真実の但馬がわかる「ザ・たじま」
本日をもって、「この街が好き 人が好き ふるさと但馬はもっと好き」の、「もの凄~
くローカルなブログ」は終了します。
2年間、650回の但馬検定問題とお付き合いをしていただきありがとうございました。
ローカルなこんなブログに、おおぜいご訪問していただき、本当にありがとうございま
した。このブログしばらく休みます。
しばらく休んだ後、次の機会には別のテーマでブログを投稿いたします。
それまでの間、みなさまさようなら、さようなら!!
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成25年 第8回但馬検定(1級)問題より
記述式
【79】江戸時代半ばの始まりとされ、1876 年、桜井勉らが
柴田善平を招いて盈進舎を設立し、パリや東京の博覧会で名
声を高めたといわれ、1980 年に「国の伝統的工芸品」に指
定された地場産業は何でしょうか。
正解は、【出石焼】です。
出石焼は、天明4年(1784)のころ陶器で焼いたのが始まり
とされています。その後、優良な磁石鉱の鉱脈が発見され、
染め付け磁器を製作するようになりました。
江戸時代の天保年間に最盛期を迎えるも、明治初期には衰退し
てしまいます。
明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の失職救済のため、有
田焼の陶匠・柴田善平を招いて盈進舎(えいしんしゃ)を設立
して新たに白磁の磁器の製作をします。その出石白磁を、パリ
や東京の博覧会に出展し一躍名声を高めることとなります。
明治32年(1899)のころ、金沢の友田九渓(安清)を招い
て指導を仰ぎ、出石焼の品質改良に努めます。結果、セントル
イス万国博覧会で金賞を獲得し、さらに戦後出石焼の作品が日
展の特選に選ばれるなど作家活動が盛んとなり、昭和55年
(1980)には、国の伝統工芸品に指定されました。
出石の地場産業は、江戸時代から続く白磁の「出石焼」なので
す。
『好きだで そうだで 大丈夫だで 但馬だで』
「~だで」は、但馬弁のことばに尻につけて使います。
「~だで」は、「~だから」の但馬弁です。あるいは「~だよ」
の但馬弁になるのです。
「好きだで」は「好きだから、好きだよ」のことです。
「そうだで」は「そうだよ」、「大丈夫だで」は「大丈夫だよ」、
「但馬だで」は「但馬だから、但馬だよ」となるのです。
でも、なんだか「~だで」なんて付くと、いかにも田舎っぺの感
じがしますね。さすが田舎の但馬です。
「ケンちゃん、外は涼し~なって、天気がえ~んだで(いいんだ
から)、自転車遊びしてやら~か」と誘います。
鳴門市・大塚国際美術館
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成26年 第9回但馬検定(1級)問題より
【64】江戸時代半ばの始まりとされ、1876年(明治9年)に
は、桜井勉らが柴田善平を招いて盈進舎を設立し、パリや
東京の博覧会へ出品し名声を高め、1980年(昭和55年)に
国の伝統的工芸品に指定されたのは、次のうちどれでしょう
か。
(a)杞柳細工 (b)麦わら細工
(c)但馬ちりめん (d)出石焼
正解は、(d)の出石焼(いずしやき)です。
出石焼は江戸時代、陶器や染め付け磁器だったのです。その
後、明治になってからは白磁の磁器となります。
陶器は、土(粘土)で作りますね。瀬戸物と言われる瀬戸焼
が有名です。磁器は、粘土物質とともに、石英や長石をつぶ
したものを材料にしています。唐津焼と言われる、有田の伊
万里焼や九谷焼が有名ですね。
出石焼は、明治9年(1876)に桜井勉らの計らいで、有田の
陶匠・柴田善平や友田九渓を招いて、磁器の技術を学び興さ
