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ありがとう

2019年12月31日 | 日記



ありがとう

令和になって早八ヵ月が経ちました。令和元年は今宵が最後です。

「ふるさとの話」なんてブログに訪問していただき、ありがとうございました。
今日でこのシリーズは終わります。

令和二年の明日からは、また別のシリーズのブログを書いてみます。ぜひ訪問してやっ
て下さい。よろしくお願いします。

本当にありがとうございました。ありがとうございました。

「ふるさとの話」 令和元年12月号

2019年12月31日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 十二月・61号


日高町竹貫を訪ねます。神社は鷹貫神社と言います。
「竹貫」って難読地名ですね。
今月は、神社や地名の由来、それに神社の神さまの話を書いてみます。 
クイズのヒントも隠れています。

竹貫集落
国府地区には、南の上郷から北の竹貫まで十三集落あります。
竹貫は、JR国府駅裏を西に進んだ山沿いにある、40戸ほどの集落です。
 
国府地区の難読地名は上石(あげし)かな、それとも竹貫かなというところです。
竹貫を知らない人だと「たけかん」と読むでしょう。
そうは読みません。正しくは「たかぬき」と読むのです。
少し難しい地名の由来を調べます。
 
社殿への石段に立派な石碑が立っています。「式内・鷹貫神社」と書いてあります。
鷹貫(たかぬき)神社なのです。
集落の背後「天王山」に、午頭天王を祭る午頭城があったそうです。

「午頭」って「うまかしら」って読むのかな、「ごとう」って読むのかな。
午頭城にこんな伝説があります。

午頭城(鷹が城)
城主・真保(さねやす)公が空を舞う鷹を見ます。
家来の早太に「あの鷹を召し捕れ」と命じ、早太一矢を放ち鷹の羽根を貫(ぬ)いて落
とします。

「見事じゃ。不過両羽(あやまたずはね)を縫て落とすとは見事じゃ。
これよりわが城を鷹貫と号し鷹が城としよう」と叫びます。
 
この伝説、鷹の羽根を貫いたことから社(やしろ)を鷹貫神社とし、集落を竹貫という
地名にした由来ではないかと言われています。
 
鷹貫神社には御神体の他に七社の神が鎮座しています。
それらは中世末期になって菅原道真公を菅原大明神とし、その他稲荷大明神、午頭天王
等々の神々を勧請・併祀(へいし)して祭られています。
元々、天王山の鷹が城にあった午頭天王も祀られているのです。

御神体
鷹貫神社の御神体の話です。

国府村誌には、神社の祭神は「鷹貫姫命(たかぬきひめのみこと)」と載っています。
日高町史には「鷹野姫命(たかのひめのみこと)」と出ています。
一体このお姫様のような人物は誰でしょうか。
 
調べてみますと、この姫君は但馬開拓の祖として有名な新羅の国の王子・アメノヒボコ
の子孫なのです。
天日槍(あめのひぼこ)の五代目・葛城之高額比売命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)
という人物なのです。

神功皇后の母
話は大阪に飛びます。

アトム電器の本部がある大阪・羽曳野市に応神(おうじん)天皇陵古墳があります。
日本最大体積の古墳です。隣の堺・仁徳天皇陵古墳の仁徳天皇は、応神天皇の息子です。

応神天皇の父が仲哀(ちゅうあい)天皇で、お母さんが神功(じんぐう)皇后なのです。
神功皇后は、日本初の紙幣一円券に肖像とされるほどの人物です。 
 
その神功皇后のお母さんが、葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)です。
そう、鷹貫神社の祭神として祀られている人物・葛城之高額比売命なのです。
 
比多訶の娘、次は出石のアメノヒボコから見た子孫の流れです。
日本書紀には、天日槍は多遅麻(但馬)の麻多鳥(またお)と結ばれ、二代多遅摩諸助
(たじまもろすく)を生みます。
諸助の子が三代日楢杵(ひならぎ)、日楢杵の子が四代多遅摩比多訶(たじまひたか)
です。中嶋神社のお菓子の神様・多遅摩毛理(たじまもり)は比多訶の兄です。
 
