つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

歴史を知る「存在感」。

2023年06月10日 23時57分38秒 | 日記
                      
現在「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて、
企画展「古文書からみる江戸時代の津幡町」が開催中。
先日お邪魔してきた。





展示スペースに並ぶのはイベントタイトルにあるとおり「古文書」が中心で、
立体造形や絵画など人目を惹くモノは見受けられないと感じるかもしれない。
しかし、これこそが、この施設の存在感の大きさを示しているのである。
まずは今企画展のあいさつ文から紹介したい。
(※以下【   】内/ブログ上の見易さを考慮し少々編集させてもらった)

【この展示は、昨年度に実施した古文書整理業務の成果を活用して実施するものです。
 十村新田家の約1,600点に及ぶ古文書から抽出した内容を3つに大別し、
 十村に関するもの、宿駅に関するもの、新田開発に関するものに分類。
 資料を所蔵している新田家は、近世後期以降、代々加賀藩の十村役を務めた家です。
 十村役とは、十の村を単位にした組織の長で
 加賀藩の農政制度の下、年貢の取り立てなどを行っていました。
 また、特別に倶利伽羅不動寺に残る古文書や、
 町内の方からのご厚意で古銭や書物、大日本工程絵図も展示することができました。
 江戸時代に実際に使われた貨幣・本、文書など、間近に貴重な資料に接しながら、
 津幡町の先人たちの暮らしぶりに思いを馳せていただければ幸いです。】

もしこの施設がなかったとしたら、
僕が以下に取り上げる資料を目にする事はなかったかもしれない。
“北陸の小さな田舎町の郷土史”を窺い知り、
時を遡る旅が楽しめる機会に恵まれるのは「れきしる」あればこそ。
オープン(2016/04/21)から7年、
関係各位が積み重ねてきた尽力のお陰なのである。

--- では「古文書からみる江戸時代の津幡町」から、一部を抜粋してご紹介しよう。





<宿駅・絵図>
津幡宿の御旅屋守(藩主専用の休泊所)を務めた松本甚之丞が拝領していた
御扶持高(ふちだか)30石分の分間絵図。
嘉永2年(1849年)のものだ。
一石は米俵2俵半、30石は75俵分にあたり、
時代も物価も違うため一概には言えないが、現代の感覚なら700~1000万円程度か?
絵図下の航空写真と見比べると、なかなか広い面積だと推測。
津幡川がかなり蛇行していたことも分かる。



<御収米受領記録>
万延元年(1860年)分の津幡・木津両御蔵入りの御収米(年貢米)を
受け取った記録。
十村役である新田家当主が収納代官を務めたこと、
年貢米の保管場所「御蔵」が津幡町にあったことが分かる。
米が経済の柱の1つだっていた当時としては、
なかなか重要なポジションと言えるだろう。



<古銭と江戸の貨幣経済>
日本全国的に共通の貨幣を使うようになったのは江戸時代。
それ以前は大陸からの輸入貨幣が用いられていたが、
偽造(ニセ金)も多く出回り信頼が置けないとして、あまり浸透していなかった。
むしろ主軸は、前述の「米本位制」。
やがて、金山・銀山開発が進み、メイド・イン・ジャパン貨幣が鋳造されるようになり、
徳川幕府が貨幣統一を図って価値を保証することで「貨幣経済」が生まれた。

それは世界的にも珍しい「三貨制度」。
・金貨→「計数貨幣」、1枚なんぼ。大判小判など。
・銀貨→「重量貨幣」、1匁(もんめ)なんぼ。丁銀、豆板銀など
・銅貨→「計数貨幣」、一文銭は1枚1文、四文銭は1枚4文。
変動相場制で、1 両≒銀60匁≒銅4000 文とされるが一定ではない。
更に、現代社会では滅多に行われない「改鋳」が、頻繁に実施された。
貨幣に含まれる金や銀の量を変更したから、実にややこしいのである!
また、領内限定の通用で地方貨幣もあった。





時代も物価も違うため判然としにくいが、
往時の貨幣価値を現代に置き換え、1 両≒10万円としてみる。
「中村主水」は10万円で殺しを請け負い、
四文銭を投げる「銭形平次」は捕物の度100円を失い、
歌舞伎の千両役者は年収1億円になる。

--- そんな具合に歴史のアレコレを考えさせてくれるのは、
やはり「津幡ふるさと歴史館 れきしる」のお陰なのだ。
企画展「古文書からみる江戸時代の津幡町」の開催期間は、
来月末2023年7月30日まで。
都合と時間が許せば足を運んでみてはいかがだろうか。
                            

                            

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2 コメント

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Mrs. (玲子H)
2023-06-11 07:50:00
りくすけ様、こんばんは
津幡の町はいろいろ面白い歴史があるのですね。感心しました。私は小学校1年生の時に松任町から穴水の奥の住吉に引っ越ししました。父が警察官で引っ越した駐在所が、元年貢米を入れるお蔵を改造したもので、ヤモリやムカデがいて怖い思いをしたものです。家の前の橋はお蔵橋と呼ばれていました。
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玲子H様へ。 (りくすけ)
2023-06-11 09:53:05
コメントありがとうございます。

小さな町にも歴史アリ。
宿場町だった過去の記録を通じて、
往時の姿を想像できます。
本文中に書いたように、その記録の見聞が出来、
想像して思案できるのは「れきしる」のお陰です。

元・御蔵の駐在所とは、歴史ファンからすると羨ましい。
橋の呼び名にも名残がありますね。
個人的には家守は怖くありませんが、百足は怖ろしい。
小学生の女の子にとっては殊更だったとお察しします。

では、また。
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