れたものですから、有田焼の流れをくむ磁器なのです。
もちろん、出石の山に優良な磁石鉱の鉱脈が発見されたこと
が一番なのです。廃れていた出石の陶器も、明治9年の磁器
への転換で大発展します。
真っ白な出石焼の作品は、戦後になって多くの作家が日展な
どで特選に選ばれ世に飛躍していきます。
現在では、国の伝統的工芸品に指定されて大切にされていま
す。
ちなみに、(a)の杞柳細工は豊岡藩のころから但馬柳行李
として発展した豊岡の地場産工芸品です。
(b)の麦わら細工は城崎町の民芸工芸品、(c)の但馬ちり
めんは但東町、出石町を生産地とするシルク織物の特産品で
す。
『ちべてゃあ』
寒い冬の朝、洗面器の水で顔を洗うと冷たいです。
昔は温水器なんてありません。どんなに寒い朝でも、真水で顔
を洗います。
「あ~、ちべてゃあ~な~。冬の水道水は冷たいわ。ちべてゃあ、
ちべてゃあと叫びながら、一気に顔を洗います」
但馬弁では、「冷たい」は「ちべてゃあ」と言ったのです。
神鍋高原も田植シーズン
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成27年 第10回但馬検定(2級)問題より
【74】兵庫県の伝統的工芸品にも指定されている「麦わら細
工」に使われている材料は、次のうちどれでしょうか。
(a)小麦 (b)大麦 (c)燕麦 (d)はと麦
正解は、(b)の大麦です。大麦のさやを色染めして使いま
す。麦わら細工って城崎温泉にだけ伝承されている、とても
貴重な芸術民芸品なのです。
江戸時代中期、享保年間に因幡(いなば)の国から城崎温泉
に湯治に来た半七という者が、手なぐさみに竹笛に麦わらを
張り付けたことが始まりと言われています。
麦わら細工は大麦のさやに色染めし、ストロー状のものを編
み込む「編組物」と、さやを切り開き平面状の材料を、桐箱
に花鳥などの模様を張っていく「模様物」、幾何学模様に張
る「小筋物」があります。
すべて手作業で作られる麦わら細工は、非常に芸術性に優れ
た逸品ぞろいです。
麦わら細工の実演を見せる民芸館があります。そして、温泉
街の土産物店ではとても高価なものとして売られています。
『よんで~な』
但馬では、昔から食べ物をいただいたりすることを「よば
れる」と言います。
何か少し分け与えてもらうことも「よんでもらう」と言いま
す。
また、もらい風呂をさせてもらうことも、「風呂をよばれる」
と言います。
要は、何かいただくこと、何か分け与えてもらうこと、何か
させてもらうことを「よばれる」と言うのです。
「ちょっとだけでいいんで、よんで~な(たばこや食べ物、
少しだけ分けてくださいな)」と言います。
「水を一杯しょうばんさせてもらうで(水を一杯よんでもら
うで)」と言います。
「へ~、晩なりました。風呂をしょうばんに来ましたや~な。
風呂をよんでおくれんしゃ~。まあまあ、ようきんさった。
なんぼでもよんだげるで。ゆっくり入っていきんしゃ~な」
とあいさつして、もらい風呂をいたします。
春の花
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成30年 第13回但馬検定(2級)問題より
【62】「出石焼」の歴史は江戸時代半ば、1784年(天明4)
に陶器を焼いたのが始まりとされ、戦後、日展の特選に選ば
れるなど作家活動が盛んになり、国の伝統的工芸品に指定さ
れましたが、指定された年は、次のうちどれでしょうか。
(a) 1964年(昭和39) (b) 1972年(昭和47)
(c) 1980年(昭和55) (d) 1992年(平成4)
正解は、(c)の1980年(昭和55)です。
但馬の小京都といわれる城下町・出石は「そば」がとても
有名です。「そば」だけではありません。出石の名産品とい
