『朝日』に掲載された投稿の一つは大阪府茨木市に住む77歳の男性の「『公僕』概念を欠く橋下訓示」というものだった。去る2日の夕刊によると大阪市の新規採用職員の発令式での市長の訓示は「みなさんは国民に対して命令をする立場。だからしっかりルールを守らないと命令なんか誰も聞いてくれない」というものだったそうだ。
投書した男性はこれを批判し、「いつから公務員は国民に命令する立場になったのだろうか。戦前の公務員は国民に命令する立場だったろうが、戦後の民主主義下で、公務員は「公衆に奉仕する公僕」になったのではなかったのか」と言っている。そして「大阪市のトップに立つ身として、橋下市長は軽率な発言を厳に慎まれたい。もし普段から思っていたことが無意識に口から出たのであれば何をか言わんやであるが・・・・」と続けている。
全くそのとおりなのだが、私は、彼にとっては「公僕」ということばなどは死語になっているか、化石化したものだろうということは、何かにつけ居丈高な彼の言動から想像はできる。いや、そのような言葉自体彼の辞書にはないのではないか。職員はすべて己の忠実な部下(ある本では彼にとっては「下僕」と言っていたが)でなくてはならず、そのような部下たちが市民に「命令を下す」ことによって、自分が市民を支配しているつもりではないか。市長と言えども「公僕」であることには間違いない。しかし彼にはおそらくそのような「市民に奉仕する」というような謙虚な気持ちは毛頭あるまいと思う、市民に奉仕するよりも命令することのほうが頭にあるのだろう。市民を見下すのもいい加減にしろと言いたくなる。
私が疑問に思うのは、このような市長の逸脱した発言に、事後に忠告するようなよう特別顧問と称する連中や、市の幹部がいなかったのかということだ。皆彼の髭の塵を払っているような存在なのか。それこそ彼の言い分ではないが、何のために彼らの給与のために高い税金を払ったいるのか。
それともう一つ。『朝日』もだらしがない。「淡々と」記事にするだけでなく、コラムでも何でもいいから、このような市長の問題発言を自ら批判すべきではないか。「こんな批判がありました」というように読者の声を紹介し、それで新聞として批判の後押しをしたつもりでいるのなら、何ともいじましい。
(朝の散歩から)
ミモザ(和名:ギンリョウカシア)。マメ科。ミモザはフランス語。
ベニバナトキワマンサク
ツバキ
私の息子たちの通っていた幼稚園に向かう坂道。散った桜の花びらが積もっている。