つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

満州哀歌(エレジー)。

2021年02月04日 23時50分50秒 | 手すさびにて候。
       
昨年末、作詞家・小説家・タレントとして活躍した「なかにし礼」氏が鬼籍に入った。
訃報に接し、僕は昔観たTVドキュメンタリーを思い出した。
--- 確か、2000年代初頭だっただろうか--- 。
放送時期すらうろ覚えなのだから、内容に関しては曖昧模糊(あいまいもこ)。
しかし、ラストに、この歌が流れたのは、鮮明に覚えている。



グッバイ・マイ・ラブ この街角で
グッバイ・マイ・ラブ 歩いてゆきましょう
あなたは右に わたしは左に
ふりむいたら負けよ

忘れないわ あなたの声
やさしい仕草 手のぬくもり
忘れないわ くちづけのとき
そうよあなたの あなたの名前


ヒットバラードの原風景は「ハルビン(哈爾浜)」の路地裏。
稚拙な性愛の手ほどきをしてくれた、優しいロシア少女との別れに起因しているのだと、
ブラウン管の中の故人が語っていた。

ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載 第百六十三弾は「満州哀歌(エレジー)。」



今回の拙作イラストは「なかにし礼」氏が著した小説、
平成13年(2001年)に出版された「赤い月」の第一章に着想を得ている。

舞台は、現在の中国東北部にあった国「満州国(まんしゅうこく)」。
お話しの中心となるのは「森田家」。
北海道・小樽から現地に渡り、醸造業を興し、
満州を支配管轄する日本軍の知己を得て莫大な財を築いた。
一家の構成は、家長の「森田勇太郎」、妻「波子」と3人の子供たち。
そして、長女の家庭教師「エレナ・ペトロヴナ・イヴァノーヴァ」がいた。

物語は、1945年8月9日 夜9時、満州・牡丹江から幕を開ける。
突如としてソ連軍の進攻が始まった混乱の最中、
密告書により「エレナ」がソ連のスパイであることが発覚。
森田家に乗り込んできた憲兵の中には、彼女の恋人の姿があった。

彼は、商社マンと身分を偽っていたが実体は軍人だと本性を明かし、
隅々まで知り尽くした美しい体へ、かき抱いた記憶も生々しい細い首へ、
白刃を振り下ろす。
「エレナ」の血飛沫(ちしぶき)が辺りを汚した時から、
「森田家」の命がけの逃避行が始まった--- 。

その後のストーリーは割愛したい。
既読の方もいるだろうし、未読ならば著作を手にとって欲しいと思う。
もちろん読み手によって好き嫌いはあるだろうが、
「引き揚げ」がいかに凄まじい地獄だったか。
地獄で人は何をするのか。
ページを開く度、人の心に巣くう恐ろしい闇を垣間見、
善悪とは何たるかを考えさせてくれる。



「赤い月」は、故人の自伝的小説。
「中西家」も戦前に満州を目指し、海を渡った。

満州国建国の背景には「経済」が関わっている。
1929年の世界大恐慌により、不景気に苦しんでいた英、仏、米は、
自国と植民地との間でカネとモノを流通させ難局を乗り切ろうとした。
しかし、植民地の少ない、日、独、伊は新たな市場を求め他国へ進出。
つまり侵略を選ぶ。
ドイツは欧州、イタリアは北アフリカ、日本が矛先を向けたのが満州だ。
現代の感覚で捉えれば「侵略」≒「悪」だが、
当時は「スタンダード」だったのである。

更に日本は「人口問題」というアキレス腱も抱えていた。
明治以降、増え続けた国民を養うだけの農地も、産業も不足。
満州は、国からあぶれた人々の「受け皿」だった。

当時のスローガンは「王道楽土」と「五族協和」。

「王道楽土」とは、徳による統治、「王道」が築く安楽な大地。
日本の盛んな投資により急速に発展する満州で一攫千金を夢見る
「満州ドリーム」の気運があった。
「五族協和」は、漢・満・蒙・朝鮮・日本が協調する国際的な理想郷。
共産革命から逃げてきたロシア人や、ナチスの迫害を逃れたユダヤ人も多く、
まさに「人種のるつぼ」だったという。

日本が彼の地に関わったのは、わずか40年あまり。
清王朝のラストエンペラーを担ぎ出してからは、10数年に過ぎない。
ごく短い間、狂い咲いて消えた、泡沫(うたかた)の花。
歴史上における満州は、そんな存在かもしれない。

さて、長文になってきたが、最後にもう1つ「満州哀歌」をご紹介したい。


「流れる雲を追いかけて」(作詞・作曲:桑田佳祐/唄:原 由子)

流れる雲を追いかけて
アカシヤの丘 異国の地よ
冷たい時間(とき)に耐えかねて
つれぬ世の運命(さだめ)

