明日(2023/02/19)は、二十四節気の「雨水(うすい)」。
立春に続く2番目の節気で「降る雪が雨に変わり、雪解けが始まる時期」。
3日前、10センチほど積もった春の雪はあらかた融けた。
季節の移り変わりを実感する。
そろそろ近隣でも梅が観賞できるかなと思い「加賀神社」へ足を運んだ。
以下「津幡町観光ガイド」より抜粋して引用。
<津幡町中条地区の潟端(かたばた)区にある加賀神社は、
加賀藩5代藩主前田綱紀(まえだ・つなのり)を祀った神社で、
かつては津幡町内における最高社格(県社)を有していました。
綱紀公によって、1673(延宝元)年から河北潟縁の干拓が着手され、
潟端新村が立村された時、干拓事業の成功を祈願して諏訪神社が建立されました。
1909(明治42)年に加賀神社と名前を変え、1915(大正4)年に県社となりました。
加賀神社の境内後部には、諏訪神社跡地が残っています。>
ガイド文のとおり、社の裏には「諏訪神社」の石碑。
諏訪明神は、古くは風・水の守護神で五穀豊穣を司るとされた。
「前田綱紀」指揮により開発された農地は、およそ「3ヘクタール」。
以降、小規模な埋立が何度も繰り返されてきた。
江戸後期には、北前船の海運業などで財を成した金沢の豪商が大規模開発に着手。
工事が難航する中、埋め立てに使った石灰により魚が窒息死したのを、
毒を流したとして投獄、獄死。
近代に入り、昭和39年(1964年)から20年の歳月を費やし完工した。
こうした石川県内最大の水辺・河北潟の干拓事業の紆余曲折を思うと、
「潟端」の地名や、諏訪神社の建立に感慨が湧くのである。
さて、加賀藩・前田家5代当主を祀るだけあり、
境内・社殿の所々に「剣梅鉢紋」の意匠を見止める。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
梅の花よ、東風(こち/春風)が吹いたら香りを風に託して大宰府まで送り届けてくれ。
主である私が都にいないからといって、春を忘れないように 。
「藤原氏」との権力争いに敗れた「菅原道真(すがわらのみちざね)」が、
遠く九州・太宰府へ左遷される際、そう歌を詠み梅の木に別れを告げた。
すると想いを受け取った梅の木は、
一夜にして600キロ離れた主の元へ飛んでいったとか--- 。
梅は「菅原道真」の象徴。
その「道真公」を祖とする「前田家」は、剣梅鉢を家紋に定めた。
そして、神社向かいの民家の前で、本物の白梅を鑑賞。
開いた花の数は少ないが、辺りにはふくよかな“春の香り”が漂っていた。
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