へい、らっしゃい!! そうだいでございますよっとぉ。
いやぁ、だいぶ涼しく……ていうか、夜にいたっては寒いくらいになってきちゃいましたね。残暑はないのか、残暑は。
私ねぇ、哀しいまでにカゼをひかないおかげで相変わらず体調は健康そのものなんですが、最近ど~も変な体験をすることが多いような気がするのよ。なんだか薄気味が悪い、みたいな。
出来事のひとつは、また次にやりたい話題に妙にリンクしているのでその時にふれるつもりなのですが、たとえば、こんなこと。
えー、私そうだいは、「幻冬舎文庫」が読めないかもしんない!
……まぁまぁ、「何言ってんだこいつは。ついに頭にキたか?」と思わずに聞いていおくんなまし。
私はまぁ、ヒマな時にはよく本を読んでいるのですが、夜明け近いまっ暗な時間にスタンドライトだけ点けて、寝床で横になりながら眠くなるまで読書するというパターンもよくやるんですね。
で、その夜も、腹ばいになった体勢で両手で持った本を目の前において読んでいたんですけど、たまたまその時に選んだのが、幻冬舎の文庫本だったわけ。
幻冬舎の文庫を読むのはそうとう久しぶりだったんですけど、みなさんご存じの方も多いですよね。幻冬舎文庫って、他の出版社の文庫本にくらべてちっちゃいんですよ。本の幅が。
それは前から知っていたんで、「あぁ、幻冬舎文庫って、そうだったなぁ。」程度に感じていたんですけど、読み進んでいくうちに恐ろしい事態が発生!
じ、自分の両手が視界に入り込んできて、「勝手に動き出すような気がして」恐くて本が読めない!!
いや、ほんとほんと! 冗談で言ってんじゃなくてほんとに気が散るの~!
また読んでた本も本で、たいして恐くもないんですが、いちおうホラー小説だったんですよ。
いや~でも作品の内容なんか吹っ飛んじゃうくらいに、深夜に目の前にある自分の両手がものすっごく恐いの! 今は私の命令をちゃんと聞いて文庫本をおさえているけど、ある瞬間にフッとどれかの指がひとりでに動きだしちゃったりしたら……ギャ~!!
まいりました。私もう、ちっちゃい幻冬舎文庫は読めないのかもしんない……字が読めないんじゃなくて、自分の手が恐くて。
わたすはぁ~、頭がおかすいのかのう~。
ま、次の日の仕事の休憩時間にはふつうにス~ラスラ読めたんですけどね。
なんだったんだろうか、あの一夜の感覚は。ヘンなもの食ったおぼえはないんだけどなぁ。おもしろかったからいいんですけど。
でもね、こういう正気を疑う理由はおいといても、幻冬舎文庫はちょっと小さすぎるような気がして好きではないです。いや、内容がおもしろかったらどうでもいいことなんですけどね!
あ、あと、逆に最近のハヤカワ文庫は大きすぎて苦手です。こっちは縦長で新書みたいなのよ。なに読んでるんだかわかんなっちゃうの。どーでもいいですけど。
さぁさぁ、話がちょっと長くなりましたが、要するにそのくらいお話が好きで頭のネジがゆるみかけている私がお送りしております『おれがあいつであいつがおれで』についてのなんやかんや。いよいよ作品そのものの魅力にせまってみたいと思います~。
前回は「男女逆転物語」の流れみたいなものを追っていたのですが、今回はまた『おれがあいつであいつがおれで』の作品オンリーに戻ってきます。
なんで、今回は前々回から直結している内容になってますんで、前回をすっ飛ばしても大丈夫ですよ~、って今さら言っても遅いかしらん。
前々回にもあげましたが、児童文学(本人は「児童よみもの」と称している)作家の山中恒による小学校高学年向けのジュブナイル小説『おれがあいつであいつがおれで』は、現在までに映画とTVドラマをあわせて6回、映像化されています。
そのうち、原作小説にもっとも近いのは最初に映像化された大林宣彦監督による映画『転校生』であるとされており、それ以降の5作はこの『転校生』をさらにリメイクしたものか、もしくは「男女の心がなんらかの超自然現象によって入れ替わる」という設定を原作から借りただけのオリジナル作品となっております。
ということは、原作の魅力を映像化しているのは『転校生』だけなのでしょうか? いやいや、私にはそうとも思えないんだなぁ。
原作小説『おれがあいつであいつがおれで』を心から楽しませていただいた人間として言わせていただきますが、『転校生』もやっぱり、小説とはまったく違う別物になってしまっているんですねぇ!
