KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

♪おたまじゃくしは…♪

2010-04-22 | KOFUKU日記


♪おーたまじゃっくしぃわぁ かぁえるぅのこぉ~♪
 
ってことで、おたまじゃくしはカエルさんのお子さんですね。
決してなまずのお子さんではございませんことは皆様もご存知のとおりです。

世には「カエルの子はカエル」と言う、すごい言葉があります。
一発で「努力」と言う希望的な言葉を打ち砕くすごさです(^^;)
やっぱ、才能ってのは多くの場合、遺伝するものなのですなぁ。

先日、TVでも、そういうのをやっていて、遺伝学の有名な先生が
「こういうと努力とか、頑張れば出来る、って言葉を無にしちゃいそうだけど
遺伝の力というのが大きいと言うことは立証されています」
とすまなそうに^^;おっしゃっておりました。

更に先日ネットに現れた医学的検証記事に寄れば
「こどもの頃の英才教育は知的発達に意味がない」そうで…。
フラッシュカードとかドンだけやっても全く意味ないし、
逆に学びたくない子の基盤を作る可能性もあるとか書いてあって
こどもに関わってきた私には、お母さんたちの悲鳴が聞こえそうでしたね(^^;)

以前、外国のある先生にフラッシュカードは意味がないと聞かされ、
それはどうしてですか?と聞いたら、
「多くの人は短時間のうちに物を判断することが知育に繋がると考えているが、
やっていることは犬にお手を教えているのと同じです。
同じ図柄、同じ意味のフラッシュカードは反復能力(だったかな?)は育てるけど、
それは身体と脳が記憶していることに反応するだけに過ぎない。
本当に知育につなげるには、そのスピードで思考することが大事。
つまり考える、頭と心を使わないと意味がない。
だからフラッシュカードより、ゆっくりで善いから
考えながらお話を聞いたり、本を読んだり、芸術するほうが
頭の良い子を育てる基本になるのです。」
と教えてもらい、私自身はそのとおりだなあと思っておりました。

そんな中でこの「才能は遺伝する」って話題、
とってもタイムリーでした。

と、言うことで、
世の中には「天は二物を与えず」をかるーくクリアして、
二物も三物も持ってる、なんともうらやましい方々が存在いたします訳です。

俳優業、それも日本でも一握りの位置に存在することを許された
日本を誇る俳優さんたちが私の周りにはたくさん存在いたしますが、
やっぱりそういう方にもそういう遺伝系の人が多いですね。
お父さんやお母さんが俳優さんとか女優さんとか
音楽家とか画家とか芸術系の方が多い気がします。

TVの遺伝の先生に寄れば、環境もかなり影響するって事でしたが
やっぱり親御さんや近しい方がそうだと環境も必然的にそうなりますもんね。
うーん、やっぱり遺伝と環境は同一の場にある気がしてきました。

だって子どもの頃は親がすべての世界の架け橋ですもんね。
小学校の3,4年生になれば自分の世界が目覚めてくるので
自分で判断するようになるから別ですが、
それ以下のちいさなこどもにとってどんな親も絶対的なもので、
絶対に間違いがないものですもん。
親の言うことは全部信じちゃうし、そんな親を正しいと模倣をして育つ。
となれば、親の身近にあるものがまず身近になっていくんでしょうね。
いわゆる環境的な遺伝ですか。

私の知ってる人にお掃除が全く出来ない女性が居ます。
出来ないって言うか、全くしない(^^;)
精神的な理由なのかなーと思っていたらば違いました。
親御さんも全くお掃除をしないんだそうです。
だから彼女はお掃除のやり方や必要性を感じないわけですね。
お掃除をしてない部屋で育ってきたから、掃除しなくても気にならない。
だってそれが当たり前なんだもん!って感じ??

と、思えば、これまた友人にお掃除がとても上手な人が居ます。
その方のお母さんはお掃除好き。ってか、潔癖症に近い(^^;)
だから、その友人は常にフキン持って歩く感じです(笑)

これら、まさしく「遺伝」の力でしょうかね。
そう考えると自身の思考や行動が未来を作るのだとひしひしと感じちゃいますねー。


さて、今回のトップの写真は最近の洗足のクラフトマーケットプレイスの一部。
カンナちゃんや私の作品の中にちょこんと置かれている額。
実は夢の街手しごと工房の助っ人、米澤さんのお母様の作品なんです。

えー、クラフティアン米澤氏の本職は俳優、
そして画家(プロ)と言うのは一部で有名な話ですがー、
これまた遺伝の神秘のなせる業を見ちゃいましたよー。

クラフティアン米澤氏のお母様、米澤千恵子さんは
実はこのデコパージュと言う芸術の先生で作家さんなのです~!

