KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

3月も半ばになりました*報恩謝徳

2013-03-14 | KOFUKU日記



なんだかすっかり月いちアップになりつつあるブログです…(;・∀・)
実は明日から2月という頃にこの記事書き始めたんでしたが…
あっという間に2月が終わって3月になって、しかも半ばになってしまいましたヽ(´Д`;)ノ
すっかりのっそりカメさんな私です。
でも行動まではいかなくても、記そうと言う気持ちが萎えていないのが救いかな。

さて、気を取り直して2月を振り返ってみようと思います。
まずはレディ2匹たちのヒートが終わって、メンズ2匹がお預かりから帰宅。



【やっぱり男の子がいると賑やかです(´∀`)】

しばらくは女の子メインで、ちょっと穏やかな日々でしたけれども
緊急手術をしたろまくんの経過もよく、すっかり走り回れるようになり、
男の子も戻って、ちわわンず6匹の賑やかな毎日が戻ってきております。



【やっぱり、みんな一緒が楽しいね(o^^o)】



そして~~~~(^-^)/



【我が家の長女ピグ姫ちゃんが12歳のお誕生日を迎えましたヾ(@⌒ー⌒@)ノ】

2月17日はピーちゃんの12回目のお誕生日でした。
人間にしてみたら64歳位になります。
相方さんが病院で回復に向かうごとにフサフサになっていたピーちゃんも
相方さんをなくしてから、やっぱりガクンと年をとりました。
私もそうですが、急激に白いものが増えて、毛の量も減り、パサパサな感じに…。
初めて涙やけも出来て、一時期は命も心配するほどだったのですが、
ピピちゃんが来てくれて、距離はありながらも少しずつ元気になり、
今は沢山の弟妹に囲まれて、いろいろ大変そうですが(^◇^;)
時にはじゃれたり、追い掛け回したりして、少し元気になりました。
ただ、やはり歳はとっていて白内障も始まり、さみしそうにしていることもあります。
そこは私と同じ気がします。相方さんを思い出すのでしょうね。
きっと私よりもさみしいんだと思います。
ただ思い切って南国に来て、輝く光の中、実家のお庭や広い野原や浜辺を散歩したり、
ゆっくりと暮らせるようになり、そこは本当によかったな~と思っています。


  
〈photo by Kanji Yonezawa〉

12年前、たった350gの小ささでやってきた彼女。
12年のあいだに一番愛する飼い主を2度亡くすという悲しみを越えて
今では6匹のちわわんズたちの一番しっかりおねえちゃんになりました。
悲しくさみしい思いをした分だけ、これからもたくさんたくさん
幸せにシアワセに元気にゲンキに穏やかに過ごしてくれたら嬉しいです(*^_^*)
私たちのところに来てくれて、本当に本当に心から感謝しています。
ピーちゃんを大切にしてくれる全ての人にこの場を借りて心より御礼申し上げます。
ぴーちゃんを愛してくれてありがとうございます。
皆様の愛に包まれて、こんなに大きくなりました。
みなさまの愛情にこころより感謝もうしあげます。

ピーちゃん、お誕生日おめでとう(*^_^*)
生まれてくれてありがとう。
出会ってくれてありがとう。
生きててくれてありがとう。
これからも仲良くしようね。
ずっとずっと大好きだよ~(*´ω`*)






【チワワンず兄弟・長男のまろたんも春の始まりの陽だまりの中、
笑顔で元気よく遊んでおります!なごむわ~~~(*^_^*)】



さて、2013年もはや3ヶ月目でございますね。
昨年は夏前あたりから体の不調や悲しみが今まで以上に大きく募り
また年末に向かうに連れて、家族との関係や生命の問題が迫った年でした。
松が明けたら、ちびの急な臍ヘルニア手術等が有り、
お嬢さん方にヒートが来てやっと一息ついたというところです。

今年に入っても、家族などの心配は変わらず、カラダの調子も去年とあまりかわりません。
歳もとるわけで、ますます出来ないことも増えていっている訳です( ̄▽ ̄;)
ブログもますますのスローペース更新!のろのろ亀さんに、どんどん進化していってます。

でも昨年程には焦らないというか、2年近くかかって、
やっとこのペースがつかめてきた気がしています。
多分、今はこのペースが出来る範囲なのでしょう。
まあ、焦らないか?と言ったらぜんぜん嘘なんですけどね(^_^;)
でも、しょうがないな~って思えるようにもなってきました。

相方さんがなくなって、調子が狂ってしまってから2年以上、家の中に引きこもってるわけです。
でも、気がついたら、そのおかげで今まで向き合えなかったことや、
新しく出会った事に目を向けられていると分かったりもしました。

そんな経験の中で、今年一年、いいえ、一生をかけて向き合いたいことはなんだろう?
と考えたとき、ふっと浮かんだ言葉が
「これは与えられたもので、通らねばならないものだった」
と言った相方さんの言葉と「報恩謝徳」という言葉でした。