『転校生』のセリフのほとんど、ストーリーラインのほとんどが原作のそれを忠実に映像化したものであることは有名なのですが(一転して、大林監督の「尾道3部作」最終作である山中恒原作の『さびしんぼう』は、原作を大きくアレンジしたものになっている)、それでも『おれがあいつであいつがおれで』と『転校生』とのあいだには大きな違いがあるんですねぇ~。
いったいなにが違うのか?
はいー、もうお気づきの方も多いかと思うのですが、そりゃ~もう、なにが違うって「主人公の年齢設定」が違いすぎるんですね!
別に、その違いによって『転校生』がつまらなくなっているとは言いません。でも、この「たった何歳か分」の変更によって作品の味わいの全てが変わっていると言っても過言じゃあないわけなのですよ。
整理してみますと、原作の主人公ペアが「小学6年生」であるのにたいして、映像化されたものは「中学生」であるものが3作(映画2作に月曜ドラマランド版)に「高校生」であるものが2作(観月・いしだ版に吉澤・勝地版)といった感じでのきなみ年上になっています。
唯一、原作と同じ「小学生」である作品が2002年の『どっちがどっち!』なわけなのですが、これは内容が大幅にオリジナルなものになってしまっているため、それが成功しているとしても、少なくとも原作小説の良さを継承した作品にはなっていません。マギー司郎出てくるし。
そうそう、マギー司郎といえば! 「男女逆転」の原因が各作で変わっているのもおもしろいんですね。
原作 …… 「身代わり地蔵」の前で2人が激突した
『転校生』 …… 神社の石段を2人でもみあいながら転げ落ちた
※残念ながら確認できなかったのですが、おそらく月曜ドラマランド版も「石段落ち」パターン
観月・いしだ版&吉澤・勝地版 …… 落雷を同時に受けた
『どっちがどっち!』 …… 謎のマジシャン(マギー司郎)のマジックボックスに一緒に入った
『転校生 さよならあなた』 …… 2人同時に「さびしらの水場」という池におちた
「落雷」というのはいかにも西洋っぽいのですが、全体的にパワースポットというか、「神さま」の気配のするなにかが遠因になっていることがおわかりかと思います。『どっちがどっち!』のマギー師匠もどことなく人間ばなれした人物として描写されているのですが、どちらかというとマジックのステージが行われていた「神社の境内」といったあたりの方がポイントになっているようです。『さよならあなた』は……なんとなく高橋留美子先生のにおいがしますね。なぜかなぁ~。
原作の「身代わり地蔵」というのは、「悪党に追われる娘の身代わりになって娘を助けた」という言い伝えのある地蔵さまのことなのですが、直接言及はされていないものの、これが2人の身に起きた入れ替わりになんらかの関わりを持っているらしい雰囲気は濃厚です。
こういった意味でも、同じく昭和ジュブナイルの傑作と称され、何度となく映像化されているという点で共通している筒井康隆の『時をかける少女』(1965年 映像化は8回!)や眉村卓の『ねらわれた学園』(1973年 映像化は6回)などと比較して、『おれがあいつであいつがおれで』はどちらかというと「SF」よりも「ふしぎな話」と言ったほうがしっくりくるようなホンワカした情緒があります。
で、私が言いたい「原作にしかない魅力」という部分も、この独自のホンワカ感にあるんですよねぇ。
ただし、ここで断っておきたいのは、それが「大人のホンワカ感」ではなく、「子どものホンワカ感」である、ということなのです。
言っておきますが、「子どものホンワカ感」はハンパじゃねぇぜ……子どものホンワカ感とは、そう、「汗だくになりながら全力疾走している男子」が持っている、意味なく昂揚した体温がもたらすものなのだ!