先日、私たちの工房にご見学に来てくださりまして、
クラフティアン米澤氏にお願いして制作していただいている
「クラフトデコレーション用の木の額」をお買い上げ。
そしたら、こんな素敵な作品になって里帰りいたしました!

作品は二つ。
どちらも私たちの好きなアンティーク仕様になってます。

一つはトップでご紹介した写真の手前の作品
しっとりしたグリーンとゴールドをベースにした色で額が彩られ、
額の中は春の景色の中、貴婦人が佇んでいる絵を
ふっくらと中綿を入れて膨らませたクッションのようなお作り物です。

そしてもう一つがこちら。



こちらは温か味のあるブラウンとゴールドを貴重としたお色で、
青空が印象深い川べりの様子が描かれた図柄。
表面はアンティーク風にひび割れの入った加工が加えられ
お部屋においておくだけで、懐かしい空気感が漂います

さすがは細かいところまでこだわるクラフティアン米澤氏のお母様。
細かいところまで、凝った御作りなんです。

米澤さんは芸術家気質AAA(トリプルA)をあげたい位の方でして、
舞台美術でも絵でもクラフトでも、彼のこだわりはすごいです。
特に細かい部分のこだわり様、その細やかで繊細すぎる意識は、
凡人の私たちにはすでに神の領域ザマス…

(写真は一心不乱に額を作られるクラフティアン米澤氏のみ姿…神々しい


実はこの作品を頂く前にですね、千恵子様の御作品を頂戴したんです。
それらは3Dと呼ばれるものみたいです。
数枚の絵を切り抜き、立体感を出してある作品です。
今は洗足にて全作品飾られているんですが、
いやー、そこに「遺伝」を見ましたっ!
千恵子お母さんの作品、そりゃ~細かいんです。
他の方ならなさらないだろう、細かい、細かいところまで3D!
「これ、一体どうやってカットしたんですかっ?」
って所ばっかりで、それは素晴らしい出来なんですよー。
千恵子先生ご自身も
「ここまでやらんでも、っておもうんやけど、つい」
と笑っておいででした。
3Dもやはり普通の方よりもたくさんの枚数を使って製作なさるそうです。



これはくまさんの小さな額なんですが、これねぇ、
写真では分からないのが残念ですが本当に細かいんです。
実物、見たらびっくりするくらい繊細です。
この小さなお魚とかも3D!それもこんな小さいものに
ちゃんと裏にスポンジとか貼ってあるんですよぉ!
あたしが作ったらあっという間に鼻息でパーツがなくなること間違いなし!

「すごいなー、カエルの子はカエルだわ~」

とシミジミした瞬間でした。

私も母の子として生まれたならば、母の名を高めるような生活せねば!
「さすが彼女のお子さん!」見たいなね!

あ、ちなみに米澤氏のお父様はご本も出されるくらい
文筆に長けておられ、ライフワークで小説などを書かれ、
更にはマンドリンオーケストラなどで音楽などもたしなまれる
という様なお父様であられます。


………

♪おーたまじゃっくしぃはかえるのこぉ~♪

(笑)

とにも、かくにも
親子が似ていると言う遺伝の神秘は美しきかな




薔薇の思い出

2010-04-19 | KOFUKU日記
ただいま、洗足は春真っ盛り。
お家の敷地でもこぶしがきれいに咲いてます。

もうすぐ五月、薔薇の季節ですね。
周りでも薔薇のつぼみが開き始めました。

 

薔薇と言えば、懐かしい思い出があります。
それはもう7年前になりますが、ソウルメイトの帰天後、
実家で夏を過ごした私は、9月の訪れと共に北海道に渡りました。
ふるさと鹿児島では、超夏日の37度!
そして到着した千歳空港は17度!
すでに秋が来てました。

