80年前、日米両軍が多数の死傷者を出した硫黄島(いおうとう=現東京都小笠原村)。島民の多くは戦闘前の強制疎開で生き永らえたが、火山活動による島の隆起などを理由に、今も帰還を許されていない。旧島民からは、故郷を懐かしみつつ、あきらめに似た声も聞かれる。(服部展和)
◆1944年、激戦を前に本土に強制疎開
硫黄島の地図で自宅の場所を確認しながら記憶をたどる森下佳代子さん=東京都八丈町で
「島に行くのは、あれで最後。もう年だからね」。森下佳代子さん(90)は八丈島(東京都八丈町)の自宅から、約900キロ南にある故郷・硫黄島の方角に目を向け、つぶやいた。
太平洋戦争で激戦地となる前年の1944年、島民約1100人は本土に強制疎開させられた。森下さんが故郷を後にしたのは1944年7月。国民学校初等科5年、10歳のときだった。軍属として島に残された2人の兄のうち、三男の山本力男さんは1945年3月に22歳で戦死した。遺骨は見つかっていない。
戦後10回ほど故郷の地を踏んだ森下さんが「あれ」というのは、昨年10月の硫黄島への墓参。慰霊碑にたっぷりと水をかけ、力男さんを悼んだ。
◆一家で開拓、硫黄島の暮らしは豊かだった
硫黄島の暮らしは豊かだった。一家で開拓した約11ヘクタールの広い土地でサトウキビを栽培し、砂糖を製造。「今も砂糖を見ると、できあがったばかりの砂糖を味わった子どもの頃を思い出すのよ」。漁で捕ってきたムロアジを節に加工したり、牛や豚、ニワトリなどを飼ったりもしていた。
「仕事を手伝うよう家族に言われたけれど、それが嫌でね」。10人きょうだいの下から3番目。逃げ回っていると、一回りほど年上で教育係の力男さんにこっぴどく叱られた。一番の楽しみは「家族で出かけた監獄岩」。休日、漁に使うカヌーで島の北西部にある、少し怖い名前の岩場に渡り、キャンプを楽しんだ。
硫黄島の摺鉢山から望む監獄岩(左奥)=東京都小笠原村で(神田園美さん提供)
◆島に残った2人の兄、寂しそうな表情が忘れられない
旧日本軍の飛行場建設に伴い、島内で2度転居した。それよりも生活を一変させたのは、戦況の悪化だった。自宅は米軍の空襲を免れたものの、学校で授業を続けるのは難しいなどの理由で強制疎開となった。直前に渡された通知表は評価の欄が空白のままだった。
島を出る時に見た、船を見送る力男さんと長兄・光弘さん(故人)の寂しそうな表情を今も思い出す。2人がくれたおにぎりには、初めて口にする麦が交じっていた。物資不足の影響だった。
輸送船に乗り換えるため立ち寄った小笠原諸島の父島では、寄る辺もなく、他の疎開者と道路のトンネルで一晩か二晩を過ごした。横浜にたどり着いた後、静岡の御殿場に疎開した。やがて光弘さんの戦死の知らせを受けたが、葬儀の前日、捕虜になり生きていると判明。戦後、顔を合わせることができた。しかし、力男さんは戻らなかった。
戦後すぐ、一家で移った両親の出身地・八丈島が、森下さんの永住の地となった。そこに母から「嫁入り道具に」と渡された硫黄島産の綿(わた)で作った布団がある。強制疎開時に森下さんが持ち出せた、たった3個の荷物のうちの一つだ。打ち直しながら、今も大切に使っている。「島には戻れないけど、当時の暮らしが懐かしいね」
硫黄島の方を眺め、長女の神田園美さん(左)と話をする森下佳代子さん=東京都八丈町で
力男さんの墓参や遺骨収集、硫黄島の記憶―。自身の中で一区切りをつけた森下さんの思いは、長女の神田園美さん(57)=埼玉県新座市=ら家族が受け継いでいる。
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◆異なる戦後の歩み…米軍占領下にあった硫黄島と沖縄
硫黄島と北硫黄島、南硫黄島からなる東京都小笠原村の火山列島(硫黄列島)では、戦時中の1944年、無人の南硫黄島を除く2島の住民の大部分が本土に強制疎開させられた。当時、硫黄島に約1100人、北硫黄島には約90人が暮らしていた。軍属として103人が残され、うち約90人が戦闘の犠牲になった。
ともに激しい地上戦の後、米軍に占領された沖縄と硫黄島だが、戦後の歩みは大きく異なる。沖縄は1972年の本土復帰前後も継続して住民がいた。だが硫黄島と北硫黄島は返還された1968年以降も、火山活動などを理由に「定住が困難」として住民の帰島は認められないままとなっている。
硫黄島の慰霊碑に献花する遺族ら=1月16日、東京都小笠原村で
◆軍事利用だけが進展「世界的にも異常な状態」
一方で島には自衛隊の飛行場が置かれ、軍事利用が進められた。明治学院大の石原俊教授(歴史社会学)は「島民は帰れず、戦後が始まってさえいない。世界的に見ても異常な状態が続いている」と指摘する。
硫黄島の入植が始まったのは明治中期。戦前は拓殖会社が土地を所有し、砂糖などを製造していた。入植者は小作人の立場ながら、義務であるサトウキビ栽培の他にさまざまな農作物の栽培や漁業を営み、温暖な気候もあって豊かに暮らしていたという。だが強制疎開後、本土に地縁のない島民の多くは、戦争が終わっても生活に困窮し続けた。
現在、旧島民が硫黄島を訪れる機会は日帰りか1泊の墓参のみ。「みんなで島に帰りたいね。同窓会を開きたいね」。石原教授は最近の旧島民の言葉を挙げ「すぐの帰島は現実的に難しいが、旧島民が元気なうちに1週間程度の長期滞在を実現させるべきだ」と話した。