但馬の杜氏

2019年09月10日 | 但馬の産業
            雨上がりの木槿(むくげ)の花


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成25年 第8回但馬検定(3級)問題より

【81】1992 年(平成4年)の記録では、全国の杜氏は
1,754人でしたが、そのうち、但馬の杜氏は全体の約何
割を占めていたでしょうか。

(a)約1割   (b)約2割   (c)約3割   (d)約4割

正解は、(a)の約1割です。

但馬は雪深い地方です。そのため、冬季の働き場所を求めて
出稼ぎとして、全国各地の酒づくりに出かけました。
酒をつくる最高責任者のことを「杜氏(とうじ)」といいま
す。杜氏となって酒造会社に出稼ぎに行くのです。

酒づくりは、杜氏・蔵人がチームとなって、新米の刈り入れ
が終わる10月ごろから、翌年の春まで6~7ヵ月間蔵元に泊
まり込んで行われます。
杜氏の指導のもとで作られる酒づくりは「一蔵一杜氏」と言
われるだけ、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれます。
そんな大切な役割の杜氏の出稼ぎに、但馬の人たちが活躍し
たのです。

今では、最盛期の5分の一にも減少しました。酒づくりが機
械化され、高齢化も伴って減少します。それだけ、手づくり
の味の魅力もまだ重宝されるる時代に、杜氏は貴重な存在と
言われています。


『笑わかすなっちゃ こらえちゃって しちゃら~か』

但馬弁にはいろいろな特徴があります。言葉の末尾に「~ちゃ」
と付いたり、言葉の中に「~ちゃっ~」とか「~ちゃ~」と付
くことがあります。
だいたい「~ちゃ」は、「~なよ ~だね」という意味です。

「笑わかすなっちゃ(笑わかすなよ)」とか、「ほんとだっち
ゃ(本当だね)」と言うのです。
また、「こらえちゃって」は「こらえてやってね」という意味
です。そして、「しちゃら~か」は、「してやろうか」の意味
です。
但馬弁は「~ちゃ」をよく使いますが、なにやら優しく問いか
けるような時に使います。


杞柳製品が現在は

2019年09月09日 | 但馬の産業
          出石川・出石城・有子山


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成25年 第8回但馬検定(3級)問題より

【80】杞柳製品を基盤に発展した地場産業は、どれでしょう
か。

(a)かばん   (b)家具   (c)織物   (d)畳

正解は、(a)の「かばん」です。

豊岡は、全国一のカバンの生産地としてとても有名です。
豊岡がカバンの生産地として歩んだ歴史は、江戸時代から
続いた杞栁(きりゅう)産業が基盤としてあったのです。
江戸時代、豊岡藩の地元殖産を奨励する、杞栁製品の生産
があったのです。

豊岡市の中心を流れる円山川流域には、昔からヤナギの木
がたくさん自生していました。コリヤナギと言います。
コリヤナギを材料として生かそうと、ヤナギかごの生産に
取り組みました。大小さまざまな柳行李(やなぎごうり)
製造として発展します。
杞柳産業の基盤の上に、大正末期から昭和にかけてファイ
バーカバンが製造され始め、昭和10年ごろには豊岡の主産
業となります。
さらに、昭和28年ごろからビニールテックスなどの新素材
を取り入れたオープンケースの製造がはじまり、昭和30年
代はアメリカを中心に輸出も盛んに大発展します。
さらに現代まで各種旅行鞄、ビジネスバック、袋物カバン
など、多種多様のカバン製造に発展していきます。

現在豊岡で製造のカバンには、鞄の特産地・豊岡の伝統と
誇りがつまった「豊岡鞄」のブランドとして全国各地に出
荷されています。
平成18年4月、特許庁の「地域団体商標制度(地域ブランド)」
に県下第一号として認定されます。地域ブランドは食に関
するものが多いのですが、「豊岡鞄」は県下で唯一工業製品
で選ばれています。
現在の栄光ある「豊岡版」のルーツは、江戸時代から続いた
豊岡の杞柳産業にあったのです。


『ほかしとくわ』

「ほかしとくわ」って但馬弁です。「捨てておくわ」の但馬
弁なのです。
「捨てる」を但馬の人は「ほかす」と言います。なので「捨
てておくわ」は「ほかしとくわ」です。

「ケンちゃんケンちゃん。ここに置いてある紙はだいじなも
んだで(大切なものなので)、ほかしたらあかんで」と言い
ます。
その反対に「ケンちゃん、この広告はもう見たしきゃ~、ゴ
ミ箱にほかしといて~や」と頼むと、「よっしゃ、すぐほか
しとくわ~」と応えます。