そこであるシュタイナーの学校に籍を置くことになった私でしたが
三日間で学校で学ぶことはないなあ~、と言うより~、
偉そうですが、そこの主催者に物を教わるのはやめとこう、
と真剣に思いまして(^^;)毎日、寮からみんなを送り出すか、
学校に行っても授業にはでずにぴーちゃんと近隣の野山を駆け巡る毎日でした(笑)
お金は取られちゃいましたが、今でもああしてよかったわぁ~、
間違っちゃ居なかった!と自分の判断に自信を思っています(笑)

でもまあ、そこの学生の一人ですから、そこのイベントとか出たり
お手伝いとかは結構頻繁にしていました。

で、そこで薔薇が登場。

えー、そこの主催者の方が薔薇がお好きだったようで、
ガッコの周囲に薔薇の垣根を作ろうとしておられました。
あ、もちろん、作りたいから、作ってね~って言うだけで
作業しておられたのは全然別の方です(笑)
で、ある日、薔薇の手入れをするから手伝えと指令が出ました。

その年の寮生はかなり秀逸な人々が集まっていたようで
なんというか、寮もほんわかとあたたかなムードが漂っていました。
多分、そこに入学してくる方が求めていたものが
学校にはなかったけど寮にはあった気がします。
なんというか、少し文化の香りを取り入れた若きアーミッシュの様な
なんというか、本当の意味で慈愛にあふれた集まりでした。
食事の前は手をつなぎ、大地の惠に祈り、歌いました。

いい仲間でした。
その中の殆どの方とは今も、心を許し、友として親しくしています。

さて、その心優しき仲間たちは、どの人々よりも
率先して人の手伝いなどしていました。
で、その薔薇の手入れにも全員が結集。
となると私も行かねばなるまい…。

で、行きました。

指令は


「毛虫取り」


………


で、ここでね、多分皆さんは「割り箸」登場!とか考えるでしょ?

違います。

そのときのアイテムは


「ハサミ」


………


ハイ、勘のいい人、そこのあなた、正解!

そう、このアイテムで生きてる毛虫を真っ二つに切断するのでした!


「誰か、ナウシカを呼んでくれ」


そう思ったのは私だけではあるまい(笑)
アタシに虫笛があったなら、言いますね。

「森にお帰り~」

でも、毛虫さんたちは薔薇がお好きと来たもんだ。
ココで生きていくためには彼らと戦わねばなるまい。

しかも!しかもですよ!
この方たち、逆上して反撃にでますの

ハサミをそーっと近づけて、切る直前に気づかれようものなら
オームよろしく、ぶはああああああ~~っっと毒の息を吐くのよ~~~。
その毒の息がかかるともれなくかぶれるのよ~~~~。
こわいいいいいいぃぃぃぃ

ですからぁ、狙いを定めたら、ズバッと一刀両断しなくてはなりませんのです。


ここが修道院なら、こんな非道は許されぬであろう。
ここが寺なら、こんな殺生ありえまい。


思いは巡りましたが、やらねばならぬ…。

せめてもの慰めに
「♪ちゃらららららぁ~、ちゃらららららぁ~らぁ~♪」
と、マジシャンのテーマなど歌ってみるアタシ。



結果は…


薬局に薬を買いに行きましたとさ(撃沈)


それ以来、私の中で薔薇と毛虫はセットです(笑)


その時、笑顔で「こうやるんだよ」と毛虫をぶった切って見せてくれたKさん。
今は北海道の北のほうで、カンナちゃんのママMちゃんや
ステップファーザーのTさんと、それからBさんと言う素敵なだんなさんと
皆でとっても素敵なバイオダイナミックファームをやってます。

「生活学校BD(バイオダイナミック)ファーム」

シュタイナーの人智学に基づいて、宇宙の星の動きに合わせた農業をしています。
オーガニックの美味しいお野菜の全国配送などもあるそうです。
カンナちゃんのママのMちゃんは美味しいパン焼いてます。
ご興味のある方、ぜひぜひブックマークのリンクからサイトに行ってみてくださいね!


