つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

遠くの汽笛を聞きながら。~津幡町民大学。

2020年10月17日 07時49分41秒 | 鉄道
わが津幡町行政の「生涯学習課」では、
年間10数回に亘り「町民大学講座」を開催している。

<町民の学びの機会充実と生涯学を通じた
 町民の交流を図ることを目的としています。
 単位を設定した様々な学級・講座を開催し、
 3カ年度内で100単位を取得された方には終了証を交付しています。
 参加費は無料となっておりますので、お気軽にご参加ください。>
(※< >内、町HPの同課ページから引用/抜粋)

先日、うまく都合がつき
「ふるさとつばた講座② 交通の要衝 津幡~北陸本線・七尾線の歴史~」に
参加できた。

会場は「津幡町文化会館シグナス」。
802名キャパの大ホールが充てられたのは、新型コロナ感染対策だ。

入場時に検温、アルコール消毒を施し、
座席配置も社会的距離を保つよう設定されていた。
今時の常識である。

講座は「鉄道唱歌~北陸篇(LINK有)」の披露に始まる。
沿線の駅名や風物を織り込んだ七五調の歌詞を軽やかなメロディにのせたシリーズ。
明治33年(1900年)5月に東海道篇、山陽・九州篇、奥州・磐城篇と続き、
北陸篇は同年10月に発表。
かなりのスピード感を持ったリリースだが、
それよりも、一作目が日本に初の鉄道が敷設されてから28年後だった事に驚く。
明治政府がいかに急ピッチで建設を進めたかが窺えた。
その背後に日清・日露戦争の影が見え隠れ。
国内に於ける物資、人員輸送を整える事は勝利への必須条件だったと察する。

以降は「津幡町史」「河北郡史」「竹橋(たけのはし)の歩み」などの文献や、
明治~大正期に発行された地図などを引用しつつ、
開通間もない町内の駅や蒸気機関車の写真を拝見しながら、
石川県と津幡町の鉄道黎明期を解説してもらう。

残念ながら、僕は、いわゆる「鉄ちゃん」ではない。
もっと鉄道に造詣があれば、より楽しめただろうに---と感じるも、
過ぎ去った昔の町を想像しながら興味深く耳を傾けた。
取り分け印象に残ったのは「町の鉄道前史」である。

<明治初年まで交通機関は馬や天秤棒・カゴがあるにすぎなかった。
 道路が改修されて交通機関は大へん進歩した。
 人力車は明治11年ころから走ったし、大八車が荷物運搬に使われるようになった。
 さらに明治23年ごろからは金沢森下町(※現 森本)から津幡・竹橋を
 乗合馬車(10人乗)が走った。金沢・津幡間は1日4回、竹橋までは2回走った。
 これらは鉄道開通によって打撃を受けた。
 それまで、交通の中心は、御旅弥橋(※おたやばし/現おやど橋)付近で、
 茶屋は人力車のたまり場(丁場)であり、宿屋もあって賑わった。>

(※< >内配布資料より抜粋、原典「津幡町史」、赤文字は加筆箇所)

画像左「車」の配置図。 
同右、津幡川周辺の「交通施設」図。
眺めながら、往時の様子を頭の中で立体映像化してみる。

今よりも曲がりくねった水の流れに架かるのは、木造の太鼓橋。
船着き場には、舫(もやい)を結んだ手漕ぎの舟と、積み荷を運ぶ人足。
〇や■の単純な図形で表された地点、人力車や荷車の傍で煙管を吸う車夫達。
宿の前では客引きや、いざこざなどが繰り広げられただろう。

---「町民大学」は、そんな楽しくて仕方ない妄想の時間を与えてくれた。

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南洋奇譚(きたん)。~アナタハンの女王。

2020年10月15日 23時36分48秒 | 手すさびにて候。
同じカテゴリーの先回投稿では「マレーネ・ディートリッヒ(LINK有)」を取り上げた。
そこでも触れたとおり、彼女を見いだしトップ女優にした人物が、
映画監督「ジョセフ・フォン・スタンバーグ」。
1930年代、「ジョセフ&マレーネ」の黄金コンビは、世界的なヒットを飛ばした。
そんな巨匠の最後の作品が「日本映画」なのは、
案外知られていないかもしれない。

ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載第百五十五弾は「アナタハンの女王」。

昭和28年(1953年)の夏、
映画館の近日公開作を宣伝する手描き看板には、こんな惹句(じゃっく)が躍った。

【絶海の眞唯中(まっただなか)に取残された女ひとりをめぐる男たちの激しい本能!
 『モロッコ』のスタンバーグが女性の望郷、生きる悲しみを描いた!
 愈々(いよいよ)完成!】


只ならぬサスペンス要素が滲み出るのも無理はない。
終戦直後のある「奇妙な事件」を下地にしていたのだ。
まず、戦前の南太平洋について筆を起こそう。

第一次世界大戦の戦勝国・日本は、国際連盟の委託を受け、
敗戦国・ドイツ領だった南洋諸島を統治することになる。
サイパンに行政機関「南洋庁」を設置。
トラック諸島に日本海軍が大規模な停泊基地を整備。
各拠点で、事実上の国策会社「南洋興発株式会社」が、
製糖、水産、油脂鉱業、貿易など、各種事業を幅広く手掛けていた。

その社員として、小さな火山島「アナタハン」に赴任した男の妻こそ、
「比嘉和子(ひが・かずこ)」 --- 後に事件の核となる人物である。

「和子」は、行方不明になった夫の上司と2人で、ヤシ林の管理をしていた。
そこに、米軍に沈められた船から、年若い軍人・軍属の男たちが漂着。
終戦を迎えた後も、投降の呼びかけには応じず島内に留まり、
総勢33名の日本人たちは、自給自足の共同生活を送る。

最初は苦労も多かったが、魚や獣を捕ったり、芋・果物を栽培するなどし、
次第に飢える心配は解消されてゆく。
しかし、営みが安定するにつれ、もう一つの本能が頭をもたげ始めた。

山中に墜落したB29機内から発見した拳銃を振りかざし、
関係を迫る者も現れ、「和子」は複数の男と閨(ねや)の縁を持った。
唯一人の女を巡る争いが絶えず、変死、不審死が相次ぐ中、
事態を危惧した男たちは、甚だ恐ろしい決断を下す。
元凶である「和子」を処刑しようというのだ。

企み(たくらみ)に気付いた女は、ちょうど島にやって来た米軍に投降。
生存者21名が帰国すると、メディアはセンセーショナルに煽り立てた。
真実はさておき。
やがて--- 【外界と隔絶された絶海の孤島で、女が愛欲を武器に君臨】
--- という、イメージが定着。
日本中から好奇の関心を集めた一件は、
島の名前を取って「アナタハンの女王事件」と呼ばれた。

この事件を新聞記事で知った「スタンバーグ」が映画制作に着手する。
主演女優は「根岸明美(ねぎし・あけみ)」。
日劇(日本劇場/1933-1981)ダンシング・チームの一員だった彼女を見初め抜擢。
(※「ディートリッヒ」登用の顛末と似ている)
監督は、ハリウッドの巨匠。
特殊効果は、「円谷 英二」。(ウルトラマンシリーズ)
音楽は、「伊福部 昭」。(ゴジラシリーズ)
映画「アナタハン」製作陣は、文字通りの豪華版なのだ。
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誇り高く美しきゲルマン。~ マレーネ・ディートリッヒ。

2020年10月11日 06時35分07秒 | 手すさびにて候。
同じカテゴリーの先回投稿では「マタ・ハリ(LINK有)」を取り上げてみた。
この稀代の女スパイをモデルにする幾つかの映画の中で、個人的に好きな一本が、
「間諜X27(かんちょう・えっくす・にじゅうなな)」(1931年公開)。
間諜とはスパイのこと。
「間」も「諜」も「うかがう」の読みがあり、敵の様子を探る者を指す。
「X27」は符丁(ふちょう) --- スパイとしてのコードネームである。
今回は、その主役を演じた女優がモチーフ。

ほんの手すさび、手慰み。
不定期イラスト連載第百五十四弾は「マレーネ・ディートリッヒ」。

「マレーネ・ディートリッヒ」は、
20世紀の幕が開いた1901年、ベルリン生まれ。
祖母も母も評判の美人だったという。
ヨーロッパの都会っ子らしく、幼い頃からバイオリニストを夢見て稽古に励み、
熱心にドイツ哲学、ドイツ文学を学んで成長した。

一方、彼女の思春期は、ドイツ受難の時代に重なる。
第一次世界大戦に敗戦。
課された巨額の賠償金(国家予算20年分)により経済が崩壊。
スペイン風邪の大流行と世界恐慌が追い打ちをかけた。