比多訶の娘・高額媛が、奈良葛城の豪族・息長宿禰王に嫁ぎ、葛城之高額比売命と名乗
ります。そして生まれたのが息長帯比売命(神功皇后)なのです。
 
但馬には十四の神社に、天日槍や子孫が祭られています。
鷹貫神社の高額比売命は、いつどうして祭られたか定かでありませんが、地名の「竹貫」
は祭神の高額比売命の「高額(たかぬか)」からきた当て字ではないかという説もありま
す。

(国府村誌や渡邉政義著・鷹貫竹貫の郷を参考に書きました) 
 

「ふるさとの話」 令和元年11月号

2019年12月30日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 十一月・60号

なまけ者の男がいます。そこに貧乏神があらわれると言う民話がありました。
今月は、兵庫県の民話集から、日高町の民話「なまけ者と貧乏神」の話を書いてみます。
クイズのヒントも隠れています。

貧乏神
むかしむかしの話です。
日高のどことは分かりませんが、ひどくなまけ者で貧乏な男がいました。

年の暮のこと、男は空腹をがまんしながらいろりの横で寝ていると、天井裏から「ズド~ン」
と何かが落ちてきました。「なな、何だ?」と男がビックリして飛び起きます。

落ちてきたのは、つぎはぎだらけの汚い服を着た貧相なおじいさんです。
頭をポリポリかきながら「わしはな、天井裏でやっかいになっとる貧乏神だ」と言うのです。

「貧乏神?、まあ、この家なら貧乏神の一人や二人いても不思議でないが、それが何しに降り
て来た?」。

宝を積んだ馬
「うむ、実はな、お前があまりにも貧乏なので、この家にはわしの食い物が一つもない。さす
がのわしも、このままでは命が持たん」、「そこで逃げ出そうとしたのじゃが、あまりの空腹
で力が入らず、うっかり落ちたんじゃ」と言います。

貧乏神はこの家から逃げたかったのです。
「そうか、おれは貧乏神も逃げ出すほど貧乏だったのか」、「逃げ出す前にお前に一つ良い事
を教えてやろう」と言って話しかけます。

「明日の朝の日の出とともに、家の前を宝物を積んだ馬が通るんじゃ。一番目は金を積んどる。
二番目は銀を積んどる。三番目は銅じゃ。そのどれでもええから馬を棒で殴ってみろ。宝は全
部お前のもんじゃ」と言います。

長者になれるぞ

三頭とも殴ってもいいかと男が聞くと「なんじゃ欲が出てきおって、三頭全部でもいいよ。三番
目の馬だけなら普通の暮らし、二番目の馬も加われば裕福な暮らし、三頭ともならお前は長者に
なれるぞ」と言います。

「だがな、最後に通る四番目の馬だけは殴るなよ、わしが出ていくための馬だからな」と男に伝
えます。

日の出を過ぎて男は目を覚まします。いつものなまけぐせで朝寝坊してしまいます。
しまった~と言いながら、家の前を見ると宝物を積んだ馬です。

一頭目はとっくに通り過ぎたことも知らず、「金の馬だ~」と言って、そこにあった物干し竿で
叩こうとします。
竿が長すぎて木の枝に引っかかってしまいます。その間に銀の宝物を乗せた馬は、ゆうゆうと通
り過ぎていきます。

失敗ばかり
「しまった。まあいい、残りの銀と銅の馬を殴って、おれは大金持ちになれるぞ」と叫びます。
「次は短い棒だ」と言って台所から『すりこぎ棒』を持って待ちかまえます。

間もなく、家の前を通り過ぎようした銅の宝物を積んだ馬を殴ります。いくらなんでも、すりこぎ
棒では馬の頭に届きませ。
「しまった、またしくじったか。今度はもう少し長い棒でと、次の馬にはてんびん棒で殴ります。

やっぱり貧乏に
次にやってきた馬です。
「おかしいな、何も荷物を積んでいないぞ。まあいいや。銅のはずだからこれで普通の暮らしだ」
と、てんびん棒を馬の頭めがけて「ゴチーン」と振り下ろします。
「やった~、銅の馬をしとめたぞ」と男が大喜びしていると、それは荷物を積んでいない、四番目
の馬だったのです。

