古くから近世に至るまで、日本人は「眼疾」に悩まされてきた。
江戸時代、安永4年(1775年)に来日した外国人医師は、
薪炭の煙と、トイレの臭気・ガスが原因と記している。
その指摘が全てではないが、確かに氷山の一角。
囲炉裏から立ち上る火の粉や煤煙、未舗装路から舞い上がる土埃。
低い栄養状態に起因するビタミンの欠乏。
極端に暗い照明、対抗薬のない様々な疫病など、
現代に比べ眼を病む要素が身近に溢れていた。
運悪く盲目になれば、職業の選択肢は限られる。
鍼や按摩で生計を立てるか、あるいは遊芸で糧を得るか。
--- 今投稿の主役は後者。
光を失い、生きる為に旅をして、歌を届けた越後の女性たちを取り上げてみたい。
ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十四弾「瞽女(ごぜ)」。
「この下に高田あり」
冬になると豪雪に埋もれる新潟県上越・高田には、
江戸時代、そう書かれた高札が立っていたという。
この町で生まれた設えが「雁木(がんぎ)」である。
家の前に庇を張り出し、道路が雪で塞がれても往来ができる空間を確保した。
総延長12kmに亘り連なる雁木は、令和の今も街並みを特徴づけている。
その雁木通り界隈には、かつて「瞽女」たちの家があった。
瞽女は、目が不自由な女性旅芸人のこと。
明治半ばの最盛期には17軒90人あまりが暮らしていたとか。
厳格な戒律を持ち、共同で規則正しい生活を送りながら三味線と歌の稽古を積んだ。
数時間に及ぶ語り物、俗曲、流行り唄、民謡などレパートリーは多種多彩。
もちろん全て口伝であり、耳で覚え脳裏に刻み付けなければならなかった。
記録に瞽女が登場するのは室町時代。
当時の絵巻物に「琵琶法師」と共に描かれ、
江戸時代までは、ほぼ全国的に活動していたことが分かっている。
中でも、上越・高田のそれは広範囲。
越後各地~信州は言うに及ばず、関東・東北地方へ。
更に、出稼ぎ漁に便乗して、遠く蝦夷(北海道)まで渡った。
瞽女旅のユニットは3~4人が基本。
晴眼の「手引き」が先頭を担い、後に続く者は前の荷物に指をかけ歩く。
背負うのは生活道具一式をまとめた、重さ15キロの大風呂敷。
一行は心を1つにして、険しい峠や雪道を乗り越え、日に何キロも移動した。
馴染みの村へ着くと、まず「門付け」。
家々の玄関先で短い歌を披露し、報酬に金銭や米を受け取る。
夜は地主や豪農が提供する宿に泊まり、
集まった村人の前で夜が更けるまで演奏するのが常。
農山村の人々は、来訪を心待ちにしていたのだ。
高い期待感の訳は、娯楽が少ない時代だったという点は大きい。
だが、それだけではないだろう。
彼女たちはエンターテイナーとしてだけではなく、
「縁起のいい幸運の使者」だと歓迎された。
鉄道も自動車もなかった当時、旅は「冒険」のニュアンスを含む。
集落の外--- 遠い異界から困難を克服してやって来る盲人に対し、
ある種「畏敬」の念を抱いていたと考えるのは、無理がないように思う。
特に熱心に耳を傾けたのは、農家の嫁。
泥と汗にまみれて働き、家父長制度の下で我慢を強いられる中、
瞽女さんは「気晴らし」を与えてくれた。
演目が楽しい曲なら、手を叩いたり笑ったり。
泣き節なら、瞬きもせず食い入るように聴き入った。
また宴の後は、暮らしの愚痴を零し、悩みを打ち明けたという。
思いを受け止めてあげるのも、瞽女さんの役割だった。
そうして連綿と続いてきた瞽女の文化にも変化が起こる。
太平洋戦争~戦後の農地改革により、活動を支えてきた地主階級が没落。
ラジオやテレビの普及が新たな娯楽をもたらし、需要が減り、
昭和39年(1964年)を最後に、瞽女旅は消失した。
洗練された音楽ではないかもしれないが、
力強さと迫力、内包した情念が胸に迫る瞽女唄。
それは、女たちのブルーズ。
厳しい境遇を耐える聴衆と、辛い過去を背負う演者が、
数百年に及ぶ歴史を紡いできたのだ。
自らも隻眼だった作家「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」は、
日本語に通じる前に瞽女唄を聴き、友人に宛てた手紙にこう記している。
『私はこれほど美しい唄を聴いたことはありません。
その女の声には、人生の一切の美と哀愁が、一切の苦痛と喜びが、
戦慄のように、また小刻みに打ち震えていました。』
<後 記>
瞽女さんに興味を抱くようになって以降、
僕は2度、上越市高田の「瞽女ミュージアム高田」(LINK)へ足を運んだ。
施設を訪れる前、瞽女さんに対しては、
近代化の過程で滅びた世界であり、過去の因習に縛られた歴史の暗部。
そんな印象が強かった。
だが、様々な資料を閲覧し、話を聞き、一味違うと気付く。
障害を受け入れ、芸を磨き自立して生きる彼女たちは実に逞しい。
また、彼女たちを支えた土壌と「温もり」があったことを知る。
拙作・拙文が、何かしら貴方の心に触れたならば、誠にもって幸い。
そして機会が許せば、上越高田へ出かけてみてはいかがだろうか。
素敵なお話ですね(^^)
上越高田には一度行ったのですが
不覚にもスルーしてしまいました
今度はこちらを目当てに
再度、訪れたいと思います
それと素晴らしいイラスト
いつも、ありがとうございます!
暗いニュースが続いたので
心配してましたが
これからも楽しみにしてますね
おっしゃる通り、
今年は年明けから暗い話題が続きましたが、
僕個人は大事なく過ごしています。
今後とも拙ブログを何卒宜しくお願い致します。
上越市高田の「瞽女ミュージアム高田」に
興味を抱いてくれたとのこと。
嬉しい限りです。
僭越ながら2022年3月の上越旅で
ご当地B級グルメ「塚田そば」を訪れた記事へ
リンクを張ってみました。
よろしかったら覗いてやってくださいませ。
では、また。
記事を読ませていただいて、原田マハの『奇跡の人』を思い出しました。
同小説に瞽女の方々が登場し、とても重要な役割を果たしているのです。
ラストは一人の瞽女との感動的な再会で締めくくられています。
瞽女の歴史、とても参考になりました。ありがとうございました。
拙ブログ主宰「りくすけ」と申します。
コメントありがとうございます。
原田マハ氏の『奇跡の人』、読んでみたくなりました。
こちらこそ教えてもらいありがとうございます。
また機会が許せばご訪問お待ちしてます。
どうぞこれからもよしなに。
では、また。