胸には、愛国心とゲルマンの誇り。
目の前に広がるのは、荒廃した耐えがたい現実。

あまりのギャップから葛藤に悶えたであろう事は想像に難くない。
そして、自身も挫折を味わう。
利き腕をケガして、音楽家の夢を断念しなければならなかった。

演劇に転向し、結婚して一児をもうけ、
生活の為、夜の街でキャバレーのステージに立つ「マレーネ」。
煙草の煙に巻かれ、酔客をあしらいながらマイクを握り、糧を得て、
女優業は端役に甘んじる日々。
気が付くと、彼女は28歳になっていた。

そんな下積み時代のある日、救世主が現れる。
ドイツ系ユダヤ人の映画監督「ジョセフ・フォン・スタンバーグ」が、
無名の「ディートリッヒ」を見初め、主演に抜擢。
公私に亘り親しい間柄になった2人は、手に手を取ってヒット街道を歩み始めた。

ドイツ初のトーキー(映像音声同期作品)『嘆きの天使』。
ハリウッドへ進出し『モロッコ』『間諜X27』『上海特急』などで大成功を収める。
しかし、“黄金コンビ”の快進撃は長続きせず、
恋の終わりと共に「マレーネ」のキャリアにも影が射した。

そんな時、彼女に帰国を要請したのが「アドルフ・ヒトラー」だった。
独裁者は、“優生人種の美”を体現する女優が大のお気に入り。
だが、ナチ嫌いの「マレーネ」は、これを頑なに拒み、アメリカに帰化。
怒った「ヒトラー」は、彼女の映画をドイツ国内で上映禁止にしてしまった。

やがて二度目の世界大戦が勃発。
戦いが激化してゆく中「マレーネ」は、あれほど敬遠していたヨーロッパへ向かう。
母国と敵対する連合国軍兵士たちを慰問するためだ。
ゲルマンの誇りとナチスへの怒りを込め、
リリー・マルレーン(LINK有)」を歌った。

戦後は、音楽に軸足を置き活動する。
ブロードウェイの舞台に立ち、1968年に「トニー賞」特別賞を受賞。
1970年、74年の2度、来日公演。
1975年に足を骨折するまでコンサート活動を続けた。
引退後は母国ではなく、パリで暮らし、公にその姿を一切見せなかったが、
1989年、ベルリンの壁が崩壊した時には、歓喜したという。
『私の街が自由になった!』と。

忌むべき為政者たち --- ファシストやコミュニストが滅び、
彼女は、ようやく愛するドイツへ帰る。
ただし、物言わぬ遺骸となって。
ベルリン郊外の墓地、母の隣で永遠の眠りについた。
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祝!100周年。

2020年10月10日 16時19分35秒 | 日記
住所は石川県河北郡津幡町・津幡。
県道59号線「津幡交差点」の角。
まさに町の中心部に「スガイ書店(LINK有)」はある。

ここは、散歩で立ち寄る定番コース。
拙ブログでも度々登場しているスポットである。

以下に、過去投稿の中から「スガイ書店」に関する記事を再掲載したい。

【「スガイ書店」は、少年時代の僕にとって、まさに「知の泉」だった。
 店内に足を踏み入れると鼻をくすぐる紙とインクの匂い。
 新書、新刊が発するそれは、図書館とは違って、新鮮な文化の香りがした。
 しかも、2階にある「エレクトーン・ピアノ教室」から、優雅な演奏が聞こえてくる。
 楽器演奏と縁遠い(苦手な)僕にとっては、何とも面映ゆい高貴なムード。
 これも文化を感じる音だった。

 一時期…確か小学校3~4年生くらいだと思うが、
 親に自転車を買ってもらって、行動範囲が広がった僕は、
 週末になると「スガイ書店」へ「立ち読み」に出かけるのが定番になった。
 ずい分、色んな本や漫画をむさぼり読み、知識を深めていった。
 特に「コナン・ドイル」の「シャーロックホームズシリーズ」と
 「どおくまん」の「暴力大将」は忘れ難い…。

 今にして思えば、タダで立ち読みするガキを見逃してくれていたのは、
 お店にとって「先行投資」のようなものだったのかもしれない。
 すっかり書店好きになった僕は、学年が上がるにつれ、
 ここでお金を使うようになっていった。

