KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

感謝し、全身全霊で正々堂々と

2012-03-22 | KOFUKU日記


《甥っ子ちびくんとぴーちゃんは仲良しさんです♪》

春の選抜高校野球が始まりました。
我が家のじいじこと我が父は高校野球が大好きで
幼い頃、学校休ませられてまでも、弁当持って県内の予選を応援に行き、
夏も春もテレビの前で太鼓や鳴り物を揃え、応援させられましたもんです(;^ω^)

高校野球をするお兄さんたちのまっすぐな真剣さを
幼いころから目の当たりにして、その純粋さに感じるところがありました。

そのせいか、試合は見なくても
(というかどちらにも感情移入しちゃうため、
必ず勝敗がつくから辛くてみられないのでアリマス)
入場行進、選手宣誓だけは見るのですが、
かならず号泣しちゃうんですよねぇ(~ω~;)))

高校野球に漏れず、なんか一生懸命やっている方とか
子どもらが集団で何か必死にやるって事に感動しちゃうんです。

昔はその「一生懸命」って行為は人として当たり前のものだった気がします。
何事にたいしても誠実に一生懸命に人は生きていることが美しさだったから、
誰でもその純粋さが深く分かり、そしてそこまでの努力を思いやることも出来、
わたしたちは余計に感動できたんだと思うのです。

でも今は違う気がします。
全員が全員ではないけれど、多くの人は違うんだなって感じます。

人は不器用でも一生懸命に誠実に丁寧に生きることよりも
どれだけ合理的に、端折って簡単に事をすすめる事が当たり前になりました。

それはどんどんひどくなっていって、その為になら人も蹴落とすし、
自分が大変な思いをしないように、嘘をついてでもうまく立ち回って、
適当に生きることが「良い」とすら言われるようになって来ています。

私はおバカさんだからかも知れないけれど、そういうのは嫌いです。
人と同じことをするなら、不器用で、うまくできなくてもいい、
出来る精一杯で丁寧に嘘をつかずに生きていきたいのです。

だって、それって自分で自分を貶めるようなものです。
自分でじぶんを傷つけるようなものです。

それでも自分の道に誇りを持ってて、
地獄への道へも厭わないという覚悟でやるなら
逆にそれでもいいと思うけれど、今の人はそうじゃない気がする。
今、自分が通る道が大変なことが嫌なだけじゃないかと感じるのです。

そういう覚悟もなく、ただ今を回避するためにそうしている人は
きっと今は良くても、自分の最後か訪れた時に恐ろしいと思うだろうなぁ。
私はそう思う。だって心は気づいてる、気がつかないふりや、
それでもいいと心をごまかして良しという事にしているだけだから。

昨日、東日本大震災で大きな被害のあった
石巻工の主将さんが選手宣誓をされました。
とても、とても素晴らしい選手宣誓でした。

この選手宣誓は石巻工選手の皆さんが、
それぞれ、思うこと、伝えたいことを皆で出し合って
いろんなことを思い出し、考え、
深い思いに涙しながら考えたものだそうです。

震災当時、ボールとバットが数本しか残らず、
その道具だけで部活を再開したと聞きました。
沢山の悲しみを背負いながら大変だったことだろうと想像します。

こんな内容です。

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<選手宣誓全文>

宣誓。

東日本大震災から1年。日本は復興の真っ最中です。

被災をされた方々の中には苦しくて、心の整理がつかず、
今も当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、
悲しみに暮れている方がたくさんいます。

人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。

しかし日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、
その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。

だからこそ日本中に届けます。
感動、勇気、そして笑顔を。
見せましょう。日本の底力、絆を。

われわれ高校球児ができること。
それは全力で戦い抜き、最後まで諦めないことです。

今、野球ができることに感謝し、
全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。

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泣きました。
本当にしみじみと胸に響き、涙が流れました。

この選手宣誓は、たとえ、震災に合わなくても、
人生で一度でもいい、真剣に必死に頑張って
精一杯に生きたことのある人なら涙がながれるはず。

愛する人との別れや大事な人を失ったことのある人なら涙がながれるはず。

人間として、大切なものを、大切に生きている人なら
きっときっと心に深く残ったはずです。

人間は孤独と戦う生き物と言われますが
それは「答えのない悲しみを受け入れること」でもあります。
真剣に生きていれば、そこと立ち向かう日々が必ずあって
その悲しみを受け入れることで一歩一歩と歩んでいくものだからです。