ただ見果てぬ夢を追えば大連の橋の上
ああ せつない胸を抱いて母の顔がチラホラリ

連鎖の街にあの人と
手に手をつなぎ歩いた夜
ダンスホールに行こうかな 
あの頃はもう帰らん

まだ幼いこの娘(こ)を連れ ハルビン行きの列車
ああ お前の名前すらもきっとあの人は知らず

進軍ラッパがププ プププー
つばめのダンスにゃホロホロリ
だけどほぉら あの人に逢えるその日まで
ゆらゆら通せんぼう


作者「桑田佳祐」氏の父が満州からの引き揚げ組だったのは、
ファンの間では有名な話。
「流れる雲を追いかけて」は、父の体験談を元に創られた一曲である。

黄海に突き出た半島の先端の町「大連(だいれん)」は、
旧満州時代、東西の文化、物流が交錯するところだった。
日本からヨーロッパへ向かう起点。
ヨーロッパからならアジアの入口にあたる。
大連 - ハルビン間を結ぶ特急「あじあ号」の食堂車では、
金髪碧眼のロシア人ウエートレスが乗客に笑顔を振りまいていた。

都市計画に従った表通りには、ヨーロッパ風の荘厳な建物が並び、
トイレは水洗、大人も子供も洋装が当たり前。
エキゾチックなムードをたたえた国際都市は、しかし、砂上の楼閣にすぎず、
やはり敗戦・満州崩壊を境に酸鼻を極めたという。

その落差たるや --- 。
後の時代からすれば、まるで哀しさを通り越した喜劇のようにも思える。

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4 コメント

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りくすけさんへ (Zhen)
2021-02-06 13:47:16
満州には、特別の感慨のある日本人も多いと思います。

私の祖父は、従軍獣医として満州に渡り、孫である僕が、その何十年か後に再び満州に渡り、住んでいた訳です。不思議なつながりですね。
親戚にの中には、満州で生まれ、終戦後、はじめて日本に来た人もいます。彼彼女たちは、あまり多くを語りませんが、ソ連侵攻後、若い女性は、みな坊主頭にして男性を装ったと聞いたことがあります。「赤い月」が特別な話ではないことを感じます。

戦前の帝国主義を称賛するつもりはありませんが、改革開放前までの中国の重工業の中心は、旧満州であり、日本の残した工場はもちろん、技術が、中国発展の基礎になっていたことは、歴然とした事実です。そればかりか、日本的な発想、価値観が旧満州の中国人に受け継がれていることを、そこで生活し、仕事をしていると感じます。

結果として、「五族協和」は、日本人からの一方的な理想だった訳ですが、その発想が、今の中国共産党の「民族団結」や「一帯一路」に引き継がれていることは、満州国の「陰」の遺産でしょう。

堅い話になってしまいましたが、次回、楽しみにしています。


返信する
Zhen様へ。 (りくすけ)
2021-02-06 18:16:19
貴重なコメント、ありがとうございます。

貴ブログを拝読し遼寧省に所縁がおありとは、
存じ上げておりました。
霧散した満州国の名残は、今も中国の人々の心に残っているのか?若い世代はどんな印象を持っているのか?等々、Zhenさんにお聞きしてみたいと思っていました。今回のコメントで一端がお聞きできた気がします。ありがとうございます。
何か他にエピソードなどあり「Being on the Road」内で披露していただく機会があれば幸いです。

御祖父様が軍属として満州へ。
従軍軍医ということは軍馬や軍用犬などに携わるお仕事だったのではと、勝手に推測します。御祖父様ご本人の目には満州はどう映っていたんでしょうね。

好奇心から、不躾な文面の返信になり恐縮です。
どうかご容赦くださいませ。
これに懲りず、拙ブログをどうぞよろしく。
では、また。
返信する
りくすけさんへ (Zhen)
2021-02-06 22:57:00
返信ありがとうございます。

中国に住んでいた頃、旧満州のことなど、mixi日記で書いていました。先ほど、一般にも公開したので、しはらくしたらアクセスしていただければご覧になれるかと思います。ハンドルネーム:Zhen 「北票の街角から」といった感じです。
Goo Blogでも、機会を作って、書いていきたいと思います。

御推測の通り祖父は、軍馬のための獣医だったと聞いています。祖父は、造り酒屋の6人の息子の下から2番目だったので、大陸に大志を抱いて渡ったのだと思いますが、満州の話をしませんでしたので、ほんとうのところは、わかりません。

酒を飲んでいるとき、中国東北人の友人が、「日本は、満州から撤退せず、踏みとどまって欲しかったなぁ」と言いだしたことがありました。リップサービスの部分もあると思いますが、彼曰く、東北三省(旧満州)は、発展から取り残されていますが、日本の一部になっていたら、もっと豊かだったはずだ。また、東北三省の人口は、約一億人。つまり、日本は民主主義の国だから中国人の意見にも耳を傾けるはずだ、とか。歴史にIfはありませんが、どうなっていたんでしょうね。

中国東北人の気質も華南、華東人と違って、ウェットです。中国では、この道一筋何十年より、臨機応変に機を読める方が尊ばれますが、中国東北人に限っては、この道一筋が好まれるように感じます。まさにこれらは、旧満州、日本人の遺産と思います。

長々と、すみません。
コロナが終息したらお会いして、色々とお話しできれば、幸甚です。
今後とも、宜しくお願い致します。




返信する
Unknown (りくすけ)
2021-02-06 23:10:28
Zhen様へ。

ご丁寧にありがとうございます。
大変興味深い話、勉強になります。
楽しみに拝読します。

では、また!
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