浜坂の縫い針

2019年08月01日 | 但馬の産業
       淡路一宮・伊弉諾神宮の大クスの木


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成26年 第9回但馬検定(1級)問題より

【62】新温泉町浜坂では、かつて縫針製造の技術が導入さ
れ盛んに生産されましたが、この技術はどこから導入され
たでしょうか。

(a)長崎県          (b)京都府
(c)大阪府          (d)長野県


正解は、(a)の長崎県です。

明和8年(1771)に、市原惣兵衛は浜坂の市原小平治(こへ
いじ)の3男として生まれます。
寛政7年(1795)、24歳の時医学の修行のため長崎に留学し
ます。留学先の長崎で見聞きするものは、その当時の最先端
の技術です。

惣兵衛は特に縫針に着目します。縫針製造に関心をひかれ、
地元の浜坂に持ち帰ることを考えます。
長崎の技術者2名(喜五郎・武兵衛)を連れ帰り、縫針業を始
めます。それが惣兵衛28歳の時、寛政11年(1799)のことな
のです。

最初は火力を使う仕事であるために周囲から嫌われ、なかなか
針の製造が出来ません。本格的に縫針生産が行われたのは、惣
兵衛が亡くなった天保6年(1835)以降で、浜坂の針はとても
品質が良く「みすや針」の名で全国に知られることとなります。

現在でもレコードの宝石針や機械針の生産地として、惣兵衛の
伝えた浜坂針の伝統が残されています。


『いっぴゃあ』

但馬では、「一杯」あるいは「沢山」を表すとき、「いっぴゃあ」
と言う人がいます。あるいは「いっぴゃあ~」かな。
とにかく、器に一杯のことを「いっぴゃあ」と言うのです。

「とても暑いんで、そこの水道の水いっぴゃあよんでおくれんしゃ
あ~(水を一杯下さい。たのみます)」と言う時に使います。

「一杯」でなく、「沢山」の時はこういうふうに使います。
嫁入りのお菓子をもらいに行った人が、
「今日きんさったお嫁さん、見に行きましたや~な。お嫁入り菓
子を何回も手を出したら、いっぴゃあ~おくれんさったや~な。
可愛い~、え~花嫁さんでしたで。お菓子もいっぴゃあ~配りん
さったし」なんて、何袋ももらったお菓子を自慢です。

豊岡のカバン

2019年05月23日 | 但馬の産業
              満月の夕


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成27年 第10回但馬検定(2級)問題より

【72】次のことは「豊岡のカバン」について記述したもので
すが、間違っているのはどれでしょうか。

(a) 江戸時代より発展していた杞柳産業が基盤になっている。

(b) 1968 年(昭和43)企業の共同化を進め近代化を図るた
  めに「豊岡鞄団地」を設置した。

(c) 2006 年(平成18)特許庁の「地域団体商標制度(地域
  ブランド)」に出願し、県下第1号の認定を受けた。

(d) 2013 年(平成25)4 月、「かばんのまち豊岡」を象徴
  する拠点施設として「トヨオカ カバン アルチザン アベ
  ニュー」がオープンした。



正解は、(d)の記述の中で2013年(平成25)4月が間違いな
のです。正しくは2014年(平成26)なのです。なので、この答
えは(d)となります。
さすが2級です。それぞれの設問にある年数も、きちんと正確に
覚えていなければ答えられません。
(a)、(b)、(c)の記述内容は、「豊岡カバン」について
正しい記述です。


『ももける』

「ももける」って、初めて聞く人は分からんでしょうね。
ももを蹴るかと思いますね。
但馬の人は、衣類に毛玉がつくことを「ももける」って言うので
す。

「もも」って、何かくしゃくしゃっとする様(さま)を表してい
るのでしょうか。糸や毛玉の元がくしゃくしゃっとなることから
「ももける」と言ったのでしょうか。
毛玉がつくことを「ももける」と言うのです。

「母さん、このセーターすぐにもしゃもしゃっとももけるわいや。
毛玉取り器できれいにしたのに、すぐまたももけるわ。安もんの
セーターはようももけてあかんわ」なんて、毛玉ができてしまう
ことに不満です。