天井裏から貧乏神が降りて来てがっかりします。
「ああ、なんて事を。わしが乗るはずの馬を殺しおって、せっかくこの家から出られると思ったの
に、わしの乗る馬を殴るなんて」、「仕方がない、これからもお前の所でやっかいになるぞ」。

こうして男は、天井裏の貧乏神と一緒に、それからも貧乏な暮らしを続けたということです。

(兵庫県の民話集を参考に書きました)

「ふるさとの話」 令和元年10月号

2019年12月29日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 十月・59号

先月29日にあった但馬検定試験に出ました。大屋の藤無(ふじなし)山伝説や、養父の
お走り祭りの問題です。
今月は、これらに関係の深い、アメノヒボコや但馬開拓のことを、但馬の昔話から書いて
みます。
クイズのヒントも隠れています。

粟鹿山
大山(おおやま)の頂上は湖に浮かぶ島でした。
天から降りて来たアマツヒダカヒコホホデミノミコトという神さまが、山をけり崩して山東
あたりの土地を開きました。

やたら長い名前の神さまですが、天照大神のひ孫で神武天皇の祖父にあたる人物です。
そんな古い昔のこと、大山から美しい牝鹿が三本の粟の穂を角にのせて神さまにさしだしま
す。
粟鹿山の名の始まりです。

粟鹿神社は但馬一宮でありました。そして、古来より朝廷とのつながりが強く勅使門もある
のです。

大屋の藤無山
大屋町若杉(わかす)の山奥に藤無山があります。
その昔、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)とアメノヒボコが、頂上から石を投げて
治める地を決めた伝説です。

ヒボコのシラクチカズラに付けた石が飛んで行ったところが、但馬の出石であったと言う話
です。
探した藤カズラが見当たらなかったことから、この山を藤無山にしようと言って出雲と但馬
に分かれたと言います。アメノヒボコが出石に住みつく最初の話です。

山東の地がため地蔵
昔、但馬は一面泥海でした。粟鹿(あわが)明神ら但馬五社の神々が力を合わせ、瀬戸の津
居山を切り開き泥水を日本海に流し但馬を開拓しました。

見国岳とも呼ばれる粟鹿山の頂上から、但馬にぼん字で66ヶ所のお地蔵さんを祀ります。
地面が乾くようにと願った地がため地蔵さまの起源です。

養父のお走り祭り
養父神社から斎(いつき)神社まで、20kmも神輿が練り歩くお走り祭りがあります。

その昔、泥海だった但馬を、土木の神さまヒコサシリ命が瀬戸を切り開いて大地を創造した話
です。
養父大明神が但馬五社を代表して、斎神社のヒコサシリ命にお礼参りに行ったのが、お走り祭
りの起源と言われます。

アメノヒボコ
アメノヒボコは、新羅の国から出石の地にやってきます。土地の娘マタオと結ばれその後子孫
も栄えます。

豊岡や出石盆地は一面泥の海でした。
アメノヒボコは、五社大明神の神々と力を合わせてこの地を開拓しようとします。水をせき止
めていた瀬戸の大岩を取り除くと、泥水は音をたてて日本海に流れ出ました。

神様たちはたいそう喜んだのですが、泥海から突然おそろしい大蛇が表われ、来日(くるひ)
口に横たわって水の流れをせき止めます。(写真は雪の来日岳)

「この大蛇は泥海の主にちがいない。追い払わねばいつまでも水はなくならない」と、アメノ
ヒボコや神様たちは、大蛇の頭と尻尾に飛びかかり引き上げて真っ二つにします。
大きな岩が来日口にもあったことでしょう。

その後、村人は大蛇の姿をした太い綱を引っ張りちぎるというお祭りをするようになったと伝
わります。
アメノヒボコと、泥海だった但馬の開拓の話でした。
            
アメノヒボコの子孫によって、出石神社に祀られることとなります。
アメノヒボコは但馬開発の神さまとして、土木の神さまとして現在も崇められています。

(但馬検定テキストや、但馬の伝説を参考に書きました)

「ふるさとの話」 令和元年9月号

2019年12月28日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 9月・58号

昔々、西芝から納屋に通じる桑畑でキツネにだまされて、「い~湯だね」と湯船につか
っているおじいさんがいたという話を聞いたことありませんか。
湯船といってもだまされて肥溜(こえだめ)だったという話です。
今月は、但東町の民話から、「南明峠の古キツネ」の話を書いてみます。 
クイズのヒントも隠れています。

