長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ぬらりひょん全国デビュー ~純粋『ぬらりひょんの孫』批判 前篇・風~

2011年09月27日 14時54分43秒 | ゲゲゲの鬼太郎その愛
《前回までのあらすじ》
 伝承と外見のまったく一致しない謎の妖怪ぬらりひょん。そうだいは、そんな彼が日本妖怪の総大将にまでのし上がっていったイバラの道をたどろうとするのだが……
 あの……『ぬらりひょんの孫』の批判は、いつするの?


 瀬戸内海で浮かんだり沈んだりして漁師をからかう妖怪「ぬらりひょん」と、人間でもなかなか着られないようなハデハデの着物を身にまとってお屋敷に出入りする異様な爺さんの妖怪「ぬうりひょん」。
 海の伝承とはまったく関係のない「妖怪画」という形で18世紀に登場した老人姿のぬらりひょんは、かの鳥山石燕の『画図百鬼夜行』の中で「何を考えているのかさっぱりわからない妖怪」というイメージを決定的づけました。

 要するに、現代の日本で「ぬらりひょんって、あれでしょ?」とすぐに連想できる妖怪総大将ぬらりひょん像は、江戸時代後期に活躍した作家・石燕の創作による部分が大きいということなんです。ぬらりひょん先生はぶっちゃけてしまえば、河童や山姥といった無数の人々の言い伝えの集合によって現在の姿を得ている日本の妖怪たちよりも、むしろ吸血鬼ドラキュラやホッケーマスクのジェイソンといったフィクションの世界の住人たちに近い体質を持っているお方なんですね。異質だな~。

 ただ、「ジジイ妖怪」以前の「海の妖怪」という部分のかおりを残しているぬらりひょんは、元禄時代に大坂を中心に大流行した大衆小説「浮世草子」の中にチラッとだけ現れているようです。

浮世草子『好色敗毒散(こうしょくはいどくさん)』 元禄16(1703)年 作・夜食時分

 この作品は、遊郭の女郎に夢中になった既婚の男が仕事も手につかない状態になってしまい、困り果てた妻がくだんの女郎と一計を案じるという筋のユーモア小説で、作者の名前を見てもおわかりのようにかる~い内容になっています。
 問題のぬらりひょんは特にストーリーには深くからまず、「顔のないナマズのような妖怪(のっぺらぼう?)で嘘の精である。」としか説明されていません。

 これは純然たるフィクション小説だし、この作品以外に「ナマズののっぺらぼう妖怪」という姿をとるぬらりひょんは現れていないので、「これがぬらりひょんの第3形態なのだ!」と大げさに言うつもりはないのですが、この「ナマズぬらりひょん」が、「ジジイぬらりひょん」の出現する(最初の登場は1737年の『百怪図巻』)何十年か前だったことから見ても、のちの大妖怪ぬらりひょんが、海でぷかぷかしていたうだつの上がらない地元生活を捨て、人類最大最強の武器である「ウソ」を習得して大都会にうって出ようとしていた途上段階の貴重な記録であることは間違いないでしょう。

 そう、人類が海から陸に上がって石斧を手に入れたように、ぬらりひょんも海から陸に上がってウソを手に入れたのだ!! そしてあっという間におじいちゃんになっちった。早いなぁ~。

 江戸時代の「ぬらりひょん」に関する記述で、もうひとつ、『画図百鬼夜行』でひとつの頂点に達した日本史上初の「妖怪ブーム」も落ち着いた19世紀前半には、ぬらりひょんが東北の秋田県にいたというものが残っています。

『菅江真澄遊覧記』(1801~22年)

 読んで字のごとく、江戸時代後期の著名な博物学者・菅江真澄(すがえ ますみ 1754~1829・男です)が遊覧した、東北地方のさまざまな土地の風土・風習が克明に記録されている文集なのですが、その中に「ぬらりひょん」が出てくるのです。

 それは、真澄にとって最も縁の深かった羽後国・秋田藩内にあった「さへの神坂」という坂についての記事で、具体的に現在どこにあるどの坂なのかわからないのが非常に残念なのですが、真澄はこの坂を、

「曇天や雨の降る日には素性のわからない人物が現れ、夜には百鬼夜行が出現するため『化物坂』と呼ばれている。」

 と記しています。そして、その「百鬼夜行」の構成メンバーに「ぬらりひょん」「おとろし」「野槌」が挙げられているのです!