レコード針の生産地

2018年10月30日 | 但馬の産業
      国府駅前 通学道路はグリーンのベルト


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成30年 第13回但馬検定(3級)問題より

【77】長崎から縫針製造の技術が導入されたことに始まり、
現在も宝石針や機械針などの新しい針工業としてその名を
残している地域は、次のうちどこでしょうか。

(a) 新温泉町竹田        (b) 城崎町湯島
(c) 和田山町竹田        (d) 新温泉町浜坂


 江戸時代から浜坂の町で生産されていたものは、「みやす
針」の名で全国に知られた縫い針のことです。

寛政11年(1799)の頃、浜坂の市原惣兵衛(いちはらそう
べえ)によって、長崎から縫針製造の技術が持ち帰られまし
た。
医学の修業に長崎に留学していた惣兵衛は、目の当たりにし
た縫い針製造に着目し て、技術者2名を連れて浜坂に帰りま
す。

本格的に生産がおこなわれた天保年間(1835)には、優秀な
浜坂の針は「みやす針」と呼ばれて全国に広まりました。

現在でもその技術は引き継がれ、レコードの宝石針や機械針
として浜坂針(はまさかばり)の名を残しています。

答えは、(d)の新温泉町浜坂です。


『だんにゃあ』

 但馬弁でね、「だんにゃあ だんにゃあ」って言うのは「気
にしないよ、構わないよ」という方言なんよ。
更に広く「さしつかえない」とも「問題ない」の意味の但馬弁
なんよ。