「これは与えられたもので、通らねばならないものだった」
これは亡き相方さんが、最後に演じた役について私に語った言葉なのです。

いま私と世界をつなぐ窓口は、相方さんの形見のガラパゴスケータイとPCです。
ネットの世界で知りましたが、今の世の中、人を分けることが常らしく、
ネトウヨやら左翼とか、人にもいろいろな形容があるみたいですね。
私はそのどこにも当てはまらない、と自分では思っています(笑)

うーん、強いてゆうなら博愛とか平和とかが自分にとってとても大切なものです。
たまたま霊的な体験を多くしてきたため、スピリチュアルな人とも言われますが
その能力を効果的に使った霊能力的行動や、人を助ける行為などは一切できません( ̄▽ ̄;)
単純に自分もビビり、人もビビらせで終わることが多いですが


そんな私は愛と真実と調和をモットーとして生きている為、
そういうのを嫌う人には、気持ち悪かったり煙たかったりするようです。
本当に親しい人の中には、それを嫌う人は一切いなくて
ほとんどが同じような博愛の精神を大切にする人ばかりだったため、
今まではほとんど、そう言った圧力を感じたことがありませんでした。

でも不特定多数の方々と関わるようになってからは、
そう言う部分で否定的な言葉を投げかけられることもあります。
ここ最近もそう言うことがありました。

そんな中で、しみじみと感じた事は
「それでもやっぱり」
私は博愛平和主義で生きていきたい、と言うことです。

投げかけられた、愛とか絵空事みたいなことを言うとか、
愛や思いやりで人を放射能などから人をどうやって助けられるのか?
などの言葉がありましたが、そう言う言葉を受け止めて思うに、
やっぱり、そう言う言葉の類は、ちっとも美しくないし、
そんな愛情を感じない言葉に、まったくもって興味が湧きませんでした。

私はやっぱり、おかしいとか、キモいとか、
愛とか平和なんてくだらないとか言われても
そのくだらないと言われてる愛や美しさを感じる視点から
世の中を見て、考えて、行動していきたいと思いました。



【報恩謝徳】 
ほうおんしゃとく、という言葉があります。

恩に報い徳に謝す。 恩に感謝し報いること。
その徳に感謝して受けた恩に対して自分のできる限りのことをしようという気持ち。
報恩は受けた恩に報いることで報徳ともいう。
謝徳は受けた恩に対して感謝の気持ちを表すことで謝恩ともいう。
厳密には恩に報いるのではなく、受けた恩徳に対して
如何ともしがたい感謝の気持ちが芽生えてどうしても報いたくなることを示す。


この「報恩」という言う言葉を冠した二人芝居があります。
相方さんがこの世で出演した最後の作品になりました。

相方さんが演じた「報恩」
こんな話です。

********************************

ミャンマーと日本のつながりを作ろうと奔走する
青年オヤマとミャンマー人のススの日々葛藤のお話。
たった二人だけでセットも殆ど無い場所で演じられます。

ひょんな事からミャンマーと縁を持った青年オヤマと
それを案内したミャンマーの女性スス。
青年オヤマが初めて訪れたミャンマーの地で目にしたのは
自分の得を考えず、人のために奉仕をし「徳」を積むミャンマー人の姿でした。
ただ日本人には違和感の残るものではありましたが。。。(笑)
仏教が深く浸透し、自分の財産を使い果たしても
困った人を助ける国、ミャンマー。
貧しくても飢えたホームレスやストリートチルドレンはいない。
助け合いの心から彼らはまわりに助けられるからだという。
そんな文化を持つ国、ミャンマー。

オヤマが初めて訪れたミャンマーでススに案内された場所は
日本国土に向けてちいさな墓標が立つ
「日本人兵士達19万人の眠るお墓」だったのです。
第二次世界大戦中「インパール作戦」によって亡くなられた
19万人の戦没者達の慰霊地でした。

そこでオヤマが見たのは誰に頼まれるでもなくお墓を掃除する
ミャンマーの女性達の姿でした。

「誰にも頼まれてもいないのにやってるの?あのお母さん達?」
「そう、功徳つんでる。」

青年オヤマはその二つの現実に衝撃を受けます。
そして彼の中に想いが生まれるのです。

「私は衝撃を受けた。
何かわからないものに背中を押されるように、
この国の小さな善意の人たちに、何か、たくさんのものを返さなくては、
と強く感じた。なにか、たくさんのもの…
この血で十九万人もの日本人が命を落とした。
そのたくさんの命たちが受けた恩。
そして十九万もの日本人が、ここで命を落とした意味…これでいいのか。
ただここでこんな小さな墓石を建てただけでいいのか。
それで、ここで散っていった十九万人もの…
誰かの父・誰かの兄・誰かの弟・誰かの息子。
…そういう彼らを失った日本中の母親の涙が報われるのか。
…そんなわけ無い。そんなわけないじゃないか!」