 3匹とも、18世紀に巻き起こった妖怪画ブームの中で名が知られるようになったキャラで、ちょっと地味ですが『ゲゲゲの鬼太郎』に登場することも多いなかなか手堅いメンツによる百鬼夜行であることがわかります。こういった面々が東北に出張営業しているんですから、当時の妖怪ブームが全国に広まる社会現象であったことがうかがえます。この文章では具体的に3匹がどういう容姿をしていたのかは触れられていないし、ましてやぬらりひょんがリーダーシップをとっていたという記述はまったくありません。ほんとにモブの1人といった感じ。のちの総大将にもそんな下積み時代があったんだねい。

 ここで重要なのは、瀬戸内海ローカルの妖怪だったぬらりひょんが、妖怪ブームのどさくさに紛れて日本全国のどこにでも現れるフットワークを身につけるようになったということです。きっと秋田の坂道に現れたぬらりひょんは、全国的に広まった「頭が長い妙な爺さん」という格好をしていたに違いありません。過去を捨ててのメジャーデビューだぬらりひょん!

 とはいえ、「ウソの精」「人間の住んでいる都会に現れる」「百鬼夜行にまざっている」などの断片的なパズルのピースはぽつぽつ集まっているものの、ぬらりひょんが具体的に何をするどんな妖怪なのかは、依然として不明なまま……まさにのっぺらぼうのように顔がはっきりしない状態で、彼は明治維新を迎えました。
 日本の風景がいくぶんか西洋化しても、ぬらりひょんの妖怪世界でのポジションは変わらなかったのですが、昭和初期になって、ひょんなことから彼は「妖怪総大将」へと通じる最初のカギを手に入れます。

『妖怪画談全集 日本篇・上』(1930年 中央美術社)

 この『妖怪画談全集』は、日本・中国・ロシア・ドイツで描かれた怪物の絵画を解説するシリーズで、そのうちの「日本篇」を担当したのが民俗学者の藤沢衛彦(ふじさわ もりひこ 1885~1967)という方でした。
 そしてその「日本篇」で、当然ながら「日本の怪物画といえばコレ!」といった感じで紹介されたのが、われらが鳥山石燕の『画図百鬼夜行』だったわけなのですが、そこで前回にもふれた「ぬうりひょん」の絵を解説した藤沢さんは、民俗学者にあるまじき「先行資料にもとづかない情報」をつけ加えてしまいました。

 すなはち、「妖怪の親玉」。

 あちゃー……言っちゃった! そう、ここでの藤沢さんの解説こそが、「ぬらりひょん妖怪総大将説」の記念すべきスタートだったのであります。昭和生まれの情報だったのね……

 ことわっておきますが、これをもって私は「ぬらりひょんが妖怪総大将であることは根拠がない。」とか、「藤沢衛彦ってぇのは、とんでもねぇ軽口野郎だ!」と言うつもりは一切ありません。
 要するに、はからずも権威ある学者先生である藤沢さんがそう感じてしまったのは、純粋に鳥山石燕えがく「ぬうりひょん」の姿にそれだけのことを連想させる風格があったからであり、ということは、ぬらりひょんが「妖怪の総大将」と呼ばれることとなったのはデタラメではなく他ならぬぬらりひょん先生自身の「実力」だったのです。「ウソ」を得意とするぬらりひょんの魔力は、なんと昭和の民俗学者までをも見事にだまくらかしてしまった!

 確かに、色仕掛けで男をだますような美女の妖怪はさておいて、ぬらりひょんほどハデハデな衣装に身を包んだ妖怪はちょっと他に見当たりません。だいたいは毛むくじゃらかヌルヌルか白装束ですからね。
 しかも、知性を大いに感じさせるでっかい後頭部や「怨念」の「お」の字も感じさせないにやけ顔は、人を驚かせることにあくせくしがちな日本の妖怪たちの中では珍しい「余裕」をふんだんに振りまいています。

「ほほォ……親玉ってポジションも、わるかぁないかの。」

 思わぬところから降って湧いた「妖怪の親玉説」に気を良くしたぬらりひょんは、太平洋戦争の嵐も去って再び文化復興の気運の高まってきた昭和後期にいたり、ついに具体的な「行動」に出ることとなります。

 妖怪画でデビューしてからはや200年。いよいよ満を持して1匹の妖怪としての活動を開始することとなったぬらりひょん。その具体的な内容とは!?

 中に時限爆弾を仕込んだ本を家に投げ込む爆弾テロ。

 ええ~!? それ妖怪? ただの犯罪者じゃないの!

 そう。戦後に全貌を明らかにした妖怪ぬらりひょんは、「悪意」だけを生きがいとする『ダークナイト』のジョーカーを40年さきどった超ヒールだったのです……

「瀬戸内海でぷかぷか? 知らねぇな……わしは人間社会のすべてを破壊するために生まれたんじゃよ。」

 ぬらりひょん先生、なんでそんなにグレちゃったの……


 さぁさぁ、ついに誕生してしまった「凶悪妖怪ぬらりひょん」、終生のライヴァルとなる「ゲゲゲの鬼太郎」との運命の出逢いは、また次回のココロだ~っ。ウヒョ~!!
コメント
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