「公民館に用事で来たけど、駐車場がいっぱいなの。電気屋さ
んのとこに止めさせてね。だんにゃあ、だんにゃあで。止めて
もらってもだんにゃあで」なんて言います。

「だんにゃあ」が一番よく使われますが、「だんね~」とか
「かめへん、かめへん」とも言います。

うっかり花瓶を落として割ってしまったお客さんに、「だんね~、
だんね~。けが~して~へんか~え」と心配せんでも良いと返事
をします。

やさしく「だんにゃあで」とも言います。

但馬弁らしい言葉の一つが「だんにゃあ」なのです。

但馬の家具製造

2018年05月31日 | 但馬の産業
           はびきのコロセアムの時計台



(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成28年 第11回但馬検定(3級)問題より

【90】約400年前に始まったといわれている家具の産地として有名なのは、どこ
でしょうか。

(a)生野         (b)梁瀬        (c)竹田        (d)出石


 約400年ほど前、朝来市神子畑(みこばた)に住んでいた木地師(きじし)が 

木工製品を和田山町竹田地区に持ち込んだのが始まりと言われています。

「竹田の家具」の始まりまのです。

手作りを主体にした味のある家具は、竹田の家具の特長です。

竹田には、各社がそれぞれ展示場と店を構えて、全国から買い求めに来られるお客さ

まへ、製造直販体制で今も家具の町として栄えています。答えは、(c)竹田です。


『牛小屋』

 昔、じいちゃんが子供の頃には、牛を飼ってるお百姓さんが何軒もあったんよ。

農作業で荷車を引くのに使ったり、田んぼを鋤く(すく:土を起こす)ために使っ

たりしたんよ。

今なら、お百姓さんは軽トラックだわな。

田んぼは、大型トラクターで耕してしまうわな。

昔は、「うちの田んぼ、明日鋤いてもらえませんかえ」と頼んで、牛を持っている

農家に田んぼを鋤いてもらったの。

今は大型トラクターで、1町歩もある広い田んぼでもあっという間にしてしまうと

ころを、昔は牛の鋤きで田起こしは、1反歩の田んぼでも時間がかかったんよ。

そんな牛を飼ってるお百姓さんの家は、家の一角に牛小屋があったの。

だいたい家の裏の方の一角に、牛の住む木で囲った部屋が作ってあるの。

家の中にある「牛小屋」なんよ。

牛の手入れに目が届くように、大切に牛を飼うことの表れか母屋の家の中に牛の部屋

はあったの。

じいちゃんちの隣は牛を飼ってたの。

牛小屋は、じいちゃんちの風呂の焚口の後ろだったんよ。

いつも「モ~モ~」の鳴き声が聞こえるし、ハエはブンブン飛んでるし、ウンチやおし

っこは音をたててするし、少し迷惑なところもあったね。

でもね、牛を大切に飼ってるお百姓さんにとっては、可愛い我が子のように、ハエも、

ウンチも、「モ~モ~」も、何ともなかったと聞いたよな。

但馬の養蚕

2018年03月04日 | 但馬の産業
      城下町 但馬の小京都 「出石」 


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(2級)問題より

【74】明治から大正にかけて但馬の養蚕の中心地として栄え、生糸取引の商いで
隆盛を誇った時代「大正ロマンの漂う町」と評されたのは、次のうちどこでしょ
うか。

(a)城崎町温泉地区          (b)八鹿町八鹿地区   
(c)大屋町大杉地区          (d)生野町口銀谷地区



 明治から昭和にかけて、但馬の養蚕の中心地として栄えた町があります。その

隆盛のあかしとして、民家の建物に「うだつ」を競って施します。日本一「うだ

つ」の数が多いと言われる町並みは、兵庫県景観形成条例の景観形成地区にも指

定されています。

JR八鹿駅から八木川左岸に沿った商店街のことです。生糸取引の商いで隆盛を

誇った時代に作られた町並みは、西洋文化を独自のものとして捉え、大きなガラ

スやタイルを独創的に施した建物が続く町並みです。別の名を「大正ロマンの漂

う町」と評されています。答えは、(b)の八鹿町八鹿地区です。


 ちなみに、(a)の城崎町温泉地区は、言わずと知れた大谿川沿いに3階建て

の古き旅館が立ち並ぶ、山陰の名湯・城崎温泉の町並みです。ここは豊岡市景観

条例の景観形成重点地区に指定されています。

(c)の大屋町大杉地区は、古くから養蚕の盛んな地方で、養蚕のための中3階

建の住宅が美しい街並みをつくっています。ここも兵庫県景観形成条例の景観形

成地区にも指定されています。

(d)の生野町口銀谷(くちがなや)地区は、古くから鉱山の町として栄え、歴

史遺産や近代化産業遺産が数多く残る地区です。ここも兵庫県景観形成条例の景

観形成地区や、多くの建物は国の登録有形文化財に指定されています。


『桑の実』

 昔は、じいちゃんちのまわりもカイコさんを飼う家がまだまだたくさんあったの。

カイコさんを飼って、繭(まゆ)をたくさん作る農家のことを養蚕農家(ようさん

のうか)って言ったの。今日の但馬検定の問題の中で、大屋町大杉地区って出てく

るね。そんな養蚕農家がたくさん但馬にはあったんよ。


 カイコさんて「蚕(かいこ)」って書いて昆虫のチョウチョの一種なんよ。大き

くなって育ってしまうと、大きな蛾(が)になってしまうの。

幼虫をカイコって言って、桑の葉っぱをよく食べるの。そのうち繭(まゆ)になっ

てくれるの。その繭が、シルクとも絹ともいわれるきれいな繊維のもとになるの。

昔は絹を作るために、日本中でカイコさんを飼う養蚕が盛んだったんよ。そのカイ

コさんの食べ物、桑の葉は桑畑の桑の木にできるの。国府だって豊岡だって、八鹿

も養父もどこもここも見渡す限り桑畑ばっかりだったんよ。


 その桑の木に成るのが「桑の実」。桑の実は6月ごろに熟して、赤から黒くなっ

た実はプチプチした小さな粒が固まって成るの。じいちゃんが子供のころは桑畑な

んてどこにもあるし、桑の実を取るなんて好き放題。みんなは甘くて美味しい桑の

実を木から取って好きなだけ食べたんよ。

今では桑の木一本も見なくなったね、昔と大変わりだよ。

疎開してきた地場産業

2018年03月02日 | 但馬の産業
   壱岐市から朝来市に贈られた大凧 道の駅にて
 

(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(2級)問題より

【72】戦時中、大阪市内の企業が朝来市和田山町に疎開し工場を造ったのが始ま
りとされる地場産業で、自動車、コンピューター、携帯電話等の部品として欠か
せないものは、どれでしょうか。

(a)半導体      (b)磁石      (c)モーター      (d)金属バネ



 但馬には、柳行李から発展した豊岡のカバン製造や、木地師(きじし)の木工製

品から発展した和田山町竹田の家具製造など地場産業と言われるものがいくつもあ

ります。

その中でも歴史がとても新しいものに、和田山町の金属バネ製造というものがあり

ます。新しいはずです。第2次世界大戦中に大阪市内のスプリング工場が朝来市和

田山町に疎開し、工場を開設したのが始まりなのです。昭和25年(1950)の朝鮮

動乱特需で景気上昇の波に乗り、そのまま但馬の地にとどまり地場産業となったの

です。答えは(d)の金属バネです。


『花火』

 ケンちゃんもミオちゃんも庭でよく花火して遊ぶね。夏でも秋でも、冬だって花

火して遊ぶね。今は昔と違って年がら年中花火を売ってて、やさしい父ちゃんはよ

く遊んでくれるね。

じいちゃんが小さいころは、花火ってあんまり買ってもらえんかったの。家で花火し

た思い出あんまりないね。花火は豊岡の柳祭りの時に見る、空に打ち上げられるもん

しか知らんね。じいちゃんの子供のころの花火の思い出は、柳祭りの大きな花火だけ

だったんよ。

大正バスケット

2018年02月15日 | 但馬の産業
        大雪の竹野駅 今度の雪は浜雪だわ

        
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(2級)問題より

【53】江戸時代には大名から一般の人々にまで「旅行具」として利用され、大正
時代には「大正バスケット」として大流行し、現在に引き継がれている伝統的工
芸品は、何でしょうか。