と、言うことで、あの薔薇の毛虫退治は
宇宙の動きに沿っていたのか、聞いてみたいこの頃です。


久しぶりの洗足

2010-04-16 | KOFUKU日記
今日は数週間ぶりに洗足の工房に来ています。


夢の街手しごと工房の風渡りの庭は春真っ盛りです。

写真は一日のイースターのお祝いにやって来た草の実や種や葉っぱで作られているひよこちゃん。

実はカンナちゃんと私がいた北海道の伊達のちいさな修道院でつくられたものです。

何度か朝早くのおミサに伺いました。
ちいさなおばあちゃんシスターがいる修道院で懐かしいです。

生命の環の中に生きている~誕生日に思ふこと

2010-04-16 | KOFUKU日記
7年前まで私は魂の家族であった仲間と共に
ミュージカルショーを観ることの出来る
日本で始めてのエンターテイメントカフェをやっていました。

その上演されていたショーの一つに
「Earth Beat~大地の鼓動」と言うものがありました。

ちょうどロハスと言う言葉が使われる前、スローライフと言う言葉が生まれた頃です。
いまや、ナチュラル系の人にとってはバイブルの様になっている雑誌、
「天然生活」なんかもまだありませんでした。

このショーは「いのちの環」をテーマに作りました。
朗読・演奏・ミュージカルの部分から構成されていて、
ミュージカル部分はネイティヴアメリカンと白人たちの歴史の中で名高い
ジョン・スミスの物語をベースにしています。
ディズニーのアニメ「ポカホンタス」でもおなじみです。

朗読に使われた詩は「今日は死ぬのにもってこいの日」と言う
ネイティヴアメリカンに残されている詩集からのものでした。

決まった読み方をするのでなく、出演するキャストが
それぞれの感性において、その詩をその時感じたままに
自由に動きつつ「語る」というスタイルの朗読でした。

このスタイルで朗読をするのを聞いていると
今ははるか彼方の昔に語られた言葉たちが、
今も私たちの心にあるべきものであることが良くわかりました。

ネイティヴは7代先の子孫のために今日を生きると言います。
今日決めることが7代先に生きる子孫にとって大事なことかを考える。
その行動の奥にあるものを直に感じ取ることが出来ました。

それから「ミミズのカーロ」と言う、ドイツのある小学校での
ごみに関するエコ活動をテーマに会話が繰り広げられ、
「本当のごみって何か?」を話し合います。
そして土に帰らないごみは捨てないと言う話になり、
土に戻らないゴミを使って即興演奏を行うのです。

そして、今日作られた文明の利器である
エレクトーンと言う電子楽器を使い、
この楽器が今も語り継がれるネイティヴたちの文明のように
この先の時代に「善きもの」として語り継がれていくよう
心から祈りを捧げつつ、毎回キーボーディストに寄って
大地の音を再現した即興曲が演奏されていました。

そして白人とネイティヴの歴史に触れます。
作品の中ではひとつの結末を迎えますが、
その後行われたネイティヴに対する残虐な歴史も語ります。

そして、一番最後に舞台にはネイティヴの酋長の装いで俳優が現れ、
アメリカの歴史に名高い「シアトル酋長の手紙」が語られます。
バックには即興で俳優の演技にあわせた音楽が奏でられ
さらに一言一言が客席に染み渡りました。

最後、ショーの中では争った白人とネイティヴの二人が
がっしりと握手を交わします。
そしてネイティヴアメリカンに伝わるボディトークで
「われわれは兄弟。生命の環のなかに生きている」
と笑顔で言葉を交わすのです。

そんなショーをやっていました。
私は自分で書いたものではこのショーがとても好きでした。
華やかさにはかけますが、シンプルで暖かく、心に染み入るものでしたから。


もう先々週になりますが、「解決します!」の公演が終わってから
親しい方のご家族が相次いでご帰天なさいました。
そのうち2名の方はまだ30代前半の若い方々で、
どちらも突然の出来事でした。

7年前に突然に帰天したソウルメイトもまだ20代でしたから
若い方に対する周りの方のお悲しみを察することが出来ました。
私たち周りにいる人間は、お心を察することは出来ても
家族を突然に失う深い悲しみはやはり家族にしか分からないものだと思います。
私は経験上、そう感じています。

くしくもその亡くなられた方のお一人はソウルメイトのお誕生日に帰天され、
なんというか、この偶然に深い何かを感じずに居られませんでした。

春爛漫の自然や桜の中での突然の悲しい出来事は大きな衝撃を残すものです。
冬の静けさから、一気に芽吹きが起こり、すべてが変わりだす春。
自然も人も生命の輝きにあふれ、生き生きと動き出す春。

