したソウルメイトもまだ20代でしたから
若い方に対する周りの方のお悲しみを察することが出来ました。
私たち周りにいる人間は、お心を察することは出来ても
家族を突然に失う深い悲しみはやはり家族にしか分からないものだと思います。
私は経験上、そう感じています。
くしくもその亡くなられた方のお一人はソウルメイトのお誕生日に帰天され、
なんというか、この偶然に深い何かを感じずに居られませんでした。
春爛漫の自然や桜の中での突然の悲しい出来事は大きな衝撃を残すものです。
冬の静けさから、一気に芽吹きが起こり、すべてが変わりだす春。
自然も人も生命の輝きにあふれ、生き生きと動き出す春。
数年前、この春に悲しみを迎えたとき、その事が悲しくてたまりませんでした。
私だけが世界から取り残されたようでした。
人を失った日は辛いものですが、必ず来るべき日が来ないのはもっと辛かったりします。
私はソウルメイトと同じく四月生まれですが、お誕生日は辛いですね。
多分、きっと今なくなられた方のご家族はそうでしょうね。
予測のつかないことだったから、未来が変わったことも受け入れられず、
どうやったら元に戻れるのか、どうやったら生きていけるのか考えるけど
そんなことなんて全く考えられない状況だったし、
何を聞いても自分を責めてしまって…。
「生まれ変わり」のとか話をされても、隣に居た当事者は辛い。
生まれ変わって来ても、隣に居た人と同じ立場ではないからです。
親兄弟はそれでもまた会えるのだと思えるでしょう。
でも、隣で一生を生きる予定だった人には苦しいものだと思います。
一人ぼっちだって気持ちが渦巻きます。
あの頃はいろんなことが大変でした。
とにかく、よく生きてこれたよなと思います。
今も元通りになんてならない。そんなものでしょう。
「早く忘れて元気になれ」なんて他人が言ってはいけないせりふかもしれません。
結局は自分で乗り越えるしかないのでしょうね。
ただ、今は新しい道を歩くことも大事なんだと思えるようになりました。
そして、新しい道を歩くことが、今までの道をそれていくわけではないことも。
そして忘れる必要もないんだとも思っています。
そんなことを考えられるようになるには、人にも寄るでしょうが
結構長い年月がかかると思います。特に親しい人の死というのは大きいです。
そんな事を思い返している時に誕生日を迎えました。
複雑な誕生日でした。
けど、ふとこのショーを思い出しました。
「私たちは生命の環の中に生きている」
あの言葉を。
多分、あの頃、この言葉を聞いたら悲しかったでしょう。
さらりと受け入れることは出来なかったでしょう。
でも、今は何となく分かるのです。それが真実であることが。
そして、私たちは生命の織物の糸の一本であることが。
いまだいろいろな面で不安定な私はなぜか悲しい気持ちで誕生日を迎えたんです。
そうしたら、本当に、本当に久しぶりにソウルメイトが傍に来てくれました。
間違いなくソウルメイトでした。
きっと妙に孤独感にないなまれて寂しい気持ちでいたから、
人は一人ではないことを教えに来てくれたのかなと思いました。
そんな暖かいオーラでした。
私もいつか新しい世界に旅立ったとき、
親しい人の寂しさに寄り添える魂でありたいと思います。
私は人に誕生日を主張しないので、周りも思い出さず、
そのまま祝うこともなく過ぎていくことも多いのですが、
今年もそんな感じでおりましたら、ある友人がお祝いの言葉を
そしてカンナちゃんがプレゼントを持ってお祝いに来てくれました。
ありがたいものです(^^)
写真はカンナちゃんからのプレゼントの桜。
今年は桜を観に行けなかったから嬉しかったです。
感謝感謝です。
最後に、親しい人との別れの悲しみの中に居るすべての方へ
心を込めてお送りします。
「私たちは生命の環の中に生きている」
生命の織物~シアトル酋長の手紙
はるかな空は涙をぬぐい今日は美しく晴れた。
明日は雪が大地をおおうだろう。
けれど私の言葉は星のように変わらない。
ワシントンの大酋長が土地を買いたいと言ってきた。
どうしたら空が買えると言うのだろう? そして大地を。
私には解らない。
風の匂いや水のきらめきを、あなたはいったいどうやって買おうというのだろう?