一匹のキツネ
但東町中山の南明(なんめい)峠頂上近くに、人を化かすことを何よりも楽しみにしてい
る古キツネがおりました。
村の男がこの噂を聞き、「ようし、キツネの仕業(しわざ)を確かめてやろう」と頂上近
くの草むらで待ちました。

熊笹がカサカサと動いて、ポンと峠道に一匹のキツネが飛び下りました。
「来た来た。あれが噂のキツネだな」と木の陰から見つめていると、キツネは、木の葉を
頭から手足までベタベタと貼り付け始めました。
さらに、山から芋づるを引き出し、胸のあたりに巻きつけます。

娘に化ける
「おかしなことやるなあ」と男は心を奪われていると、コンと一鳴きして宙返りします。
するとどうでしょう。頭は桃割れ、胸にはピカピカ帯の美しい着物姿の娘に早変わりです。

「ははん、あんなことをして人を化かすのだな。それにしても毛むくじゃらの顔や、着物
から出ている手足はどうするのかな」と、男はキツネの動きに夢中になって見つめます。

キツネは素知らぬふりをして、近くの赤土を口のあたりに塗りつけたり、草を丸く輪にし
て耳に付けてお化粧です。
そして、コンと一鳴きして空中で一回転したかと思うと、そこには、やわらかい肌にきれ
いに化粧した、かわいい娘の姿です。頭にはピラピラのかんざし、耳には耳かざり、朱色
のコッポリまで履いています。

葉っぱが日傘に
男は「ウウン」と言って、その化けっぷりの見事さにもう声も出ないほどであります。
やがて、キツネの娘はどんどん里の方に歩きます。

男は、草むらから見え隠れしながらついて行きます。
キツネは、村の入口にあるずいき芋畑で茎のついた葉っぱをちぎり、コンと一回転すると、
それを美しい日傘に変えて、もう全くの人間の娘です。

穴からのぞく
ずんずん村の中に入っていきます。
「一体、誰が化かされるのだろう」、男はどんどんついて行きます。やがて、娘は村一番
のお屋敷に行き、土塀のくぐり戸を開けて入ってしまいます。

「どこか中をのぞく穴はないか」、男は土塀の外をぐるぐる回り、見つけた穴から壁に顔
を付けて中をのぞきました。
するとその時、どんと背中を強くたたく者がおります。
「誰だい」、後ろを振り向くと、この男の女房が怖い顔をして立っています。

化かされた男
「あんた、なんで牛の尻なんかに顔をくっつけてのぞいているの」。
「まあまあ、顔に牛糞(うしぐそ)までいっぱいつけて、よっぽどいいものをのぞいて見て
いたの。いやらしい」と言いました。

キツネの仕業を確かめるつもりの男が、誰が化かされるかウキウキしていた男が、いつの間
にかキツネにまんまと騙されてしまったというお話です。

但東町のキツネ
もう一つ。村一番の力持ちで力士のような若者がいました。
「美しい女に化けて、人をたぶらかすキツネが峠にいるよ」、「ようし、俺がその雌キツネ
を生け捕りにしてやる」と言って、油揚げを持って峠に向かいました。

捕まえた女の白い手をしっかり掴むと、女は「わたし、小便がしたいの」、「手は放さんけ
ど、後ろを向いとったる早ようせえ」とせかします。
チョロチョロと、いつまでも終わりません。そのうち、東の空が明るくなり、通りすがりの
村人が、「おいおい何やっとるの。チョロチョロ水の出てる竹樋(トユ)を握って」と笑い
ます。

油揚げはなくなり、力士は騙されました。但東町のキツネの民話です。

(但東の民話の本を参考に書きました)

「ふるさとの話」 令和元年8月号

2019年12月27日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 8月・57号 

7月号のパズルの正解は「イッケンヤ(一軒家)」でした。
5文字のヒントに「但馬にもこんなのあるかな」と書いていましたが、皆さん見事に正
解でした。
今月は但馬にある「ポツンと一軒家」の話を書いてみます。 
クイズのヒントも隠れています。