数年前、この春に悲しみを迎えたとき、その事が悲しくてたまりませんでした。
私だけが世界から取り残されたようでした。
人を失った日は辛いものですが、必ず来るべき日が来ないのはもっと辛かったりします。
私はソウルメイトと同じく四月生まれですが、お誕生日は辛いですね。
多分、きっと今なくなられた方のご家族はそうでしょうね。

予測のつかないことだったから、未来が変わったことも受け入れられず、
どうやったら元に戻れるのか、どうやったら生きていけるのか考えるけど
そんなことなんて全く考えられない状況だったし、
何を聞いても自分を責めてしまって…。

「生まれ変わり」のとか話をされても、隣に居た当事者は辛い。
生まれ変わって来ても、隣に居た人と同じ立場ではないからです。
親兄弟はそれでもまた会えるのだと思えるでしょう。
でも、隣で一生を生きる予定だった人には苦しいものだと思います。
一人ぼっちだって気持ちが渦巻きます。
あの頃はいろんなことが大変でした。
とにかく、よく生きてこれたよなと思います。

今も元通りになんてならない。そんなものでしょう。
「早く忘れて元気になれ」なんて他人が言ってはいけないせりふかもしれません。
結局は自分で乗り越えるしかないのでしょうね。

ただ、今は新しい道を歩くことも大事なんだと思えるようになりました。
そして、新しい道を歩くことが、今までの道をそれていくわけではないことも。
そして忘れる必要もないんだとも思っています。

そんなことを考えられるようになるには、人にも寄るでしょうが
結構長い年月がかかると思います。特に親しい人の死というのは大きいです。

そんな事を思い返している時に誕生日を迎えました。
複雑な誕生日でした。
けど、ふとこのショーを思い出しました。

「私たちは生命の環の中に生きている」

あの言葉を。

多分、あの頃、この言葉を聞いたら悲しかったでしょう。
さらりと受け入れることは出来なかったでしょう。

でも、今は何となく分かるのです。それが真実であることが。
そして、私たちは生命の織物の糸の一本であることが。

いまだいろいろな面で不安定な私はなぜか悲しい気持ちで誕生日を迎えたんです。
そうしたら、本当に、本当に久しぶりにソウルメイトが傍に来てくれました。
間違いなくソウルメイトでした。
きっと妙に孤独感にないなまれて寂しい気持ちでいたから、
人は一人ではないことを教えに来てくれたのかなと思いました。
そんな暖かいオーラでした。

私もいつか新しい世界に旅立ったとき、
親しい人の寂しさに寄り添える魂でありたいと思います。

私は人に誕生日を主張しないので、周りも思い出さず、
そのまま祝うこともなく過ぎていくことも多いのですが、
今年もそんな感じでおりましたら、ある友人がお祝いの言葉を
そしてカンナちゃんがプレゼントを持ってお祝いに来てくれました。
ありがたいものです(^^)

写真はカンナちゃんからのプレゼントの桜。
今年は桜を観に行けなかったから嬉しかったです。
感謝感謝です。


最後に、親しい人との別れの悲しみの中に居るすべての方へ
心を込めてお送りします。

「私たちは生命の環の中に生きている」



生命の織物~シアトル酋長の手紙                  

はるかな空は涙をぬぐい今日は美しく晴れた。 
明日は雪が大地をおおうだろう。 
けれど私の言葉は星のように変わらない。


ワシントンの大酋長が土地を買いたいと言ってきた。 
どうしたら空が買えると言うのだろう?  そして大地を。 
私には解らない。 
風の匂いや水のきらめきを、あなたはいったいどうやって買おうというのだろう?


すべてこの地上にあるものは私たちにとって神聖なもの。 
松の葉の一本一本、岸辺の砂のひと粒ひと粒、
深い森を満たす霧ゃ草原になびく草の葉、虫の一匹一匹にいたるまで、
すべては私たちの遠い記憶の中で神聖に輝くもの。 


私の体に血がめぐるように、木々の中を樹液が流れている。 
私はこの大地の一部で、大地はわたし自身なのだ。 
香りたつ花は私たちの姉妹。熊や鹿や大鷲は私たちの兄弟。 
岩山の険しさも草原のみずみずしさも、
子馬のからだの温もりもすべて同じひとつの家族のもの。


川を流れる眩しい水は、ただの水ではない。 
それは祖父の、そのまた祖父たちの血。 
小川のせせらぎは祖母の、そのまた祖母たちの声。 
湖の水面にゆれるほのかな影は、私たちの遠い思いでを語る。 


