1人 路上に座って
女性は、中村幸子さん。新橋で路上に座り靴を磨き続けて45年目を迎えます。
かつて、周りに靴磨きをする何人もの仲間がいましたが、1人だけになりました。
堅い板の上に薄い座布団。正座をして靴を磨きます。
横には、古い仮名を混ぜながら「毎度有難う御座います 靴磨き 500」と書かれたお手製の看板。値段は1回500円なのです。
訪れたのは風が冷たく息が白くなる日。
「ブーツでもいいですか」と記者が尋ねると、「どうぞどうぞ」と笑顔でパイプいすを勧めてくれました。
「ここに足を置いてね」。黒い粘着テープで巻かれた木製の足置きに靴をのせると、ブラシで汚れをとってくれます。
次の作業に驚きました。なんと真っ黒のクリームを直接、中村さんの指先につけ、塗り始めたのです。
私のやり方だから
「素手で塗るんですか!」と聞くと、「皮の様子が分かるし、なじみがいいの」という答え。
指を見てみると、爪の間やささくれたところがひび割れ、黒くなっています。
恥ずかしそうに「たわしで洗ってもね、落ちないんだよ」、「冬場は特に、たわしのとげが痛くて、きれいにできないの」、「でも私のやり方だから」などと話してくれました。
実は、この靴磨き、道路の所有者や警察への届け出が必要です。
都に聞くと、23区内で駅前などの都道で靴磨きをしている人は5人だけ。もう新規の受け付けはしないそうです。
高度経済成長を支えたサラリーマンの足元は、未整備だった道路の砂ですぐに汚れてしまいました。
営業先を訪れる前に、きれいな靴にしておきたい。それを支えてきたのが、かつて多くの駅前にいた靴磨きです。
中村さんは“戦後”と呼ばれた時代の姿をとどめる最後の靴磨き。その姿を見ていると、そこだけ時間が止まっているようでした。
夫が死去 靴磨きで生きる
静岡県で生まれた中村さんが上京したのは、20代のころ。
結婚した夫は病気を患い、50代で亡くなりました。
亡くなる前、10年ほど前からほとんど働けない状態だった夫。
5人の子どもを抱えていて、中村さんは1人で稼ぎ家族を支える覚悟を決めたそうです。
はじめは野菜や果物を売り歩く行商をやってみましたが、ライバルが多く、売り上げがかんばしくありません。
そして、行商で訪れた新橋で靴磨きの人たちの姿を見て、当時40歳で“転職”したのです。
しかし・・・。初めて足を踏み入れた靴磨きの世界は、厳しいものでした。
縄張りがあり、人気の無い端っこに追いやられました。
「新参者は昼間に開くな」と言われて、夜間の誰もいない時間帯にぽつりと座って、来ないであろう客を待ちました。
酒に酔った男に殴られたうえ、売り上げも奪われ、救急車で運ばれました。
それでも、子どもたちにごはんを食べさせるため、心にむちを打って、座り続けました。
集うお客のために
中村さんは、85歳となった今も、平日10時ごろから19時ごろまで11時間座り続けています。
夏は日ざしが強く、冬は風が吹き抜けるこの場所。お客が1人だけの日もあります。
(↑僕より10才も年上)
取材をしていると、60代のスーツ姿の紳士が中村さんの前に座りました。「撮影は足元のみだよ」と言うこの男性は、横浜に住み、わざわざ用事を作って中村さんのもとを訪れるそうです。
新橋にはビルの中などに大手のおしゃれな靴磨き店がありますが、男性が訪れるのはいつも中村さんです。
「おかあさんに磨いてもらうと、靴が上品に輝いて心もしゃきっとするから、仕事もうまくいく気がするよ」「お母さんをよろしくね」と言って笑顔で去っていきました。
ここに来る訳を中村さんは知っていました。
「仕事が大変だった時、初めてここで靴を磨いた日に仕事がうまく進んだんだって。それからずっと来てくれるの」
中村さんを“おかあさん”と呼ぶ客は、ほかにも訪れています。
営業がうまくいかないと愚痴をこぼす男性。恋愛がうまくいかないと涙を見せる女性。
軽やかに靴に布を滑らせながら多くの人の人生を聞いてきました。
そうだね、そうだね、と優しくうなづきながら。
靴が磨かれるとともに、すっきりした顔で去って行くお客がいます。
中村さんは、そんな姿を見送る時、靴磨きをやっていてよかったと感じるそうです。
靴も心の曇りも磨くようなふれあいが中村さんを支えているのかもしれません。
“いま”とつながる瞬間も
最近は、若い人の訪れが減り、常連さんばかりです。
チェーンの靴磨き店が広がったうえに、自分で磨く人も増えたのかもしれません。
しかし、先月から始まった、月末の金曜日に早めの退社を促すキャンペーン「プレミアムフライデー」の2月24日。
駅前は夕方の早い時間からスーツ姿の人たちであふれ、中村さんの靴磨きにもふだんの倍近いお客が訪れたといいます。
「また来るね」と言ってくれた珍しい新規のお客もいて、中村さんも新しい時代にちょっと期待しているようでした。
最後のその時まで磨き続けたい
靴磨きで育て上げた子どもたちに孫が産まれ、中村さんは自分で稼いだお金で
孫においしいものを食べさせてあげるのも楽しみです。
13年前には、がんを患った時も、手術をして糸も抜けていない2か月後に、決して環境のよくない“仕事場”に戻ってきました。
記者のブーツを足に力を感じない軽やかさで磨き上げて、しわのよった優しい目で、見送ってくれた中村さん。
別れ際のことばは「私を必要としてくれるお客がいるかぎり、死ぬまでここに座っていたいの。私の名前は、幸子。人に幸せになってほしい、って願いが込められていてね、それが私の幸せでもあるのよ」でした。
冬の間使い込んだブーツは、上品に輝いて、息を吹き返していました。
↑小学校の土地譲渡の問題に関係している「金の亡者」達よ。中村さんに何とか言え(# ゚Д゚)
★野党共闘