 まんまと術中にはまった僕は、今も時折「スガイ書店」を訪れている。】

(※2010年7月「津幡まちの本屋さん~スガイ書店~」より抜粋/引用)

個人的にも長きに亘り通い続けているお店が、
本日(2020/10/10)、100周年感謝祭を開催した。

ご近所の親子連れで賑わうイベント会場は、
ワークショップ、体験コーナー、飲食販売などが行われ、なかなかの盛況。
僕が興味を引かれたのは「サワガニすくい」。

群がる子供たちの背後から覗き込み、ずいぶん久しぶりに生きたサワガニを見る。
昔、山の小川の岩肌や、川底の石の下から掴み出した事を思い出し、
懐かしさがこみ上げた。

公式HPによれば「スガイ書店」会社設立は、大正9年(1920年) 2月13日。
つまり現時点では101年目に歩み出している。
リアル書店 --- 取り分け「まちの本屋さん」を取り巻く環境は、
決して優しくないだろうと察するが、どうか末永く商売を続けて欲しい。
微力ながら、応援しています。

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昭和の好漢、ピットを去る。~さらば、今やん。

2020年10月09日 08時16分06秒 | 賭けたり競ったり
  
「今村」引退。

そう聞いて感慨を抱くのは、競艇ファンしかいないかもしれない。

きのう(2020/10/08)競艇選手の「今村 豊(ゆたか)」氏(59歳)が、
およそ40年の競技人生に幕を下ろした。
引退を決意したキッカケは、最低体重制限の変更だった。

<令和2年11月1日以降を初日とする競走より、
 全競走を対象に男子選手の最低体重基準値を
 現行の51kgから52kgに引き上げます。
 現在の選手の平均体重は、男子が約54kgとなっており、
 男子選手の平均体重と最低体重との差が大きく、
 また、厚生労働省の統計データにおける
 日本人男性の平均体重との差も大きい状況にあったため、
 男子選手の健康維持並びに身体能力の発揮による事故防止を目的に、
 最低体重基準値を引き上げることにしました。>
(※ボートレース公式HPより、抜粋・引用) 

太れない体質の「今村」氏は、減量ではなく、増量に苦労していた。
何しろ秒単位で着順を争う競技だ。
ただ増やせばいい訳ではない。
レーサーとしての力を落とさずに、増量しなければならない。
軽いなら、重りを身に着ければ出走可能だが、
それは「自分で練り上げたベストな状態」ではなく信条に反した。
年間ほぼ休みなく各地を回り走りながら、過酷な体調管理に耐えてきたが、
更に基準が上がり限界を悟ったという。

正直、衰えも感じていただろう。
最上位カテゴリーには踏ん張っているが、
全盛期には及ばず、特に一線級との戦いでは活躍から遠ざかっていた。

かく言う僕は、競艇ファン歴の浅い若輩者。
氏のピークを目の当たりにしていない。
しかし、それでも残した偉業は記録を見ればわかる。

デビューは1981年5月、初戦でいきなり初勝利。
1982年4月に初優勝。
同じ年7月にG1レース初制覇。
1984年5月の浜名湖オールスターでは、当時の最年少記録でSG初優勝。
これまでの優勝回数は、歴代3位の通算142。 
うちG1は48V、SGは7V。
生涯獲得賞金は歴代2位の29億5,000万円あまり。
--- 「すごい」の一言だ。

フラッシュが明滅する引退会見。
質問に丁寧に受け答えする中で、僕が最も印象に残ったのは次のやり取りだった。

記者「40年のレーサー人生で、やり通したことは何でしょう?」
今村「自分から艇(ふね)をぶつけにいかない事です。
    レースの中でぶつかってしまう事はありましたが、
    自分からぶつけに行った事は、一度もない。」
   
激しい勝負の世界でクリーンファイトを貫き、
当時の競艇界の常識“コーナーではスピードを落として周る”を塗り替え、
フルスロットルの全速ターンを武器に、前述の大記録を打ち立てたのだ。
しかも、難病を抱えながら。
他にも、氏の誠実な人柄を伝えるエピソードは枚挙に暇(いとま)がない。

競艇は、頑張れば70歳でも現役でいられる。
だが、彼はここで幕を引いた。
トップグループの一員のまま、自らピットを去った。
一つの時代が終わった。

「今やん、おつかれさまでした!」
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