すべてこの地上にあるものは私たちにとって神聖なもの。
松の葉の一本一本、岸辺の砂のひと粒ひと粒、
深い森を満たす霧ゃ草原になびく草の葉、虫の一匹一匹にいたるまで、
すべては私たちの遠い記憶の中で神聖に輝くもの。
私の体に血がめぐるように、木々の中を樹液が流れている。
私はこの大地の一部で、大地はわたし自身なのだ。
香りたつ花は私たちの姉妹。熊や鹿や大鷲は私たちの兄弟。
岩山の険しさも草原のみずみずしさも、
子馬のからだの温もりもすべて同じひとつの家族のもの。
川を流れる眩しい水は、ただの水ではない。
それは祖父の、そのまた祖父たちの血。
小川のせせらぎは祖母の、そのまた祖母たちの声。
湖の水面にゆれるほのかな影は、私たちの遠い思いでを語る。
川は私たちの兄弟。
渇きをいやし、カヌーを運び、子供たちに惜し気もなく食べ物を与える。
だから白い人よ、どうかあなたの兄弟にするように川に優しくして欲しい。
空気は素晴らしいもの。
それはすべての生き物の命を支え、その命に魂を吹き込む。
生まれたばかりの私に、始めての息を与えてくれた風は、
死んでゆく私の最後の吐息を受け入れる風。
だから白い人よ、どうかこの大地と空気を神聖なままにしておいて欲しい。
草原の花々が甘く染めた風の香りをかぐ場所として。
死んで星々の間を歩くころになると、
白い人は自分が生まれた土地の事を忘れてしまう。
けれど私たちは死んだ後でもこの美しい土地の事を決して忘れはしない。
私たちを生んでくれた母なる大地を。
私が立っているこの大地は私の祖父や祖母たちの灰から出来ている。
大地は私たちの命によって豊かなのだ。
それなのに白い人は母なる大地を、父なる空を、
まるで羊か光るビーズ玉のように売り買いしようとする。
大地をむさぼりつくし、後には砂漠しか残さない。
白い人の町の景色は私たちの目に痛い。
白い人の町の音は私たちの耳に痛い。
水面を駆け抜ける風の音や、雨が洗い清めた空の匂い。
松の香りに染まった柔らかい闇のほうがどんなにか良いだろう。
ヨタカの寂しげな鳴き声や、夜の池のほとりの
カエルのおしゃべりを聞く事が出来なかったら、
人生にはいったいどんな意味があるというのだろう。
私には解らない。
白い人には何故、煙りを吐いて走る鉄の馬のほうが、
バッファローよりも大切なのか。
私たちの命を繋ぐ為にその命をくれるバッファローよりも。
私にはあなた方の望むものが解らない。
バッファローが殺し尽くされてしまったら、
野生の馬がすべて飼いならされてしまったら、
一体どうなってしまうのだろう?
聖なる森の奥深くまで人間の匂いが立ちこめた時、
いったい何が起こるのだろう?
獣たちがいなかったら人間はいったい何なんだろう?
獣たちがすべて消えてしまったら、
深い魂の寂しさから人間も死んでしまうだろう。
大地は私たちに属しているのではない。
私たちが大地に属しているのだ。
たおやかな丘の眺めが電線で汚される時、藪はどうなるのだろう?
もう ない。
足の速い子馬と狩りに別れを告げるのはどんなにか辛い事だろう。
それは命の歓びに満ちた暮らしの終わり。
そして ただ生き延びるためだけの戦いが始まる。
最後の赤き勇者が荒野とともに消え去り、
その記憶をとどめるものが平原のうえを流れる雲の影だけになった時、
岸辺は残っているだろうか。 森は繁っているだろうか。
私たちの魂のひとかけらでも、まだこの土地に残っているだろうか。
ひとつだけ確かな事は、どんな人間も、
赤い人も白い人も、分ける事は出来ないという事。
私たちは結局おなじ一つの兄弟なのだ。
私がこの大地の一部であるように、あなたもまたこの大地の一部なのだ。
大地が私たちにとって掛け替えがないように、
あなたがたにとっても掛け替えのないものなのだ。
だから白い人よ。
私たちが子どもたちに伝えて来たように、
あなたの子どもたちにも伝えて欲しい。
大地は私たちの母。
大地に降り掛かる事はすべて、私たち大地の息子と娘たちにも降り掛かるのだと。
あらゆるものが繋がっている。
私たちがこの命の織物を織ったのではない。
私たちはその中の一本の糸に過ぎないのだ。
生まれたばかりの赤ん坊が母親の胸の鼓動を慕うように、
私たちはこの大地を慕っている。
もし私たちがどうしてもここを立ち去らなければならないのだとしたら、
どうか白い人よ、私たちが大切にしたように、この大地を大切にして欲しい。
美しい大地の思いでを、受け取った時のままの姿で心に刻みつけておいて欲しい。
そしてあなたの子どもの、そのまた子どもの、
そのまた子どもたちの為にこの大地を守り続け、
私たちが愛したように愛して欲しい。
いつまでも。
どうか、いつまでも。