中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

柚子湯

2006-12-22 20:23:51 | 身辺雑記
 今日は冬至。昼が一番短い日だ。明日から春分に向けて日は次第に長くなっていく。一陽来復と言うが、春はまだ遠い。

 冬至だから今夜は柚子湯をすることにして柚子を買ってきた。半分に輪切りにして風呂の湯に浮かべると、良い香りがした。皮の黄色も良いものだ。湯船に浸かって浮かんでいる柚子を見ていると、私の体の動きで湯が動き、それに連れて柚子もぷかぷかと移動して、私に近づいてくる。その様子が何となく愛らしい感じもした。鼻先で止まると良い香りがする。手にとって切り口を嗅いだり、皮に爪でちょっと傷つけたりすると香りが強くなる。安物を買ったからこの程度なのだろうか、高いものならもっと香りが強いだろうか、いや、そんな良い柚子なら風呂に入れないで飲むほうの柚子湯にしたほうがいいかなどと取り止めもないことを考えているうちに体が温まってきた。柚子は血行促進効果が高く、冷え性や神経痛、腰痛などをやわらげ、とくに血液の流れを良くするとかで、気のせいかいつもよりは温まった感じがした。香りもいいし、視覚的にも美しく、体も温まる。柚子湯はなかなか良いものだと改めて思った。我が家の湯船はステンレス製で、これが檜で作ったものならもっと情趣があり温かさも違うのではないだろうか。



 冬至と言えば、かぼちゃを食べる風習も昔からあるようだ。妻は冬至の夜の食卓にはいつもかぼちゃを出した。これが息子達にはかなり不評だったが、「冬至にかぼちゃを食べるといいのよ」と妻は半ば強制的に食べさせようとするし、幼い頃から「お母さんの作ったものは嫌いと言ってはいけない」と言い聞かせていたので、しぶしぶ食べていたようだった。妻も工夫してポタージュにしたりしたが、やはり息子達には有り難くない風習だったらしく、妻が逝ってだいぶたってからも、「あれはかなわなかったなあ」などと話し合っているのを聞いておかしく思ったものだった。私もことさらにかぼちゃを食べようとは思わないので、妻がいなくなってからは冬至だからと言ってわざわざ買うことはしなかったが、街の和食の店で今日食べた弁当にはかぼちゃの煮たものが一切れ入っていたから、図らずも風習を守ったことになった。

 妻は節分の夜には鰯を焼いて出した。冬至のかぼちゃと同じように妻はそういうことにかけては几帳面だった。しかし、土用の鰻は出たことがなく「君は土用の鰻は出さないねえ」と冷やかしたこともあった。結婚した頃も子供ができた頃も今と違って中国産の鰻などはなかったので、鰻はそれほど安いものではなかったから、あの頃の妻にとって鰻については、風習を守るよりも家計を守るほうが大きなことだったのだろう。それとも妻は鰻があまり好きと言うほうではなかったから気が向かなかったのか、今となっては確かめようもないことになった。

水槽の魚

2006-12-22 09:40:18 | 身辺雑記
 昼食に寿司屋に入った。カウンターに座って前を見ると壁に水槽が置いてあり、中に何匹かの海魚が泳いでいる。アジが3匹、タイが1匹、名前は知らない朱色の魚が1匹、ハゲが1匹、カレイが1匹いた。水槽の中には金属製の四角い籠が取り付けてあって、中にクルマエビらしいのと、サザエがいる。

 近頃水族館には行っていないから、魚が泳いでいる姿を久しぶりに見たので、注文した寿司が運ばれてくる間、茶を飲みながらその様子を眺めた。アジは鮮魚店などで見るのと違ってきれいに輝く白銀色をしている。胸鰭を広げてゆっくりと泳ぎ回り、尾鰭を見せて少し底の方に向かっている後姿は着陸しようとしている旅客機のように見える。その中の1匹は時々風船ガムを膨らませるように、口から得体の知れない丸い袋のようなものを出してはすぐに吸い込む。タイは水槽の中ほどを泳いでいたが、やがて底に敷いてある小石の上に体を置いてガラスに凭れ、鰭だけを動かしている。尾鰭や鱗の一部が白っぽく傷んでいるようで、何かぐったりとして弱っているように見えた。ハゲは青い色の鰭を動かしながら水槽の中央に空中停止しているようにしている。口がひどく突き出た面白い顔をしていたが、ウマヅラハギと言うのだろうか。朱色の魚は浮いたり沈んだりしていた。カレイは鰭を波打たせながら底で横たわっている。どの魚も大きな丸い目で、瞼がないから瞬きはしない。無表情なようなびっくりしたような顔つきで、見ていると朝の電車の中で前に立った、目がひどく大きな若い娘の顔を思い出した。

 じっと観察しているうちに寿司が運ばれてきたので食べながら見続け、この魚たちはいったいどこで捕らえられてここに運ばれてきたのだろうかと考えた。最近は生きたまま運搬する方法が発達しているから、案外遠くの漁場で数日前に水揚げされ、いくつかの経路を経てこの店に運ばれてきたのかも知れない。そうして偶然に同じ水槽に同居することになったのだろうが、つつき合ったり、体をぶつけ合うこともなく、と言って仲が良さそうでもなく、勝手気ままにゆっくりと狭い空間を泳いでいる。熱帯魚などの飼育と違うから、空気は送り込んではいるが餌をやっている様子はない。いずれ近いうちに寿司のタネにされて、目の前にあるガラスケースの中に並べられるのだろう。そう考えると何かしら哀れにも思えてきた。その癖、あのアジやカレイを活け作りにしたらさぞ旨かろうなどと想像したりもするのだから、いい加減なものだ。

 1人で食事をすると、いつもならそそくさと済ませてしまうのだが、目の前で泳いでいる魚を見てあれこれ考えながら食べたものだから珍しくゆっくりしたけれども、魚に気を取られて食べた寿司の印象はあまり残らなかった。