自然のままの森を行く、たじま高原植物園

2017年06月11日 | ふるさと

たじま高原植物園(香美町村岡区和池)


 楽(たの)しみは   自然のままの  木立から  みどり萌えさす  ひかり見るとき

ふるさとの話「7月号」は、医は仁術なりの話です

2017年06月11日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   ふるさと誇り  仁術の  井東医院の  はなし書くとき



日曜日の午前中、パソコンに向かって書きました。
日高町八代にあった赤ひげ先生こと「井東医院の井東勇医師」のお話です。

7月号の「まちのでんきや便り」に入れます「ふるさとの話」、
それとクロスワードパズルを作ります。

今日はまず、「ふるさとの話 ㉚」が出来ました。
写真で、チラッと紹介いたします。

井東医院物語

2017年06月09日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   赤ひげか行の  庵訪ね  医は仁術の  話聞くとき



来月号の「ふるさとの話」は、日高町八代にあった井東医院を書くことにしました。

二百年前より代々続いた、村医者・井東医院の四代目、
仏のような井東勇医師の話しです。

井東勇先生の村のお医者さんとしての活躍は、
住民から「仏のような」と敬われ、「医は仁術なり」を一生貫いた素晴らしいお話です。

取材のために「赤ひげさんのか行庵」に出かけました。
「か行庵」て面白い名前ですね。

「か行庵」は3年ほど前に出来ました。

井東勇先生が亡くなった昭和51年から、40年近くも留守宅になってた井東医院の建物を、
地区の住民の皆さんの協力で、今では「憩いのカフェ」になっているのです。

「か行庵」には、井東家の歴史の資料も並べてあります。
「村のお医者さん 医は仁術なり 井東医院物語」の本もありました。

井東家と田中河内介とのかかわりの資料も、たくさん並べてありました。
わくわくするような井東医院の歴史です。

村人と井東勇先生との、
「仏のような、涙が出るような」、敬愛と感謝の話が書けたらいいなと思いながら取材をしました。

さあ、来月号の「ふるさとな話」は、ふるさと但馬の八代に育まれた、
井東勇先生の「医は仁術なり」の話しを書きますね。

但東町の子午線の塔

2017年06月08日 | ふるさと

豊岡市但東町中山・県道2号線(宮津八鹿線)東側には、子午線の塔と子午線観音が建っています。


 嬉(うれ)しさは   ふるさと但馬  南北に  走る子午線  観音見るとき



兵庫県は、
南は太平洋から、北は日本海まで広がる大きな県です。

また、
兵庫県は日本標準時の東経135°の子午線が、県内を南から北へ串刺しのように走っているところです。

東経135°の子午線の一番南は、
和歌山県は和歌山市沖ノ島西端の、友ケ島灯台からスタートして北上します。

淡路島、明石市、神戸市、三木市、加東市を北上して、西脇市の日本のヘソ公園を通過します。
ヘソ公園は、東経135°、北緯35°が交差する、日本のちょうど切りのいいヘソっていう訳のところです。

さらに北上します。
山南町、氷上町、青垣町を通過し、ほんのちょっと京都府福知山市夜久野町を縦に通過します。

夜久野町を山越えしますと、兵庫県豊岡市但東町に入るのです。
兵庫県はここまで、そのあとは京都府の丹後半島の久美浜町、網野町で日本海に抜けていきますね。

その但東町の子午線標識は、中山地区の県道沿いに建っています。
坂本勝知事の書で「子午線の塔」と銘板があり、東経135°、北緯35°30‶の大きな看板が建っています。

西脇市のヘソ公園は北緯35°ですから、
但東町は北に0.5°上がったところとなるわけです。

隣には、
およよ、珍しきかな子午線観音まであります。交通安全の観音様だと書いてありました。

今日は、ふるさと但馬にあります。
日本標準時の東経135°子午線を見て走ります。

ものすごく晴れた日曜日、山陰海岸道路を走る

2017年06月04日 | ふるさと

NHKの朝ドラ「ふたりっ子」の撮影が行われた鎧駅、その眼下に見える鎧漁港



 嬉(うれ)しさは   さわやか6月  潮風の  香住(かすみ)鎧(よろい)の  道走るとき

かって東洋一の高さ規模を誇った「余部鉄橋」の跡を見に出かけます

2017年06月04日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   道の駅ある  空の駅  余部鉄橋  跡を見るとき

チャレンジデー2017の結果

2017年06月04日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   チャレンジ相手  碧南市  あまりの凄さ  感心するとき