(a) 竹田木工     (b) 杞柳細工     (c) 麦わら細工     (d) 豊岡かばん


「大正バスケット」として大流行し、海外にも進出して大きく発展したカバンの

材料は、コリヤナギ(行李柳)です。江戸時代、豊岡藩主・京極高盛(きょうご

くたかもり)のころ、柳の栽培、柳の加工、柳編みの技術育成が奨励され、豊岡

で生産される杞柳(きりゅう)細工製品は「但馬柳行李」として全国的地位を確

立しました。

明治14年(1881)、手に提げて歩く「こうりかばん」が生まれ、大正6年(1917)

には、漆塗り、錠前付きの新型鞄が登場します。特に柳バスケットは「大正バス

ケット」として大流行したのです。柳製品の材料ですから杞柳細工と言います。

答えは(b)の杞柳細工となります。


 ちなみに、(a)の竹田木工は、朝来市和田山町竹田の家具製品の元になった、

朝来市神子畑(みこばた)の木地師の木工製品のことです。

(c)の麦わら細工は、城崎温泉のお土産民芸品で、江戸のころ湯治の手なぐさ

みに、竹笛に麦わらを張り付けたことから始まったといわれます。

(d)の豊岡かばんは、言わずと知れた全国一を誇る豊岡市の鞄産業です。もと

は杞柳細工から始まり、ヤナギバスケットからカバン製品に発展した産業です。


『出石の初午』

 ケンちゃんは、出石の初午に父ちゃんに連れてってもらったかな。まだかな。

じいちゃんが幼稚園の時なんよ。幼稚園の部屋は小学校の校舎の一番道側の一階に

あったんよ。窓をコンコンとたたいて合図する、あんちゃんがいたの。

昭和27年の3月18日だわな。その頃はのんびりしてたんだね、地区内の者なら、

勝手に校舎の窓をコンコンとたたいても怪しまれんかったの。

あんちゃんはじいちゃんの兄さんだったの。12才離れた兄さんは、17歳のあん

ちゃんだね。「出石の初午に連れてっちゃるからおいで。先生にも頼んでやるから

一緒に行こう」と、あんちゃんは自転車に乗せて、出石の初午に連れて行ってくれ

たんよ。


 じいちゃんが出石の初午に初めていった思い出なんよ。そろそろ春がやって来る

なあと思う頃、3月18日は出石の初午大祭というとても大きな祭りだったの。

春はそこまでやって来ているはずなのに、この日に限って寒い北風が吹いて、雪が

舞うこともあるの。

そんな雪の舞う中を、自転車の後ろに乗せてもらって1時間近く走って行ったんよ。

昔から露店はずらっと何軒も出てたの。見世物小屋もあったな。あんちゃんと一緒

に露店を見ながら歩いたことを。万能ナイフとか言って、何本も刃やキリのついた

折り畳みナイフを、あんちゃんが買ったことを思い出すね。

出石の初午が来るたびに、70年近く前のあんちゃんと行った楽しかった祭りのこ

とを思い出すね。

江戸後期の産業

2018年01月21日 | 但馬の産業
        出石町・小坂平野の雪景色



(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(2級)問題より

【14】江戸時代後期には、藩の奨励により但馬各地で独自の産業が発展したが、
現在の新温泉町から豊岡市竹野町にかけての山間部で発展した産業は、次のう
ちどれでしょうか。

