つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡の山間に佇む、昭和。

2021年07月10日 16時45分45秒 | これは昭和と言えるだろう。
               
僕が在校生だった当時(昭和50年代初頭/1970年代後半)、
母校「津幡中学校」には「木造校舎」が残っていた。

学校としての役割は既に終えていたが、一部施設は現役。
剣道部員の僕は、ギシギシと音を立てる渡り廊下を踏みしめ、
毎日、旧校舎の道場へ通ったものである。
もちろん冷暖房などなく、整備も満足ではなかった。
薄暗く、隙間風も吹き込む。
長い間に染み付いたであろう臭いもしたし、
所々雨漏りもしていたと記憶している。
だが、僕は、そこが嫌いではなかった。
不自由・不具合な諸々は、風雪に耐えてきた時が醸す風合いとして捉えていたのだと思う。



令和の今、津幡町内で木造校舎が残るのは、ここだけかもしれない。
「津幡町歴史民俗資料収蔵庫」として活用されている旧「吉倉(よしくら)小学校」だ。

明治 7年、創立(当時:吉倉村)。
昭和25年、画像の校舎落成(当時:笠谷村)
昭和29年、津幡町との合併を機に津幡町立吉倉小学校と改称。
昭和58年、廃校。前述の収蔵庫に転用。

建物の中には、農具、牛馬用具、照明用具、教育機材、衣類など、
民俗的な各種資料が保存されているという。
観覧のためには希望日の2週間前までに「れきしる」へ申請が必要。
内部の見学は次の機会に譲り、今回は外から眺めることとしたい。



推定、縦15メートル、横10メートル。
わずか5つのコースが設けられた小さなプール。
かつては子供たちの歓声が木霊したであろう場所だ。





正面玄関前には、
「二宮金次郎(にのみや・きんじろう)」像と
「乃木希典(のぎ・まれすけ)」像。
前者はご存知の方も多いだろうが、後者について簡潔に補足。

「乃木希典」は、明治時代に活躍した軍人。
嘉永2年、長州藩(現:山口県)江戸上屋敷で出生。
陸軍大将として、日露戦争の戦局を左右する「旅順攻囲戦」を指揮。
明治天皇を慕って殉死したことでも知られる。
学習院の院長時代に昭和天皇の教育係を務める教育者の側面もあった。
評価様々あるが、いわゆる戦争の英雄と言っていい。
没後「乃木神社」ができ、軍神に。
この像が建った頃、偉人として勇名をはせていたのは想像に難くない。

また、殉死を悼み、ゆかりの地が「乃木坂」に改名したのは有名な話。
今では地名・駅名として。
アイドルグループ名として。
高級食パンとしての方が一般的だろうか。



ちょうど「アル・プラザ津幡店」に出店中「乃木坂な妻たち」。
トレンドの発信地、スタイリッシュで文化的な「乃木坂」をイメージし、
家族を支える主婦(妻)に選ばれる店にしたいと命名された札幌発のフランチャイズ。
回りまわって自分の名前がこんな具合に引用されるとは。
江戸生まれ明治男の軍神は、さぞビックリしているだろう。

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2 コメント

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りくすけさんへ (Zhen)
2021-07-11 09:17:57
おはようございます。

木目を活かした旧吉倉小学校、美しいですね。

りくすけさんの母校の木造校舎が残っていないのは残念ですが、残っていないことで、りくすけさんの心の中で存在し続けるものだと思います。

痴呆の母親を介護している方の言葉を思い出しました。「介護をしていると、かつての美しい思い出が、ボケた母親の記憶に上書きされて消えていく、これが何よりも辛い」

現物が消えることで、“ありし日”が永遠に残ることもあると僕は思います。

“乃木坂”の由来、はじめて知りました。某国には恨みも何もありませんが、一部の半日主義者の狂気の標的にならないことを祈ります。

では、また。
返信する
Zhen様へ。 (りくすけ)
2021-07-11 10:14:26
コメントありがとうございます。

現物が消えることで、“ありし日”が永遠に残る
---いい表現。
噛みしめました。

旧吉倉小は、これからも改修を重ねつつ
維持していって欲しい。
乃木希典像も、歴史遺構として残して欲しいと
思っています。

では、また。
返信する

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