チャレンジデー2017の結果が出ていました。
豊岡市は碧南市に完敗していました。

我が家も家族で参加して頑張りましたが、残念でした。
碧南市に大きく差をつけられて、負けてしまいました。

5月31日に全国一斉に行われた。スポーツの参加率を競うイベント「チャレンジデー2017」です。
豊岡市の対戦相手は、愛知県碧南市です。

碧南市とは2回目の対戦になります。
6年前の成績は、豊岡市民の参加率55.5%で勝ちました。

今年の成績です。

豊岡市人口83,893人、参加豊岡市民67,666人で参加率80.7%でした。
これに対して、愛知県碧南市人口72,107人、参加碧南市民68,245人で参加率94.6%ではありませんか。

94.6%ですよ。この数字は参加自治体の中でもトップです。
碧南市の驚異的な参加率で、豊岡市は負けてしまいました。

前回の豊岡市との対戦では負けてしまった碧南市は、雪辱を掛けて市民総出で燃えたのでしょうね。
凄いことです立派です。

しばらくの間、豊岡市の庁舎のポールには勝った碧南市に敬意を表して、碧南市の市旗が掲げられます。
おめでとう碧南市。凄いですね碧南市。

日本一凄い碧南市と戦った我が豊岡市も凄いです。
碧南市のポールにも、コウノトリ舞う豊岡市の市旗が、そよそよそよと掲げられることでしょう。/font>

答えは「田んぼのアマガエル」、簡単過ぎると皆が言う

2017年06月02日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   クイズのヒント  やさし過ぎ  皆んなが皆んな  簡単言うとき

豊岡市は快晴の下、チャレンジデーの1日でした

2017年05月31日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   早朝ウォーキング  15分  昼もバタバタ  チャレンジするとき

兵庫県は広大です。高速道路も東西南北長いです。

2017年05月29日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   ふるさと兵庫  高速を  よこたてナナメ  よく走るとき

チャレンジデー2017迫る

2017年05月26日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   町をあげての  チャレンジデー  家族全員  参加するとき



今日は「すこやか市民健診」の日でした。
日高の福祉センターで、朝一番に受診します。

「ハイ大きく息を吸って~、そこで止めて」と腹部エコーの検査です。
「息を止めて~~、ハイ終わりました」と肺がんのレントゲンです。

帰り道、日高振興局の前に「住民総参加型スポーツイベント チャレンジデー」のノボリを見かけます。
店の前の地区公民館には「チャレンジデー2017」のポスターが貼ってあります。

回覧が回ってきました。
「31日のチャレンジデーには何人参加しますか、記入して提出して下さい」と。

『今年は家族6人全部書いとくか。よっ、待てよ。ケンちゃんミオちゃんは、保育園で人数出すかな』と家内に声かけます。

5月31日は、
住民総参加型スポーツイベントとして、16年前から行われています自治体対抗チャレンジデーの開催日です。

普段なかなか体を動かすスポーツってやっていません。
健康で長生きするためにも適度のスポーツをしようと、このイベントが毎年一回全国で展開されています。

今年の対戦相手は愛知県の碧南市です。碧南市とは2回目の対戦になります。
豊岡市は、今回で8回目の参加です。

過去の成績は

初参加 2010年 豊岡市民の参加率39.3%で、岩手県奥州市に負けました。

2回目  2011年 豊岡市民の参加率55.5%で、愛知県碧南市に勝ちました。

3回目  2012年 豊岡市民の参加率53.0%で、福岡県大牟田市に負けました。

4回目  2013年 豊岡市民の参加率70.0%で、秋田県横田市に負けました。

5回目  2014年 豊岡市民の参加率71.7%で、秋田県大館市に勝ちました。

6回目  2015年 豊岡市民の参加率79.1%で、東京都昭島市に勝ちました。

7回目  2016年 豊岡市民の参加率82.6%で、秋田県由利本荘市に負けてしまいました。
           由利本荘市は82.8%、たった0.2%の差で豊岡市は負けてしまったのです。 

8回目  2017年 愛知県碧南市とは2回目なのです。
           碧南市はリベンジを懸けて頑張ってきます。 

さて結果はどうでしょうか。

最近はどの町もよく頑張って、参加率80%以上でも去年のように負けてしまうこともあります。
過去7回の成績は、3勝4敗の負け越しなのです。

今年はなんとしても85%くらいを出して、きっちりと碧南市に勝たねばなりません。
そうして、豊岡市の旗を碧南市役所に高々と掲げて、三河の空をコウノトリが舞うように泳いでもらわにゃなりません。

頑張ろう。
家族全員でスポーツを楽しんで。

「やりましたよ~、家族全員で6人参加しましたよ~」と報告いたします。

選手がいないの、今度の大会出てもらえませんか。それならまず練習しましょ。

2017年05月23日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   緑風の下  初デビュー  グランドゴルフ  皆とするとき  