(a) 養蚕       (b) 造船       (c) 綿花       (d) 製鉄


 江戸時代後期には豊岡の柳行李(やなぎごうり)、出石の出石焼、美方の但馬牛

の飼育、大屋の養蚕業等々の産業が奨励発展します。

二方(ふたかた)郡久斗山から美含(みくみ)郡香住、竹野にかけての山間部では、

砂鉄を原料にした製鉄も発達しました。この地帯は地質が山陰型黒雲母花崗岩であ

り砂鉄が出ました。豊富な水があり、製鉄に欠かせない火力の燃料となる森林に恵

まれていました。

江戸時代には、砂鉄から鉄を精錬する「たたら製鉄」が藩の奨励のもと行われてい

ました。現在の新温泉町浜坂から、香美町や竹野町にまたがる山間部で発展した製

鉄産業です。答えは(d)の製鉄です。


『上(かみ)どなり』

 ケンちゃんケンちゃん、何日か前には「下(しも)どなり」のMばあちゃんの話を

書いたね。今日は「上(かみ)どなり」のHばあちゃんちの話なのよ。

じいちゃんが子供の頃の池上って、家が28軒しかなかったの。その一軒一軒の呼び名

を、子供だったけれど大人と同んなじように言ってたんよ。不思議だね。近所のどの

おうちの大人の名前も、みんな分かってて、大人と同んなじように呼んで たんよ。凄

いだろ。 今より近所付き合いが、大人も子供も混ぜこになって深かったのかな。どこ

の子供も、同じように他所(よそ)の家の名前や大人を呼んでいたと思うよ。
 

 「上どなり」って江原の方だよ。上どなりは牛を一頭飼ってたの。子牛を生ませる

ために飼ってる牝牛なんよ。Hばあちゃんが牛の世話をしてたな。夕方になったら牛

を散歩に連れ出して、道の草を食べさせるの。一頭を大事に大事に育てるの。

牛小屋といっても、そのころの牛飼いは人の住む家の一角が牛小屋なの。家の中で牛

を飼って大切に大切にしたんよ。

その牛小屋は柵一つで外から丸見え、じいちゃんちの風呂の焚口のところと向かい合

わせなんよ。「モ~、モ~」と、朝から晩まで鳴き声も聞こえてくるし、たかるハエ

もいっぱい飛んでくるの。そんな隣り合わせの、上隣りの牛さんだったんよ。


 Hばあちゃんは、隣だったから何でも仲良くしてもらう良いばあちゃんだったね。

「お前の名前は隣のHさんが “まあ、国のために尽くすように『くにお』でよから

あ” って付けてくれたんよ。Hさんが名付け親なんよ」と聞いたことがあるんよ。

Hばあちゃんは、なんでもお付き合いしてくれるいい人だったんよ。

じいちゃんちには牛がいなかったけれど、毎日毎日牛の鳴き声「モ~モ~」聞いて、

その牛を飼うHばあちゃんに名付けてもらって生まれてきたんよ。じいちゃんは。

但馬の特産品

2018年01月09日 | 但馬の産業
          出石城より城下町を見る


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より

【92】新温泉町浜坂で、かつて長崎から製造技術が導入され盛んに生産された特
産品は何でしょうか。

(a) 縫針       (b) 金属バネ       (c) 畳       (d) 家具


 最近、アナログレコードが復活しているというニュースが流れました。

パナソニックも、かってのブランド「テクニクス」をカムバックさせました。

アナログレコードには、レコード針っていりますね。その生産地が、ふるさと

但馬の新温泉町にあるって知っていましたか。

新温泉町浜坂は、かって縫い針の生産がとても盛んなところでした。江戸時代、

寛政11年(1799)のころ、長崎に医学の修行に留学していた市原惣兵衛(いち

はらそうべい)と言う人物が、長崎の縫針製造技術に着目して技術者(喜五郎、

武兵衛)二人を連れて地元に帰ります。浜坂の町は縫い針の生産地となりました。


 その後、縫い針製造のルーツを持つレコード用の宝石針や、機械針の新しい針

工業が発展します。現在、全国に数社となったレコード針の生産会社、浜坂には

そのうちの1社があります。日本精機宝石工業(株)さんが頑張っています。

答えは(a)の縫針です。


 「金属バネ」は、戦時中に大阪からスプリング工場が疎開して来て、朝来市和

田山町に残って発展した地場産業です。

「畳」は、豊岡市日高町で発展した「わら縄製品」から引き継がれた「畳床(た

たみどこ)」、それの完成品である「畳」に受け継がれた地場産業です。

「家具」は、400年ほど前、朝来市神子畑(みこばた)の木地師(きじし)が、

和田山町竹田に木工製品を持ち込んだことがルーツの、朝来市和田山町竹田の特

産物です。


『カンテラ』

 ケンちゃん、風呂に入るところ明るいね。父ちゃんが、3個とも電球をLEDに