疲れた大人の好きそうな、「ちょっと立ち止まってひと休み」なんていうホンワカなどクソ食らえ! 休み時間はグラウンドに出ろ! 話はそれからだ。
これ! これなんですよぉ~。
原作小説は一貫して、逆転する男女のうちの男のほう、斉藤一夫くんの一人称形式で語られていきます。したがって、物語のメインとなるのは「女の子に変身してしまった男の子」目線ということになり、男子になってしまったもう1人の主人公・斉藤一美(たまたま名前が似ているだけで血縁関係はない)のほうの物語はかなり省略されてしまっています。もともとお話が文庫本にして200ページ前後なので、分量的にどちらか片方の描写で充分だということもあったのでしょう。
でもねぇ、その原作者(山中さん)の選択は正しかった! 要するに、かなりリアリティのある目線をもった男子が、あきれる周囲(もちろん、その中には相方のヒロインもいる)をしり目につっぱしるつっぱしる。
斉藤一夫くんは「のび太」タイプでも「スネ夫」タイプでも「ジャイアン」タイプでもない至って地味な小学生だと自称しているのですが、冒頭からして飛ばしています。
ちょっと長くなりますが引用してみましょう。始まってすぐの「自己紹介」にあたる部分です。
「まあ、『斉藤一夫』なんて名前は、たいして目立つ名前じゃないし、めずらしい名前でもない。春休みに、電話帳をめくってみたら、おれの住んでいる森野市だけでも、『斉藤一夫』が、二十三人もいた。若いのやら、おじいやら、中年やら、はげやら、でぶやら、やせやら、いろんな『斉藤一夫』がいるということだ。
職業だって、いろいろあるだろう。いまだって、めしを食ってるのやら、しゃっくりをしているのやら、くそをたれているのやら、いびきをかいているのやら、いろんな『斉藤一夫』がいるわけだ。
でも、森野市立第四小学校・六年三組の『斉藤一夫』は、この、おれ、ひとりだ。この、おれなのだ!」
すごくないですか、この「おれ宣言」!? これはレイモンド=チャンドラーのハードボイルド小説の冒頭じゃないですよ。ふつうの小学生の自己紹介なんですよ。
作者のテクニックも見事です。わずか数行のこの文章によって、主人公が春休みに意味もなく電話帳をながめているようなヤツなんだな、というディティールが明らかになりますし、随所にちりばめられた「はげ」「でぶ」「くそ」といった読者(小学生)のハートをわしづかみにするワードの連発は、まさにジュブナイルの導入部分としては至高の名文たりえているわけなのです。
こんな「男子」を絵に描いたような一夫くんが「女子」になってしまうんだからとんでもない。
そして、ここが重大な原作と映像化作品たちとの違いなのですが、原作の一夫くんは、クライマックスまで自分が女子になっているという問題を解決することでイッパイイッパイになってしまっているため、ヒロインとの恋愛関係にかかずらっているヒマがいっさい、ない! というか、原作の一夫くんはトラブル対応をいいことに、ヒロインが発する恋愛アピールから意図的に目をそらしているような気配さえ感じられるのです。
つまり。昭和の小学生にとっては「恋愛」はタブーというか、「やったらカッコ悪いこと」だったのだ!
ここが映像化作品と大いに違うんだよな。
だって、映像化された主人公たちの設定は「中学生」や「高校生」となっていて、男女が恋愛関係になるという展開はほとんど当たり前、ごく自然のことですよね? たった数年の違いとはいえ、さすがに「恋愛? なにソレ。」という顔はできなくなっているわけなのです。
唯一、主人公たちが原作と同じ「小学生」である『どっちがどっち!』も、そのへんの感覚が昭和とまったく違う平成のお話となっているため、「2人が互いに助け合ってカップルになるのは当然のこと」という、役者が子役である点をのぞけば他の映像化作品とまったく違わない世界になっているのです。
このへんでおもしろいのは、主人公2人よりもその周辺にいる家族の反応ですね。
物語の中で「心が入れ替わったこと」を信じてくれる人もおらず、2人はお互いに頻繁に連絡をとりあってそれぞれの性としての生活に対応していくわけなのですが、原作のそれぞれの家族は「2人が親密すぎる。つきあっているんじゃないか?」と読みとった途端に「まだ小学生なのにけしからん!」と気色ばみ、家族同士で連携して2人があまり一緒にならないように邪魔をしかけるのです。よくある、2人のいる部屋にしょっちゅう母親が入ってくるみたいなやつね。「(ガラッ)かずお、麦茶よ!」作戦の発動ですよ。