平家落人伝説の里「田久日(たくひ)」は断崖絶壁の下

2017年05月18日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   チラシ届けて  帰り道  平家の里を  走りゆくとき



竹野のお客さまに寄った後に津居山に抜ける時は、いつも海岸道路を走ります。
昭和40年、坂本勝知事の時代に自衛隊の協力で完成した。10km程のすごい道路です。

海面に直接ズド~ンと落ち込む山の斜面に、物凄い難工事で取り付けた断崖絶壁の道路、
海面から垂直に100m以上の高さのところを、山肌にへばり付くように走る道路です。

道路もすごいのですが、走ってるその土地がこれまた物凄いところです。
ちょうど中間地点のあたりの、山と山に挟まれた狭い谷間が、そのまま海岸まで続く狭い土地です。竹野町田久日(たくひ)と言う集落です。

壇の浦の戦いで敗れた平家の武将が落ち延びてきた、平家落人の里と言うだけあって、
絶海の陸の孤島の土地なのです。

いつも走っていて思います。
これだけの断崖絶壁に周囲を囲まれて、海からでなければ行き来も見つかることの出来ないこんなところに、よくもまあ人が住んでしたものだなあ感心するのです。

ふるさとの偉人、勤王の志士・田中河内介の話を書く

2017年05月13日 | ふるさと




 楽(たの)しみは   エアコン工事  済んだあと  河内介(かわちのすけ)の  話書くとき



ザーザー降りの雨になるだろうと、
心配していましたエアコン工事も、午前中のうちに小雨の中で、2台無事取り付け工事を終了しました。

来週月曜日から配ることになる、
感謝祭の「直前!!、ご来店お願い挨拶封筒」も、きちんと仕分けして出来上がります。

夕刻にかけて時間が取れましたので、
6月号に入れます「ふるさとの話」を書いてみることにいたします。

6月号のふるさとの話は、調べ上げていました「勤王の志士・田中河内介」の話です。

田中河内介は、
明治天皇の5歳までの養育をした、とても偉い方と有名なのです。

また、この人物は物凄い勤王の志(こころざし)が強いお方で、
坂本龍馬と同じように、薩摩や長州の同志と一緒に尊王倒幕に奔走したお方です。

暗殺される坂本龍馬よりも5年ほど前に、
河内介も、とても残忍な方法で非業の死を遂げた、悲しすぎるお方です。

そんなふるさとの偉人、勤王の志士・田中河内介の話を、
6月号に載せるため、パソコン向かって一気に書いていきました。



ふるさとの話㉙6月号

 豊岡市香住に「勤皇の志士田中河内介公生誕之地」の標識です。
明治天皇が最も慕われた男と言われる田中河内介のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

悲しみの明治天皇
 王政復古なった明治2年のことです。
明治天皇は薩摩・長州の「維新の元勲」たちを集めて宴を開いていました。
明治天皇18歳の時、宴には三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ほか、
明治維新の立役者がずらりと並びます。控えには岡藩の小河一敏(おごうかずとし)もいました。
 明治天皇は一同に問いかけます。
「寺田屋騒動から早8年になるな。それにしても田中河内介の消息は一つも聞かぬ、
彼はどうなったか誰か知らぬか」と問われます。
その場に居並ぶ重臣たちは、誰一人として答えられず頭を下げて静まりかえります。
不機嫌になった天皇は「我を育ててくれた河内介はどこで生きているのか、元気にしているのか」と重ねて問い詰めます。
 同志として河内介の最期を知っている小河一敏が進み出て、
「ここにおられる薩摩の大久保(利通)様らが指図して、河内介親子一行を薩摩に護送しました。
親子は船中で薩摩の者に刺殺され、非業の死を遂げたと聞き存じています」と答えたのです。
座は白け、キーンと凍りついたその場で大久保利通や西郷隆盛らは、赤面して顔を上げることもできません。
天皇は悲しみをこらえながら退出したと言われています。
 明治天皇が「河内介爺(じい)」と呼んで、最も親しく慕っていた田中河内介の死を知った時の話です。

勤皇の志士・河内介誕生
 明治維新まで53年の頃です。文化12年(1815)出石郡香住村の医師小森家に、二男・賢二郎として生まれています。
秀才だった賢二郎は医者にはならず、出石藩で儒学、武芸に励みます。
 20歳で京に出て私塾・小森塾を開きます。25歳のとき、公家中山忠能(ただやす)に仕えることになります。
中山家の家臣・田中近江介の娘と結婚して、田中姓と河内介を名乗るようになります。
 嘉永5年(1852)に、中山忠能の娘・中山慶子が孝明天皇の子・祐宮を生みます。後の明治天皇です。
中山家に特別に作った御産殿で、祐宮を養育する大役を任されます。
 当時は天皇家と言えども、生まれてくる子供が無事に大きくなることはとても大変なことでした。
宮中にお帰りになるまでの5年間、中山邸で「河内介じい」と慕われて育てます。祐宮(明治天皇)にとって河内介は心にしっかり刻んだ、育ての親だったのです。
 田中河内介はその後、尊王倒幕の実践に突き進んでいきます。バリバリの勤皇の志士となります。