えば、真っ白な「白磁の出石焼」も有名なのです。
江戸時代の中頃、出石の山にとても優良な磁石鉱の鉱脈が発
見され、染め付け磁器を作るようになりました。とても栄えて
いましたが、明治を迎えるころに衰退します。
明治9年(1876)、旧士族の失職を救済するため、桜井勉ら
が有田焼きの陶匠・柴田善平を招いて磁器の製造を学びます。
出石白磁の名声は高まります。
明治32年(1899)、友田九渓らが出石焼の品質改良に努め、
精魂込めて作った出石焼が、セントルイスの万国博覧会に出品
されます。みごと金賞を獲得したのです。
戦後になって、出石焼の作品は日展の特選にも選ばれ、出石
焼の作家活動も盛んになります。
昭和55年(1980)には、国の伝統工芸品にも指定されていま
す。
「そば」とともに、白磁の出石焼はとても有名な出石の名産品な
のです。
『なんぼ』
但馬弁と言うよりも、関西地方に広く使われているのが「なん
ぼ」です。
何の方言かと言うと「なんぼ」は、「いくら」の但馬弁です。
商品の値段を聞く時も、子供の歳を聞く時も、はたまた「どれだ
けでも いくらでも」という表現にも使います。
「このテレビなんぼするのですか。何円で売ってくれますか」と
問われます。
「ケンちゃんはなんぼになんさった。ミオちゃんはなんぼになん
さる(何歳になられるの)」と、隣のばあちゃんが聞きますね。
「ここの柿の実美味しいで~。なんぼでも持って帰ってええ~で。
なんぼんでも取ってもええから、遠慮せずもってかえっておくれ
んしゃあ」と、「どれだけでも」差し上げると言われます。
朝来市和田山町竹田 天空の城「竹田城跡」
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成28年 第11回但馬検定(2級)問題より
【75】江戸時代半ばの始まりとされ、1876年(明治9年)には、桜井勉らが柴田
善平を招いて盈進舎を設立し、パリや東京の博覧会へ出品し名声を高めた出石焼
ですが、金賞を獲得した万国博覧会は、どれでしょうか。
(a)パリ (b)ミラノ (c)サンフランシスコ (d)セントルイス
但馬の小京都といわれる城下町・出石は「そば」がとても有名です。
「そば」だけではありません。出石の名産品といえば、真っ白な「白磁の出石焼」
も有名なのです。
江戸時代の中頃、出石の山にとても優良な磁石鉱の鉱脈が発見され、染め付け磁器
を作るようになりました。とても栄えていましたが、明治を迎えるころに衰退しま
す。
明治9年(1876)、旧士族の失職を救済するため、桜井勉らが有田焼きの陶匠・柴
田善平を招いて磁器の製造を学びます。出石白磁の名声は高まります。
明治32年(1899)、友田九渓らが出石焼の品質改良に努め、精魂込めて作った出
石焼が、セントルイスの万国博覧会に出品されます。みごと金賞を獲得したのです。
戦後になって、出石焼の作品は日展の特選にも選ばれ、出石焼の作家活動も盛んに
なります。
昭和55年(1980)には、国の伝統工芸品にも指定されています。
「そば」とともに、白磁の出石焼はとても有名な出石の名産品なのです。
答えは、(d)のセントルイスなのです。
『へんこたれ』
ケンちゃんね、但馬弁に「へんこ」っていう言葉があるの。
「へんこ」はね、職人気質のような何か熱中するととことんやらないと気が済まない
性格のことを言うの。
「わしゃ~へんこだしけ~、やりかけたことは最後までとことんやるで~」なんて言
うね。
そんな気難しい職人気質の人を「へんこたれ」と言って、尊敬するような肯定的な意
味でよんだり、あるいは気難しい融通の利かない否定的な意味にとったり、「へんこ
たれ」は硬~い感じの言葉なんよ。
「へんこ」、「へんこたれ」なんてとっても面白い言葉だね。
竹野町猫崎半島を遠くに見る