したもんだから、ムチャクチャ明るいね。それに風呂ん中も明るいね~。

昔のじいちゃんちの風呂はね、とっても暗かったの。電気なんてなかったんよ。も

ちろん服を脱ぐとこもなかったの。風呂の焚き口(火を燃やすの。薪をくべるとこ

ろ)の土間が、服脱ぐところで電気なんてないよ。風呂の中もないくらいだもん。


 風呂の中はね、「カンテラ」っていうものがあったの。じいちゃんちの「カンテ

ラ」って呼んでいたのは、小さな丸いビンに火が点くやつなんだわ。灯油の火が芯

について、ポワ~っとした灯りが点くやつなんだわ。

明るさっていっても、ほとんど暗いの。風呂の中だって、アカが浮いていても少し

も分からないくらいなの。それでも、ユラユラ~、ユラユラ~っと水に映る炎がな

んとも美しかったなあ。カンテラの明かりで風呂に入ったんよ。

豊岡カバンのルーツ

2018年01月08日 | 但馬の産業
           ケンちゃん七草がゆを食べる



(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より

【91】豊岡のカバンは、もともとはある素材を用いたかご編みの技術から発展し
たといわれていますが、ある素材とは何でしょうか。

(a) 藤       (b) コリヤナギ       (c) カズラ       (d) 竹


 豊岡のカバンは、大正末期から昭和にかけて作り始められた「ファイバーカバン」

がスタートです。しかし、そこに至る元に、杞栁(きりゅう)産業という土台があり

ました。

杞栁(きりゅう)とはヤナギのこと、柳行李(やなぎこうり)に代表されるヤナギ製

品の加工です。

豊岡盆地は湿地帯が多く、ヤナギ製品の材料になるコリヤナギの栽培に適していまし

た。江戸時代より地場産業として奨励された杞栁産業です。

衣類を入れる大きな行李、弁当のご飯を入れる飯行李、ヤナギの籠(かご)や物入れ

を作りの家内産業が発展してきました。

その流れに乗って、鞄のスタートであるファイバーかばんや、ビニールテックスのオ

ープンケースの製造、さらに合成皮革や本革の鞄へと発展して、全国有数のカバン生

産地となりました。

今では、鞄の産地・豊岡の伝統と誇りがつまった「豊岡鞄」のブランドで、全国・全

世界に飛躍しています。

豊岡鞄のルーツである柳行李の材料・コリヤナギが、この問題の答えとなります。

答えは(b)のコリヤナギです。


『おかいさん』

 昨日、ばあちゃんが作った「おかいさん」を食べたね。

「ハイ、今日は七草がゆを食べる日よ」って食卓に出された「おかいさん」を食べたね。

ケンちゃんもミオちゃんも、美味しそうに食べてたね。

『ケンちゃん、このおかいさん何が入ってるのかな』と尋ねると、すかさず父ちゃんか

ら「じいさん、おかいさん違うよ。お粥は “お・か・ゆ” だよ、 “おかゆさん” 」

と指摘されます。

「そんなん、 “おかい” なんて今頃しゃべれへんよ。そんなんしゃべるのは、じい

さんだけと違うか」と指摘です。


 『あのね、おかいさんは但馬の方言よ。子供の頃からおかいさん、おかいさんと言っ

てたよ』と反論します。そうなんです。ふるさと但馬ではお粥のことを「おかいさん」

というのです。

「今日は腹ぐや~がわり~ので、おかいさんでも食べとれ~や」なんて言います。

あっ、ケンちゃんに、七草がゆの七草って何が入ってるのか聞いてたんだね。

ケンちゃんは「ダイコン、ナズラ。え~っとそれから “ほ・と・け・の・ざ” 」っ

て言うのです。えらい難しい「ホトケノザ」なんて草の名を知ってるのです。


 「ウン、こども園で食べたんよ。ダイコンだら、ナズラだら、ホトケノザに、スズナ

にゴギョウにセリにハコベラって先生に教えてもらったもん」と言うのです。

7つの草や野菜の名前をスラスラと話すのです。

『じいちゃん小っちゃい時、おかいさんはよく食べたけど、あんまり七草がゆは食べた

ことなかったな』、『ケンちゃんは7つも、何が入ってるか言えたね。凄いすごい』。

『じいちゃんでも知っとらんこと、凄いわエライ』と、七草がゆの食卓で孫の成長に感

心します。

但馬の養蚕技術

2017年12月24日 | 但馬の産業
  メリークリスマス サンタが今夜はやってくる


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より

【76】養父市大屋町出身で養蚕技術の改良、指導にあたり、江戸期の代表的養蚕
書「養蚕秘録」を著したのは、誰でしょうか。

(a) 上垣守国      (b) 堀田瑞松      (c) 中江種造     (d) 河本重次郎


 答えは、(a)の上垣守国(うえがきもりくに)です。大屋町蔵垣(くらがき)