川は私たちの兄弟。 
渇きをいやし、カヌーを運び、子供たちに惜し気もなく食べ物を与える。 
だから白い人よ、どうかあなたの兄弟にするように川に優しくして欲しい。


空気は素晴らしいもの。 
それはすべての生き物の命を支え、その命に魂を吹き込む。 
生まれたばかりの私に、始めての息を与えてくれた風は、
死んでゆく私の最後の吐息を受け入れる風。 


だから白い人よ、どうかこの大地と空気を神聖なままにしておいて欲しい。 
草原の花々が甘く染めた風の香りをかぐ場所として。


死んで星々の間を歩くころになると、
白い人は自分が生まれた土地の事を忘れてしまう。 
けれど私たちは死んだ後でもこの美しい土地の事を決して忘れはしない。 
私たちを生んでくれた母なる大地を。 
私が立っているこの大地は私の祖父や祖母たちの灰から出来ている。 
大地は私たちの命によって豊かなのだ。


それなのに白い人は母なる大地を、父なる空を、
まるで羊か光るビーズ玉のように売り買いしようとする。 
大地をむさぼりつくし、後には砂漠しか残さない。 


白い人の町の景色は私たちの目に痛い。 
白い人の町の音は私たちの耳に痛い。


水面を駆け抜ける風の音や、雨が洗い清めた空の匂い。 
松の香りに染まった柔らかい闇のほうがどんなにか良いだろう。 
ヨタカの寂しげな鳴き声や、夜の池のほとりの
カエルのおしゃべりを聞く事が出来なかったら、
人生にはいったいどんな意味があるというのだろう。


私には解らない。  
白い人には何故、煙りを吐いて走る鉄の馬のほうが、
バッファローよりも大切なのか。 
私たちの命を繋ぐ為にその命をくれるバッファローよりも。 


私にはあなた方の望むものが解らない。
バッファローが殺し尽くされてしまったら、
野生の馬がすべて飼いならされてしまったら、
一体どうなってしまうのだろう?
聖なる森の奥深くまで人間の匂いが立ちこめた時、
いったい何が起こるのだろう?


獣たちがいなかったら人間はいったい何なんだろう? 
獣たちがすべて消えてしまったら、
深い魂の寂しさから人間も死んでしまうだろう。


大地は私たちに属しているのではない。 
私たちが大地に属しているのだ。


たおやかな丘の眺めが電線で汚される時、藪はどうなるのだろう? 
もう ない。 
足の速い子馬と狩りに別れを告げるのはどんなにか辛い事だろう。 
それは命の歓びに満ちた暮らしの終わり。
そして ただ生き延びるためだけの戦いが始まる。


最後の赤き勇者が荒野とともに消え去り、
その記憶をとどめるものが平原のうえを流れる雲の影だけになった時、
岸辺は残っているだろうか。 森は繁っているだろうか。 
私たちの魂のひとかけらでも、まだこの土地に残っているだろうか。


ひとつだけ確かな事は、どんな人間も、
赤い人も白い人も、分ける事は出来ないという事。 
私たちは結局おなじ一つの兄弟なのだ。 

私がこの大地の一部であるように、あなたもまたこの大地の一部なのだ。 
大地が私たちにとって掛け替えがないように、
あなたがたにとっても掛け替えのないものなのだ。


だから白い人よ。 
私たちが子どもたちに伝えて来たように、
あなたの子どもたちにも伝えて欲しい。

大地は私たちの母。 
大地に降り掛かる事はすべて、私たち大地の息子と娘たちにも降り掛かるのだと。


あらゆるものが繋がっている。 
私たちがこの命の織物を織ったのではない。 
私たちはその中の一本の糸に過ぎないのだ。


生まれたばかりの赤ん坊が母親の胸の鼓動を慕うように、
私たちはこの大地を慕っている。
もし私たちがどうしてもここを立ち去らなければならないのだとしたら、
どうか白い人よ、私たちが大切にしたように、この大地を大切にして欲しい。
美しい大地の思いでを、受け取った時のままの姿で心に刻みつけておいて欲しい。
そしてあなたの子どもの、そのまた子どもの、
そのまた子どもたちの為にこの大地を守り続け、
私たちが愛したように愛して欲しい。 

いつまでも。

どうか、いつまでも。