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成28年 第11回但馬検定(3級)問題より
【98】新温泉町浜坂では、江戸時代に「あるもの」の生産が盛んになりました。
裁縫などに使われ、現在ではレコード機器の部品としても知られる「あるもの」
とは、どれでしょうか。
(a)ハサミ (b)ヘラ (c)針 (d)定規
江戸時代から浜坂の町で生産されていたものは、「みやす針」の名で全国に知
られた縫い針のことです。
寛政11年(1799)の頃、浜坂の市原惣兵衛(いちはらそうべえ)によって、長崎
から縫針製造の技術が持ち帰られました。
医学の修業に長崎に留学していた惣兵衛は、目の当たりにした縫い針製造に着目し
て、技術者2名を連れて浜坂に帰ります。
本格的に生産がおこなわれた天保年間(1835)には、優秀な浜坂の針は「みやす針」
と呼ばれて全国に広まりました。
現在でもその技術は引き継がれ、レコードの宝石針や機械針として浜坂針(はまさか
ばり)の名を残しています。答えは(c)の針です。
『柿の木』
柿の木って、昔はどこの家にもあったね。昔の家はほとんどが農家か兼業農家の家
だから、屋敷も庭も広くって柿の木が二本も三本もあったのかな。
じいちゃんの子供のころ、じいちゃんちにもあったね。
秋の柿が実ったころ、「食べるえ~もんなかったら、柿でもぼって食べとけ」と言わ
れて、柿ぼりをしたんよ。
柿の木はとても背が高く大きいの。それに、木がもろくてすぐ折れるから、登って取
ることはあんまりしないの。
長い竹の先っちょを真ん中から割って、木の枝をはさけるの。竹の先っちょを、柿の
根っこの枝に差して、クルクルっと回すと柿が枝ごととれるんよ。
小さなくぼ柿は、2~3個まとめて枝ごと取るの。
大きな富有柿や美濃柿は、一個ずつそろ~っと慎重に取るんだよ。
下手をすると、ボタっと地面に落ちてつぶれてしまうんよ。
柿ぼりはやっぱり子供の役割で、柿の木の上を見て、フラフラ・フラフラしながら取っ
たんよ。
東近江・永源寺の青もみじ
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成28年 第11回但馬検定(3級)問題より
【92】因幡の半七が伝えたといわれている城崎温泉で人気の高いお土産物は、
どれでしょうか。
(a)ガラス細工 (b)麦わら細工 (c)竹細工 (d)柳細工
城崎温泉には「城崎麦わら細工伝承館」という建物があります。木屋町通りの
大谿川に架かる橋を渡ったところにあります。
城崎温泉に伝わる麦わら細工を、実演して見せていただけます。
江戸の中期、因幡の国(鳥取)から半七という人物が湯治にやってきます。
半七は、湯治で泊まった林屋旅館で時間の合間に、器用に竹笛に麦わらを貼り付け
ていったそうです。
湯治で泊まっている間、麦わらで花かごや虫かごも作り、色つけもしたといわれます。
それが城崎温泉の民芸品である「麦わら細工」の始まりです。
大麦のさやを色染して、ストロー状のものを編み込む「編組物」、切り開いた細い板
状のものを桐箱に貼り付る「模様物」や、幾何学模様の「小筋物」があります。
土産物店で作品が展示されていますが、とても素晴らしい芸術品のような物です。
温泉客へのお土産に、城崎温泉の「麦わら細工」はとても人気があるのです。
答えは、(b)の麦わら細工です。
『つるし柿』
じいちゃんわね、「柿」って買って食べるものではないと、大人になるまで思って
いたね。
ミカンとかリンゴは、これは買わなきゃ食べることが出来なかったけれど、「柿」っ
て、一つとして買って食べたことはなかったの。
ぜんぶ家の裏庭に勝手にできているものを、食べるものだとばっかり思っていたんよ。