ところが『どっちがどっち!』になると、同じような2人のやり取りを見ても、親は「あぁ~、ちょっと早いけど、いいことだねェ。」くらいの温度でほほえましく見守っているわけなのです。これはもう、中学生や高校生と変わりのないあつかいですね。
長くなってしまいましたが、原作の魅力はとにかく、この恋愛を良しとしない男子の「よしてくれ!」力。これに尽きるかと思います。
「よしてくれ!」……いい日本語です。この言葉の成分が「No!」という否定のニュアンスだけでないことは日本人ならば誰でもおわかりでしょう。ちょっとだけ「うれしい」があるのです。
転校してきた元おさななじみの女子(斉藤一美)に「一夫くんでしょ!?」といいよられ「よしてくれ!」。
同級生に2人がつきあっていると邪推されて「よしてくれ!」。
女子になったあとにヘンな不良にナンパされて「よしてくれ!」と撃退。
「コイツ女みてぇだ~。」と相方をいじめる男子どもを返り討ちにし、相方(身体は自分です)に惚れられて「よしてくれ!」。
簡単に言ってしまえば、自分と相方に降りかかってくる火の粉を「よしてくれ!」と払っているうちに男子(身体は女子)は自然に頼もしい存在になっていき、それを見ていた女子(身体は男子)に恋愛感情が芽ばえていくというおかしな、それでいてごくごく自然な成長がつづられていくというわけなのです。
ここがいいんですよ。「男女逆転」がむしろ男女それぞれの健康的な男女としての成長を助けているんですね。あべこべなのにあべこべじゃない!
映像化された作品はすべからく、スムースに進みすぎてしまう恋愛ドラマ的展開のために、このへんのパラドックスがわかりにくくなっているんですね。もったいないですよ!
原作のすばらしさは、「恋愛から逃げようとする男の姿を見て女が好きになってしまう」という男女のどうしようもない「ズレ」を、純粋な子ども同士のジュブナイルだからこそ逆に克明に描ききっているというところなんですね。
本当の恋愛は、恋愛ドラマのようにはいかない。おお~いに思い当たる教訓ですね!
私も、30すぎてからじゃなくて小学生の時に『おれがあいつであいつがおれで』に出逢っておればのう……遅すぎましたが、いい小説を読ませていただきました。
『おれがあいつであいつがおれで』、心の底からおすすめします。映像化作品を観て知った気になっちゃあ、ダメ、ゼッタイ!!
いやぁ、だいぶ涼しく……ていうか、夜にいたっては寒いくらいになってきちゃいましたね。残暑はないのか、残暑は。
私ねぇ、哀しいまでにカゼをひかないおかげで相変わらず体調は健康そのものなんですが、最近ど~も変な体験をすることが多いような気がするのよ。なんだか薄気味が悪い、みたいな。
出来事のひとつは、また次にやりたい話題に妙にリンクしているのでその時にふれるつもりなのですが、たとえば、こんなこと。
えー、私そうだいは、「幻冬舎文庫」が読めないかもしんない!
……まぁまぁ、「何言ってんだこいつは。ついに頭にキたか?」と思わずに聞いていおくんなまし。
私はまぁ、ヒマな時にはよく本を読んでいるのですが、夜明け近いまっ暗な時間にスタンドライトだけ点けて、寝床で横になりながら眠くなるまで読書するというパターンもよくやるんですね。
で、その夜も、腹ばいになった体勢で両手で持った本を目の前において読んでいたんですけど、たまたまその時に選んだのが、幻冬舎の文庫本だったわけ。
幻冬舎の文庫を読むのはそうとう久しぶりだったんですけど、みなさんご存じの方も多いですよね。幻冬舎文庫って、他の出版社の文庫本にくらべてちっちゃいんですよ。本の幅が。
それは前から知っていたんで、「あぁ、幻冬舎文庫って、そうだったなぁ。」程度に感じていたんですけど、読み進んでいくうちに恐ろしい事態が発生!
じ、自分の両手が視界に入り込んできて、「勝手に動き出すような気がして」恐くて本が読めない!!
いや、ほんとほんと! 冗談で言ってんじゃなくてほんとに気が散るの~!
また読んでた本も本で、たいして恐くもないんですが、いちおうホラー小説だったんですよ。
いや~でも作品の内容なんか吹っ飛んじゃうくらいに、深夜に目の前にある自分の両手がものすっごく恐いの! 今は私の命令をちゃんと聞いて文庫本をおさえているけど、ある瞬間にフッとどれかの指がひとりでに動きだしちゃったりしたら……ギャ~!!