但馬の1世帯の地区
テレビ番組では、衛星写真で見つけた「ポツンと一軒家」が出てまいります。
但馬にもこんな一軒家はないかと探しますが、本当の「ポツンと一軒家」はなかなか見
つかりません。

市や町の広報で調べてみました。

世帯と人口の統計資料が出ていました。その中に、豊岡市竹野町段は1世帯1人、日高町
大岡も1世帯1人、香美町香住区木見塚が1世帯1人、新温泉町岸田霧滝が1世帯1人と
出ていました。

ありましたよ、但馬にも「ポツンと一軒家」がありました。
その他世帯が少ない地区は竹野町銅山が4世帯、川南谷が2世帯、金原が4世帯、日高町
河江が2世帯と出ています。竹野や日高に集中しています。

今回は、竹野町段の「ポツンと一軒家」を訪ねてみます。

ポツンと一軒家を訪ねて
竹野町森本から、床瀬ソバで有名な床瀬の方向に走ります。3kmほど行くと二連原です。
ここも8世帯と少ない地区です。二連原の次が4世帯の銅山地区です。

銅山と書いて「あかがねやま」と読みます。
銅山から県道を左折して山道(舗装道路)を車で走ります。この先が段(だん)という地区
です。

途中「名勝・白滝」の看板を見てどんどん進みます。
両側の山の斜面は倒木が多く、もちろん人家は全くありません。さびしい山道を2kmほ
ど走って最後の坂道のカーブを上がったところで行き止まりです。

小さな駐車スペースがあります。そこには参院選のポスター掲示板が1世帯のためだけに
立っています。
車を降りて見上げると、木立ちの中に「ポツンと一軒家」が建っています。

駐車した所からは歩くだけの細い坂道、一段高くなった敷地に別の廃屋と並んで、人の気
配が感じられる「ポツンと一軒家」です。
本当に奥まった山の中に住宅がありました。但馬の「ポツンと一軒家」を確かに目にいた
します。

昔、鉱山で栄えて
県道まで降りてきた所で、近所の古老に聞きました。
ここ銅山も4世帯しかない小さな集落です。

「ああ、段の一番奥の一軒家ね、一人で住んでらっしゃいますよ」、「確かにポツンと一軒
家なんです。昔は段も銅山も13軒くらいあったの、だんだん少なくなってしまったんよ」
と説明です。 

古老の話では、昔、段も銅山も金銀銅の鉱山があったそうです。
「川の泥を透かして見ると、金でも銀でも鉱脈を発見できたそうよ」、「山師が何人も住ん
でいた時代もあったが鉱脈が枯れてとっくに廃坑になったのよ」、「子供の頃、山に入ると
絶対草むらに近づくなと教えられたね。廃坑の深い立穴に落ちたら、生きて帰れんかったの」
と、そんなお話伺ってきました。

過疎化の歴史
調べてみますと、慶長19年に金山が発見され、それから十数年掘り続けたそうです。
その後も細々と採鉱していたそうです。
段は鉱石を運ぶ石段が多かったから付いた名前、銅山はそのまんまの名前、二連原は鉱石の
選別・精錬をする広い所から付いた名前だったそうです。

昔は、但馬有数の鉱山として栄えていましたが、阿瀬の金山と同じで鉱脈が尽きたら廃鉱に
なって、今ではとうとう「ポツンと一軒家」になってしまいます。

但馬には他にも5世帯とか8世帯しかない集落がありますが、30年前、50年前にはもっ
と多くのお家がありました。
いろいろな事情があっての過疎化でしょうが、とても寂しいお話ですね。

(市町のホームページや、銅山に住む古老の話を聞いて書きました)

「ふるさとの話」 令和元年7月号

2019年12月26日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 7月・56号             

「ポツンと一軒家」というテレビ番組があります。
「金山千軒、阿瀬千軒」と栄えた金山(きんざん)も昭和37年にはポツンと一軒家
になってしまいます。
今月は、日高町三方地区にあった阿瀬金銀山のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

阿瀬渓谷の集落
阿瀬渓谷の紅葉がきれいな羽尻地区を訪ねます。
集落には、天まで伸びるような階段の神社があります。金谷(かなや)の若宮神社です。
河畑(かばた)にも萬場(まんば)神社があります。