けれど、それは本当に辛く苦しいものです。
そこは真っ暗な、真っ暗な闇の世界です。
私も同じように愛する人を失い、その闇の中にいます。
だからお気持ちが痛いほどわかります。

石巻工の皆様を始め、被災地の皆様は
その苦しみと今まさに向き合っておられます。
その闇の深さはどれだけ深いものかと…。
本当に心から祈り向けずにいられません。

こうしてまっすぐに生きている人の偽り無い言葉を聞くと心が震えます。
本来、人はまっすぐに生きようとするものだからでしょう。

でも今、人は変わり始めています。
自分に降りかかる、わずかな痛みや悲しみや苦しみをも恐れ
家族や愛する人をも、自分の痛みを減らすためになら偽るのです。
痛い思いをしたくなくて、結局、大事な人を深く傷つける。
そしてそんなことをしてしまった自分を傷つける。
あまりにも悲しい現実です。

でも、変わることはできるはずです。
生きることに恐れを持たないことは難しい。
でも、立ち向かう努力はできるはずです。

人間が本当に必死に頑張って生きているとき
そういう恐れは乗り越えなければできません。
そんなリスクを受け入れられなくてはできません。
だから、必死に生きれば、それは変えられると思う。

時にポジティヴな考えをのみ良しとする人の中には
「闇からは闇しか生まれない」という方もあります。
ある面から見ればそういうことも在るのかもしれない。

でも、本当に悲しみに沈んだことのある人は
きっとそんな風に思えないし、思いたくない。
人にもそんな事は言えない、と私は感じます。
だってそんな希望のない言葉にこそ未来は見えないから。

神様が光あれ、と言って闇の中に光を作られたなら、
いつか光は射すものだと思うのです。
しかも闇が無かったら、光は見えません。

私が知る限り、相反するものは、相反する相手を知るためにあり
それを知った時には、オモテウラのない「ひとつ」になるのです。

だから、闇を歩くときは、光を見つける時、
そう思うのです。

闇のなかなんだもん。
まっすぐ歩けなくても当たり前。
何も見えなくたって当たり前。

でも、勇気をふるって歩く、
精一杯あるく。
躓いたって歩く。
そこに光が生まれるのだと思います。
差し込む光は、きっと私たちの中にあるのだから。

だから、恐れていたっていい、もがいたっていい、
ただ信じて、必死に歩いていきましょう。
必ず、答えはみつかります。

この宣誓の中に、
必死に誠実に生きている人の言葉の中に
その答えはあります。

「全力で戦い抜き、最後まで諦めず、
感謝を忘れずに、全身全霊で正々堂々と」

そうありたいと思う。
わたしも不器用でも、難しくても、感謝忘れず、諦めず、
正々堂々と全身全霊をかけて、今の精一杯で生きたいと思うのです。

きっとその向こうで光に会える。

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必死に生きようとする人へ
*今の自分と向き合い、振り返り、感謝し、一日を過ごすために*
カトリックの祈りより


【朝の祈り】

朝の祈り新しい朝を迎えさせてくださった神よ、

きょう一日わたしを照らし、導いてください。

いつもほがらかに、すこやかに過ごせますように。

物事がうまくいかないときでもほほえみを忘れず、

いつも物事の明るい面を見、最悪のときにも、

感謝すべきものがあることを、悟らせてください。

自分のしたいことばかりではなく、

あなたの望まれることを行い、

まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを

見いださせてください。





【夕の祈り】

一日の働きを終えたわたしに、やすらかな憩いの時を

与えてくださる神よ、あなたに祈り、感謝します。

きょう一日、わたしを支えてくれた多くの人たちに

たくさんの恵みをお与えください。

わたしの思い、ことば、おこない、おこたりによって、

あなたを悲しませたことがあれば、

どうかおゆるしください。

明日はもっと良く生きることができますように。

悲しみや苦しみの中にある人たちを、助けてください。

わたしが幸福の中にあっても、困っている人たちを

忘れることがありませんように。