まいりました。私もう、ちっちゃい幻冬舎文庫は読めないのかもしんない……字が読めないんじゃなくて、自分の手が恐くて。
わたすはぁ~、頭がおかすいのかのう~。
ま、次の日の仕事の休憩時間にはふつうにス~ラスラ読めたんですけどね。
なんだったんだろうか、あの一夜の感覚は。ヘンなもの食ったおぼえはないんだけどなぁ。おもしろかったからいいんですけど。
でもね、こういう正気を疑う理由はおいといても、幻冬舎文庫はちょっと小さすぎるような気がして好きではないです。いや、内容がおもしろかったらどうでもいいことなんですけどね!
あ、あと、逆に最近のハヤカワ文庫は大きすぎて苦手です。こっちは縦長で新書みたいなのよ。なに読んでるんだかわかんなっちゃうの。どーでもいいですけど。
さぁさぁ、話がちょっと長くなりましたが、要するにそのくらいお話が好きで頭のネジがゆるみかけている私がお送りしております『おれがあいつであいつがおれで』についてのなんやかんや。いよいよ作品そのものの魅力にせまってみたいと思います~。
前回は「男女逆転物語」の流れみたいなものを追っていたのですが、今回はまた『おれがあいつであいつがおれで』の作品オンリーに戻ってきます。
なんで、今回は前々回から直結している内容になってますんで、前回をすっ飛ばしても大丈夫ですよ~、って今さら言っても遅いかしらん。
前々回にもあげましたが、児童文学(本人は「児童よみもの」と称している)作家の山中恒による小学校高学年向けのジュブナイル小説『おれがあいつであいつがおれで』は、現在までに映画とTVドラマをあわせて6回、映像化されています。
そのうち、原作小説にもっとも近いのは最初に映像化された大林宣彦監督による映画『転校生』であるとされており、それ以降の5作はこの『転校生』をさらにリメイクしたものか、もしくは「男女の心がなんらかの超自然現象によって入れ替わる」という設定を原作から借りただけのオリジナル作品となっております。
ということは、原作の魅力を映像化しているのは『転校生』だけなのでしょうか? いやいや、私にはそうとも思えないんだなぁ。
原作小説『おれがあいつであいつがおれで』を心から楽しませていただいた人間として言わせていただきますが、『転校生』もやっぱり、小説とはまったく違う別物になってしまっているんですねぇ!
『転校生』のセリフのほとんど、ストーリーラインのほとんどが原作のそれを忠実に映像化したものであることは有名なのですが(一転して、大林監督の「尾道3部作」最終作である山中恒原作の『さびしんぼう』は、原作を大きくアレンジしたものになっている)、それでも『おれがあいつであいつがおれで』と『転校生』とのあいだには大きな違いがあるんですねぇ~。
いったいなにが違うのか?
はいー、もうお気づきの方も多いかと思うのですが、そりゃ~もう、なにが違うって「主人公の年齢設定」が違いすぎるんですね!
別に、その違いによって『転校生』がつまらなくなっているとは言いません。でも、この「たった何歳か分」の変更によって作品の味わいの全てが変わっていると言っても過言じゃあないわけなのですよ。
整理してみますと、原作の主人公ペアが「小学6年生」であるのにたいして、映像化されたものは「中学生」であるものが3作(映画2作に月曜ドラマランド版)に「高校生」であるものが2作(観月・いしだ版に吉澤・勝地版)といった感じでのきなみ年上になっています。
唯一、原作と同じ「小学生」である作品が2002年の『どっちがどっち!』なわけなのですが、これは内容が大幅にオリジナルなものになってしまっているため、それが成功しているとしても、少なくとも原作小説の良さを継承した作品にはなっていません。マギー司郎出てくるし。
そうそう、マギー司郎といえば! 「男女逆転」の原因が各作で変わっているのもおもしろいんですね。
原作 …… 「身代わり地蔵」の前で2人が激突した
『転校生』 …… 神社の石段を2人でもみあいながら転げ落ちた
※残念ながら確認できなかったのですが、おそらく月曜ドラマランド版も「石段落ち」パターン
観月・いしだ版&吉澤・勝地版 …… 落雷を同時に受けた
『どっちがどっち!』 …… 謎のマジシャン(マギー司郎)のマジックボックスに一緒に入った
『転校生 さよならあなた』 …… 2人同時に「さびしらの水場」という池におちた
「落雷」というのはいかにも西洋っぽいのですが、全体的にパワースポットというか、「神さま」の気配のするなにかが遠因になっていることがおわかりかと思います。『どっちがどっち!』のマギー師匠もどことなく人間ばなれした人物として描写されているのですが、どちらかというとマジックのステージが行われていた「神社の境内」といったあたりの方がポイントになっているようです。『さよならあなた』は……なんとなく高橋留美子先生のにおいがしますね。なぜかなぁ~。