「立派な神社ですね」と古老に問います。
古老は「羽尻はとても広い区有林があるのです。なので、昔から元気があったのでしょう」
と、その昔は羽尻、河畑、金谷の奥には若林、金山、分尾(わけお)の集落があったと話し
ます。

「いやいや、もっと昔、この奥には阿瀬の金山があってね、とても栄えていたんですよ」と
お話です。

阿瀬金銀山の発見
調べてみますと、繁栄を極めていた金山がありました。し
かし、そのうちにポツンと一軒家になり、そして無人になったという話です。

「金山千軒」のにぎわいから一軒家に、そして廃村へと、まるでウソのようでホントの話が
ありました。

室町時代の最後のころ、永禄5年(1562)に阿瀬谷河畑のクワサゴで銀が発見されます。
河畑銀山と言いました。

それから約30年後の文禄4年(1595)、関白秀次が秀吉から切腹を命じられ、その家
臣堀久太郎と家来200人が、人も入ったこともない阿瀬の奥山に忍んで逃げたそうです。

その時に谷川で光る砂金を見つけたのが阿瀬之奥金山といわれます。
その両方を阿瀬金銀山と称してとても栄えることになるのです。

金山千軒のにぎわい
阿瀬川の広い範囲に良質の鉱物資源が広がり、人一人が入る穴を手掘り作業した鉱坑(横穴)
が無数に開いていました。
鉱夫、堀った金銀鉱石を金谷に運ぶ者、その家族は多数にのぼり、村には市が立つほどのに
ぎわいがあったといわれます。

「金山千軒、阿瀬千軒」と呼ばれた阿瀬金銀山は幕末まで続き、その繁栄は生野銀山と並び称
されたといわれます。

ポツンと一軒家に
幕末に阿瀬金山は廃鉱となり、村に残った者は山仕事や炭焼きで生計をたてます。
若林、金山、分尾と集落は分かれていましたが、金山には十軒が生計を立てて暮らしてい
ました。

それが終戦直後には七軒に減り、時代の流れに逆らうことはできません。一軒減り一軒減り、
とうとう昭和37年には、富山さん宅の一軒6人家族だけポツンと一軒家になってしまいます。

すでに、若林は昭和23年に無人となり、分尾も昭和24年に無人となっていました。
最後の一軒家・富山さんも、昭和38年に山を去ることとなり、完全に阿瀬の山の地は無人とな
ってしまいます。

楽しかった思い出
金山をあとにする時、昔を想った富山さんの手記が、看板として現地に掲げられています。

その中には「七軒みんなが家族のようなもので、助け合って暮らしていました。どの家にも若者
がいました。
遊ぶのも村ぐるみでした」と、七軒が仲良く過ごした楽しい思い出を記し、昭和30年に関電の
発電所を造り電気が点いたこと、昭和32年に出来た三方小学校金山分校で子供らが学んだこと
が書いてあります。

村をあとにする日
最後に「何百年という歴史がある金山から人が一人もいなくなること、これで金山の歴史が終わ
るかと思うと、土橋にペタンとすわり込み、泣くまいと思っても涙が止まりませんでした。

小高いところに金山の墓地が見えます。
もう亡くなった父親や母親の顔、世話になった村の人、葬式を出してあげた人たちの顔が浮かん
できました」と書いてあります。

日高町羽尻地区の奥の山の中、阿瀬の地にはすごい歴史が残っていました。

(ひだか事典や羽尻の人の話、富山さんの看板を参考に書きました)
 

「ふるさとの話」 令和元年6月号

2019年12月25日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 6月・55号                                    
               
出石川の五条大橋を中筋方面より渡ると、六方平野の南端です。国道のすぐ下にお宮の杜
が見えます。清冷寺の氏神さま「三木嶋(みきしま)神社」です。
今月は、この森が「朝寝が森」と呼ばれていた三木嶋神社の話です。
クイズのヒントも隠れています。

干支とネコ
干支にネコが入ってない話を知ってますね。
1月1日午前0時に神さまに集まるように言われていたのに、2日の0時だとネズミにだ
まされたネコは、十二の干支に選ばれなかった話です。