大人になってから、一宮町の柿とか、鳥取県の柿をスーパーで初めて買って食べた時、
やっぱり売り物は違うなと思ったね。
美味しいんだわ。
それでも、大人になるまで家に生る柿が「くぼ柿」でも、「富有柿」でも、うまして
食べる「みの柿」でも本物の柿と思って美味しく食べてたんよ。
それから、渋柿の木も庭にあったの。
小さな渋柿の実だったけれどね。その小さな渋柿の皮をむいて、ヒモで吊り下げるの。
そんなに沢山は作らなかったけれど、冬の寒い日に外に吊り下げて干したんよ。
「つるし柿」だね。
小さい実だから、キリキリと寒い風が吹くわけない国府でも、けっこう「つるし柿」は
できたんよ。
柿にしても、「つるし柿」にしても、自分ちのものしか食べたことがないので、大人に
なってお金を出して柿を買ってくるのが、不思議な感じがしてたまらんかったね。
東近江・永源寺山門の青もみじ
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成28年 第11回但馬検定(3級)問題より
【91】国指定伝統的工芸品の白磁の焼き物は、どれでしょうか。
(a)但馬焼 (b)香住焼 (c)出石焼 (d)八鹿焼
ふるさと但馬で白磁の焼き物といえば、すぐに分かります。豊岡市出石町の
窯元で焼かれる真っ白な磁器、「出石焼(いずしやき)」です。
答えは、(c)の出石焼となります。
出石焼は、江戸時代半ば、天明4年(1784)に、最初は陶器を焼いたのが始ま
りと言われています。
のちに、近くに優良な磁石鉱の鉱脈が発見され、染め付け磁器を作るようになり
ます。
江戸時代に磁器の製作は盛んでしたが、明治初期には衰退してしまいます。
明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の職救済のため陶磁器の生産を思い立ち、
九州有田から陶磁器の技術者を出石に招き、製作に取り掛かります。どこまでも
真っ白な陶磁器に、紋様を彫りこんだ器です。
出来上がった出石白磁は、パリや東京でも好評を博し一躍名声を轟かせます。
その後も出石焼の品質改良に努め、セントルイス万博で金賞を獲得、日展でも特選
に選ばれることになります。
昭和55年(1980)には、国の伝統的工芸品に指定され、白磁の出石焼は但馬の名
産品として世に出ていきます。
『砂利道』
昔の道は、アスファルトの舗装なんかしてなかったんよ。昔の道は土のまんま、
それに、穴ぼこがあくから砂利が敷いてあるの。
「砂利道(じゃりみち)」って言うんだよ。
豊岡へ堤防の上を道路があるわな。国道312号線というの。
江原から国府を通って、豊岡に行く道。昔は府中小学校の正門側の道が本通りだっ
たの。
県道って言ってね、バスも通っていたんよ。
じいちゃんが子供のころに、今の国道312号線が出来たの。出来たときは県道、
元々の本通りは、旧県道って言うのはそのためなんよ。
ダイハツの営業所のところから、八代川の水門のところまでを、ずぼっと道を新し
く付けたんよ。
新県道といったの。
新しくできた道でもやっぱり砂利道なんよ。
ずっと長いこと砂利道だったね。雨が降らずに晴れ間が続き、道がカラカラに乾燥
するとどうなると思う。
バスが江原の方から走ってくると、バスの後ろはモ~モ~と砂ボコリなんよ。
モ~モ~とだよ。
目の前が見えないくらいに、砂ボコリが舞い上がるんよ。
それに、タイヤに踏まれた石ころがポンポンと田んぼに飛んでいくの。田んぼの中
には砂利がいっぱいになって、お百姓さん大弱りだったんよ。
じいちゃんちは旧県道のところなんよ。
ずっと先に見える新県道は、バスが通りたんびにモ~モ~と砂ボコリだったんよ。
ケンちゃんね、想像もできんだろ。
今はどんな細い道も舗装してあって、土の道や砂ボコリが舞い上がる砂利道なんか、
見ようと思っても見られんね。