原作の「身代わり地蔵」というのは、「悪党に追われる娘の身代わりになって娘を助けた」という言い伝えのある地蔵さまのことなのですが、直接言及はされていないものの、これが2人の身に起きた入れ替わりになんらかの関わりを持っているらしい雰囲気は濃厚です。
こういった意味でも、同じく昭和ジュブナイルの傑作と称され、何度となく映像化されているという点で共通している筒井康隆の『時をかける少女』(1965年 映像化は8回!)や眉村卓の『ねらわれた学園』(1973年 映像化は6回)などと比較して、『おれがあいつであいつがおれで』はどちらかというと「SF」よりも「ふしぎな話」と言ったほうがしっくりくるようなホンワカした情緒があります。
で、私が言いたい「原作にしかない魅力」という部分も、この独自のホンワカ感にあるんですよねぇ。
ただし、ここで断っておきたいのは、それが「大人のホンワカ感」ではなく、「子どものホンワカ感」である、ということなのです。
言っておきますが、「子どものホンワカ感」はハンパじゃねぇぜ……子どものホンワカ感とは、そう、「汗だくになりながら全力疾走している男子」が持っている、意味なく昂揚した体温がもたらすものなのだ!
疲れた大人の好きそうな、「ちょっと立ち止まってひと休み」なんていうホンワカなどクソ食らえ! 休み時間はグラウンドに出ろ! 話はそれからだ。
これ! これなんですよぉ~。
原作小説は一貫して、逆転する男女のうちの男のほう、斉藤一夫くんの一人称形式で語られていきます。したがって、物語のメインとなるのは「女の子に変身してしまった男の子」目線ということになり、男子になってしまったもう1人の主人公・斉藤一美(たまたま名前が似ているだけで血縁関係はない)のほうの物語はかなり省略されてしまっています。もともとお話が文庫本にして200ページ前後なので、分量的にどちらか片方の描写で充分だということもあったのでしょう。
でもねぇ、その原作者(山中さん)の選択は正しかった! 要するに、かなりリアリティのある目線をもった男子が、あきれる周囲(もちろん、その中には相方のヒロインもいる)をしり目につっぱしるつっぱしる。
斉藤一夫くんは「のび太」タイプでも「スネ夫」タイプでも「ジャイアン」タイプでもない至って地味な小学生だと自称しているのですが、冒頭からして飛ばしています。
ちょっと長くなりますが引用してみましょう。始まってすぐの「自己紹介」にあたる部分です。
「まあ、『斉藤一夫』なんて名前は、たいして目立つ名前じゃないし、めずらしい名前でもない。春休みに、電話帳をめくってみたら、おれの住んでいる森野市だけでも、『斉藤一夫』が、二十三人もいた。若いのやら、おじいやら、中年やら、はげやら、でぶやら、やせやら、いろんな『斉藤一夫』がいるということだ。
職業だって、いろいろあるだろう。いまだって、めしを食ってるのやら、しゃっくりをしているのやら、くそをたれているのやら、いびきをかいているのやら、いろんな『斉藤一夫』がいるわけだ。
でも、森野市立第四小学校・六年三組の『斉藤一夫』は、この、おれ、ひとりだ。この、おれなのだ!」
すごくないですか、この「おれ宣言」!? これはレイモンド=チャンドラーのハードボイルド小説の冒頭じゃないですよ。ふつうの小学生の自己紹介なんですよ。
作者のテクニックも見事です。わずか数行のこの文章によって、主人公が春休みに意味もなく電話帳をながめているようなヤツなんだな、というディティールが明らかになりますし、随所にちりばめられた「はげ」「でぶ」「くそ」といった読者(小学生)のハートをわしづかみにするワードの連発は、まさにジュブナイルの導入部分としては至高の名文たりえているわけなのです。
こんな「男子」を絵に描いたような一夫くんが「女子」になってしまうんだからとんでもない。
そして、ここが重大な原作と映像化作品たちとの違いなのですが、原作の一夫くんは、クライマックスまで自分が女子になっているという問題を解決することでイッパイイッパイになってしまっているため、ヒロインとの恋愛関係にかかずらっているヒマがいっさい、ない! というか、原作の一夫くんはトラブル対応をいいことに、ヒロインが発する恋愛アピールから意図的に目をそらしているような気配さえ感じられるのです。
つまり。昭和の小学生にとっては「恋愛」はタブーというか、「やったらカッコ悪いこと」だったのだ!