播磨灘に死す
 文久2年(1862)、明治維新まであと6年の頃のことです。
田中河内介は薩摩の同志と計らい、九条尚忠と所司代酒井忠義を討つ挙に出ます。伏見寺田屋の変と言われる騒動です。
 薩摩藩の意思不統一で計画は未遂に終わり、河内介らは投降します。
薩摩藩が身柄を引き取り、大阪から鹿児島に護送するという名目で船に乗せられてしまいます。
播磨灘で同乗していた息子・田中瑳摩介(18歳)共々惨殺され海に投げ捨てられてしまいます。
二人の遺体は小豆島・福田の浜に漂着し、村民によって篤く葬られて今に至っています。
 薩摩藩と計った尊王攘夷の計画は、卑怯にも薩摩の寝返りと、その上惨殺という酷い仕打ちにあって48歳の田中河内介は葬られてしまいました。
また、三方村栗山出身の甥・千葉郁太郎も別の船で護送され、九州日向沖で斬殺、近くの金ヶ浜に漂着したと言われています。
同じく、三方村知見出身の河内介の隠れ後継者とも言われる谷垣平一郎は、難を逃れて但馬に帰り、
その後は中山忠能家との政治的つながりを持って、河内介の志をつないでいきました。
 明治の20年代になって、小豆島の河内介の所在が分かり、後に維新の烈士として親子は正四位、正五位と最高の贈位を受けて、靖国神社に合祀されています。

ながらへて かわらぬ月を 見るよりも
死してはらわん世々のうき雲      辞世の句

(出石明治館その他資料を参考に)

田植えが始まった宮島地区の田んぼ

2017年05月12日 | ふるさと

豊岡市宮島地区の田んぼ、ずっと向こうにアイティや豊岡市市街地が遠望できます。


 楽(たの)しみは   満々あたった  田んぼ見て  たどり着き水  愛(いと)おしきとき



農家にとって田んぼを潤す水は命です。
ふるさと但馬も、田植えの時期になりました。

円山川から取水した命の水は、蓼川(たでがわ)用水路をどうどうと流れ下って行きます。
蓼川用水路は、明治の初めに先人が苦労の末作り上げた大切な水路です。

日高町土居の取水樋門からスタートして流れる水は、
国府の平野を潤し、八条の田んぼを潤し、走り続けて豊岡の中心市街地を突っ切って、豊岡市北端の宮島地区の田んぼに至ります。

その総延長距離は10kmを優に超す、ふるさと但馬の中でも有数の水路なのです。

毎日365日、
早朝6時に水路スタート地点で水量の測定をいたします。

田植時(どき)です。
所定の水量を確実に下流に流すため、樋門のハンドルを調整するのです。

3日ほど前の朝です。立ち話でこんなことを聞きました。

「うちらの田んぼの水は、蓼川用水からじゃあないの。
稲葉川の道場用水なんだけれど、上(かみ:上流)の方で田んぼにあててしまって、ここら辺には田植え出来るほどの水が来(こ)んの。水の取り合いで困っちゃうわいや」、

「蓼川さんの水の管理はちゃんとしていて、
下流の豊岡の方にもきちんと水を送って、旨いことしとんさるなあ」と話です。

蓼川用水の管理組合では、4月末より田植えの時期が始まりますと、きちんと日にちも時間も割り振りを決めて水路途中の門扉を開け閉めして、
国府の田んぼ、八条の田んぼ、宮島の田んぼに水が当たるように厳しく管理しています。

農家にとっては水は命です。
水の取り合いの醜い争いは絶対に許されません。

命の次に大事な貴重な水は、10km先の宮島地区まで届かなければいけません。

今日です。
豊岡の車屋さんに用事を済ませ途中立ち寄りました。宮島地区の田んぼです。

田植をもう済ませた田んぼもあります。これからの田んぼもあります。
土居から延々とたどり着いた命の水は、宮島の田んぼに満々とあたっています。

朝早く送り出した水が、遠き宮島の田んぼを潤しているのを見ますと、
『ご苦労さん、ご苦労さん。ガンバってここまで来たね、ご苦労さん』と声をかけてやりたいような、何やら愛(いと)しさあふれます。