に宝暦3年(1753)に生まれた上垣守国 は、18歳の時先進地の福島で養蚕を学

び、蚕種(さんしゅ:蚕の卵)を但馬に持ち帰り、但馬の養蚕業育成に一生をさ

さげた人です。のちに蔵垣村の庄屋も務め、48歳の時には養蚕の技術書「養蚕秘

録」も出版、シーボルトもこの本をオランダに持ち帰ったという優れたものでし

た。大屋町には、上垣守国養蚕記念館でその功績をたたえ、守国の資料が大切に

保存されています。


 堀田瑞松(ほったずいしょう)は豊岡市城南町出身、明治の彫刻家の大家であ

り我が国の専売特許第1号を獲得したことで有名な人物です。

中江種造(なかえたねぞう)は豊岡市京町出身、明治の鉱山王として成功、「中

江済学会」という育英基金を創設し現在でも続いています。また、豊岡市上水道

建設費を全額寄付したことでも有名で、市内には立派な銅像が建っています。

河本重次郎(こうもとじゅうじろう)は豊岡市出身、日本近代眼科の父と称され

るとても有名な人物で、明治の日本で、眼科の技術を先進国の水準に近づけるた

めに、大いに貢献した人物です。


『サンタクロース』

 ケンちゃんミオちゃん。今夜はクリスマスイブだね。三日も四日も前から、ケン

ちゃんもミオちゃんも言ってたね。「僕はサンタさんに〇〇頼んだの、私は〇〇よ」

と言ってたね。『そうだね、お父さんお母さんの言うことをよ~くきいてたら、サ

ンタさんはちゃんとプレゼントもって来るよ』とじいちゃん言ったね。ケンちゃん

は「う~ん、こども園に来たサンタさんは歩いて来たけど、うちには空からトナカ

イのソリに乗ってくる来るかな」、「どうして家の中に入ってくるんかな」と、い

きいきと話します。とても楽しみにサンタの来るのを待っているようです。


 じいちゃんも小さいとき、家にサンタさんがやってきたんよ。靴下を枕元に置い

ておくの。朝起きてみると、靴下の中に何が入ってたと思う。じいちゃんの小さい

時のサンタさんのプレゼントは、「キャラメル3粒」だったんよ。でもね、滅多に

食べられないキャラメル、さすがサンタと思ったね。よく見ると、姉ちゃんの靴下

にも、妹の靴下にも、だれの靴下にも「キャラメル3粒」だったんよ。

但馬の廻船業者

2017年10月28日 | 但馬の産業
  日高町池上 夕焼け


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より

問【18】  但馬沿岸で江戸時代から明治時代に栄えた廻船で、1847 年、久美浜代官
所に免許の申請をした船数が一番多かった港は、次のうちどこでしょうか。

(a) 柴山港    (b) 浜坂港    (c) 竹野港    (d) 諸寄港


 廻船って江戸中期の北前船のことだって。日本海側の沿岸を船が行き来して、

各地の産物を運んだの。その寄港地として、但馬沿岸の港もおおいに栄えました。


但馬の港を使って、中・小廻船で荷物を運ぶ者もたくさん現れます。船主は久美

浜代官所に廻船の願いを出さねば、輸送の業にたずさわれません。江戸末期のこ

ろ、但馬の廻船は計169隻あったそうで、竹野港が56隻で一番多かったとい

われます。


なので答えは(c)の竹野港です。


『突っ張り校舎、突っ張りの家』

 じいちゃんの通っていた府中小学校は、木造二階建ての校舎だったの。建物の

北側には、地面から2階の高さまで届く突っ張りがしてあったの。斜めに太い材

木の三角形の突っ張りが、ずらっと並んでいたの。


 じいちゃんちは、古くて小さくて一部二階建ての家だったの。二階建ての作業

場の建物には、北側に突っ張りがしてあったの。太い電柱をそのまま、建物に斜

めに突っぱねて三本ばかりがつっかい棒にしてあったの。

そういえば、建物は目でも分かるほどに傾いているの。戸の立て付けも、斜めに

スキ間が大きくできていて傾いていたな。いつかお父さんが言ってたよ。北但大

震災の時に傾いたまま、つっかい棒で持たしてるって。


 学校帰りの上級生が「あっ、この家傾いているいる~、傾いているわ~。突っ

張りの家だわ」と冷やかしたな。そんな時いつも「小学校でも突っ張りだないか、

家ぐらい突っ張りでもいいじゃないか~」って、

じいちゃんが大きくなった家は、北但大震災の名残りがちょっぴりあって、傾い

た家につっかい棒がしてあったんだよ。