ここが映像化作品と大いに違うんだよな。
だって、映像化された主人公たちの設定は「中学生」や「高校生」となっていて、男女が恋愛関係になるという展開はほとんど当たり前、ごく自然のことですよね? たった数年の違いとはいえ、さすがに「恋愛? なにソレ。」という顔はできなくなっているわけなのです。
唯一、主人公たちが原作と同じ「小学生」である『どっちがどっち!』も、そのへんの感覚が昭和とまったく違う平成のお話となっているため、「2人が互いに助け合ってカップルになるのは当然のこと」という、役者が子役である点をのぞけば他の映像化作品とまったく違わない世界になっているのです。
このへんでおもしろいのは、主人公2人よりもその周辺にいる家族の反応ですね。
物語の中で「心が入れ替わったこと」を信じてくれる人もおらず、2人はお互いに頻繁に連絡をとりあってそれぞれの性としての生活に対応していくわけなのですが、原作のそれぞれの家族は「2人が親密すぎる。つきあっているんじゃないか?」と読みとった途端に「まだ小学生なのにけしからん!」と気色ばみ、家族同士で連携して2人があまり一緒にならないように邪魔をしかけるのです。よくある、2人のいる部屋にしょっちゅう母親が入ってくるみたいなやつね。「(ガラッ)かずお、麦茶よ!」作戦の発動ですよ。
ところが『どっちがどっち!』になると、同じような2人のやり取りを見ても、親は「あぁ~、ちょっと早いけど、いいことだねェ。」くらいの温度でほほえましく見守っているわけなのです。これはもう、中学生や高校生と変わりのないあつかいですね。
長くなってしまいましたが、原作の魅力はとにかく、この恋愛を良しとしない男子の「よしてくれ!」力。これに尽きるかと思います。
「よしてくれ!」……いい日本語です。この言葉の成分が「No!」という否定のニュアンスだけでないことは日本人ならば誰でもおわかりでしょう。ちょっとだけ「うれしい」があるのです。
転校してきた元おさななじみの女子(斉藤一美)に「一夫くんでしょ!?」といいよられ「よしてくれ!」。
同級生に2人がつきあっていると邪推されて「よしてくれ!」。
女子になったあとにヘンな不良にナンパされて「よしてくれ!」と撃退。
「コイツ女みてぇだ~。」と相方をいじめる男子どもを返り討ちにし、相方(身体は自分です)に惚れられて「よしてくれ!」。
簡単に言ってしまえば、自分と相方に降りかかってくる火の粉を「よしてくれ!」と払っているうちに男子(身体は女子)は自然に頼もしい存在になっていき、それを見ていた女子(身体は男子)に恋愛感情が芽ばえていくというおかしな、それでいてごくごく自然な成長がつづられていくというわけなのです。
ここがいいんですよ。「男女逆転」がむしろ男女それぞれの健康的な男女としての成長を助けているんですね。あべこべなのにあべこべじゃない!
映像化された作品はすべからく、スムースに進みすぎてしまう恋愛ドラマ的展開のために、このへんのパラドックスがわかりにくくなっているんですね。もったいないですよ!
原作のすばらしさは、「恋愛から逃げようとする男の姿を見て女が好きになってしまう」という男女のどうしようもない「ズレ」を、純粋な子ども同士のジュブナイルだからこそ逆に克明に描ききっているというところなんですね。
本当の恋愛は、恋愛ドラマのようにはいかない。おお~いに思い当たる教訓ですね!
私も、30すぎてからじゃなくて小学生の時に『おれがあいつであいつがおれで』に出逢っておればのう……遅すぎましたが、いい小説を読ませていただきました。
『おれがあいつであいつがおれで』、心の底からおすすめします。映像化作品を観て知った気になっちゃあ、ダメ、ゼッタイ!!