そして日本とミャンマーの架け橋になろうと
ミャンマー交流協会を設立、彼は奔走を始めます。
もちろん採算は二の次。

「今つながりがなくなれば、あそこで死んだ人はどうなる?
50年も60年も誰も来ないまま、日本から忘れ去られたら
誰も浮かばれない」
その想いが彼をひたすらに動かします。

けれど次第にわかってくるミャンマーの現実。
ススの言葉にいろいろと企画を立てますが、
日本とミャンマーの政治や経済や文化のギャップから
なかなか上手く事は運びません。

けれどもある日、大きな助っ人達と出会います。
日本大学の石井進教授と日本きっての眼科医・藤田善史医師。
そして紫外線の多いミャンマーで多くの人が白内障で失明する事実。
貧困で病院にいけない国の現実。
助っ人となった彼らの協力を得て全くのボランティア、
善意での眼科医療支援が始まったのです。
無料の治療・手術。そして人材育成。
少しずつ形になってゆく活動。
そんな日々の中でオヤマは思います。

「後継を生み出すという事は、未来に日本とミャンマーのつながりをつむぐことだ。
19万人の戦没者達に、この為に自分達はここに来たのだと思ってもらいたい。
みんなのキラキラ輝く笑顔。
これこそが間違っていない証拠だ。
どこにも負けない、金では買えないもので、ミャンマーと日本が繋がっている。
私とススの行動は表に出ることは無い。
橋で言えば梁の部分だ。それでいい。
この橋の上をこれからたくさんの日本人とミャンマー人が行き交えばいい。
19万人の戦没者も…きっとそう思ってくれるはずだ。」

ミャンマーと日本を繋ぐ架け橋になろうとする二人。
日本ではあまり知られていないミャンマー(ビルマ)と日本の物語。

********************************

これは実話です。

相方さんはこれを演じることになったとき、
彼は戦没者墓苑に日々出向き、ミャンマーの日本人墓地の写真を用意し
それを前にしてひたすら考えていました。
善意とは何か、報恩とは何か。
考えるというより、祈りに近かったと思います。


報恩パンフレットより相方さんのコメントをご紹介させて頂きます。

「千鳥が淵の戦没者墓苑に行き、花を添えて両手をあわせて見たのですが、
どうにも心の中に言葉が出てこないのです。
ただ静かに手を合わせる以外、もうどうしようもありませんでした。
戦後に生まれた人間として、これが正直なところだと思います。
でも素通りできることではないとわかっているのも正直なところです。
たとえ戦没者たちの心にまっすぐ向き合う勇気は無くても、
「なにか」はできるように思います。
今まで私自身は、ボランティア、支援などという事に関して
どこか社交辞令的なもの、あるいは心の中の見返り的なものが
どこかにあるような気もしていたのですが、
断じてそういうものではなかったのですね。
どこか、芸術にまっすぐ向き合う心に似たものを感じます。
小山さんをはじめとして、奔走され、今も活動を続けられている方々の
ご紹介の一かけらを担えればと、強く感じます。」


相方さんは心豊かなオヤマさんを演じていました。
くすっと笑って、ほろっと来る、人情味あふれる
お金ではない、熱い心意気を持つ純粋な人でした。

もともと善意の塊のような人でしたが、
善意を持つことの裏に嘘偽りはないのかを自問する人でした。
この作品を通し、生身の彼自身が実生活で善に対する素直な意識を持ち、
行動する愛への確信を持ったのがとても印象的でした。


この世の中にはたくさんの人がいて、いろんな考え方があります。
神様でもない私は、どれが正しくて、どれが正解だとか私は言えません。

大体、この世には善を装った悪なんて腐る程あって
悪と見えて善だったりすることも腐るほどあります。
しかも、善も悪もそれをはかる人間の立ち位置で変わるものです。
イスラムの「聖戦」しかり、太平洋戦争時の日本の天皇軍国主義しかりです。

では、何を基準にその善なる意識を決めるのか?
これはもう自分の魂にほかなりません。
そして、それを決めるためには学び、知ることが必要。
その上で考えなくてはなりません。自分の頭で。

その世界のギャップを知り尽くした頭と心で行う報恩謝徳。
言うは簡単、行うは難し、です。

けれども、私はオヤマさんやススの様に、考え行いたいと思うのです。
自分が自分の力で精一杯出来ることは何か?
それを考えて生きたい。

功徳を積む。

私は宗教は固定のものを持っていませんが、
仏教で言う功徳、キリスト教で言う天に宝を積んでいくという行為を
真に心で行える人間になりたいと、この2013年に思ったのです。