それ以来、大敵のネズミをネコは追いかけるようになったという話です。

三木嶋神社には、「朝寝坊の神さま」という昔話があります。
ネコの話にちょっと似ていて、クスっと笑みが浮かびます。

天の神さま
但馬の民話の本にのっていた話を紹介します。

昔、日本にはたくさんの神さまが住んでおられました。そのころ、みんな狭い境内(やしき)
で辛抱しておられました。
天の神さまは、これは気の毒だ、神さまの境内をもっと広くしてあげようと考え「それぞれ、
自分のほしい広さを申し出るように」と、寄り合いの日を定めておふれを出しました。

三木嶋の神さま
豊岡の三木嶋さまは境内がせまく何かと不自由しておられ、せめて一町一反ぐらいは欲しいと
思っておられたのです。
このおふれをお聞きになって大変お喜びになりました。

「何としも一町一反頂こう。これくらいの広さなら村人が大ぜい集まっても大丈夫。そして池
を作り鯉を放し、村の子供が相撲をとって遊ぶ土俵を」といろいろ考えました。

ところが、三木嶋の神さまには心配事がありました。実は朝寝坊をよくしたのです。
いよいよ明日が寄合という晩、三木嶋さまは、朝寝坊しないようにと前日の夜は早く眠りにつ
きましたが、願いが叶うと思うと嬉しくてなかなか寝つけませんでした。

そしてふと目を覚ますとさあ大変、もうお日さまは頭の上を過ぎています。急いで寄合の場に
かけつけると、天の神さまの境内を定める仕事は全部終わって、片づけをしているではありま
せんか。

一反、一反
すると、遠くからかけ寄って来る三木嶋さまを、天の神さまがお気づきになり、大きな声で
「三木嶋さま、いくら広さがいりますか~。いくら境内がいりますか」とお尋ねになりました。

三木嶋さまは慌てていたので、人差し指を一本立てて走りながら、「一反、一反」と言ってし
まわれました。
 
天の神さまは「よろしいそれだけあげましょう」と定めておしまいになりました。三木嶋さま
の境内は一反になってしまいました。
「間違いだ」と気づきましたが、自分で言ったことなのでどうすることも出来ません。
     
境内は一反の広さになりましたが、「朝寝坊した罰だ。これ からは村の子供たちが朝寝坊しな
いように、守ってやろう」とおっしゃったそうです。
    
それから朝寝坊する人がいなくなり、働き者の村は栄えました。
境内はやがて小さな森になり、村人は「朝寝が森」と呼んであがめるようになりました。

天照御魂神
おもしろい話だね。地元の古老に聞きました。
「知らんな、朝寝坊の話、大昔から住んでいるけどわしゃ知らんな」の返事です。

公民館で調べました。
「ここの広報に書いてある事しか分からないわ」と返事です。どうもこの話し、あまり伝わって
ませんね。

公民館の広報には「大化のころ、出石川は上鉢山の方を蛇行していた。下加陽の出村として農家
が開田して住みつき清冷寺となった。
そして、村の厄除神として三木嶋神社を祭ったと考えられます。

三木嶋神社の祭神は、豊岡市史によると『天照御魂神』で、天気をつかさどる神と思われる。
農民たちは、空を照らす神の気まぐれで、大雨が降らないようにと祭ったものではないかと考えら
れる」とまじめな記録でした。

(中筋公民館の広報や、加芝輝子著・但馬の民話を参考に書きました)

「ふるさとの話」 令和元年5月売り出し号

2019年12月24日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 5月売り出し 54号

三十三年ごとに御開帳される秘仏を拝観するため、城崎の温泉寺を訪ねます。
若き副住職の奥さんが説明する秘仏と城崎の話を聞きました。
今月は、本尊の十一面観音像の由来と、城崎の地名の謂(い)われのお話です。
クイズのヒントも隠れています。

33年ぶりのご開帳
温泉寺の本尊様は十一面観音立像です。身長2m超もある桧(ひのき)の一本彫で、鉈(なた)
彫り作りのとても立派な仏像です。(国指定重要文化財)

千三百年の歴史を持つこの仏様は、毎年4月23日、24日の開山忌(温泉まつり)には御開
扉があり、ご拝顔することが出来ます。しかし、全身を見ることはかないません。
三十三年ごとに、厨子よりお出ましになって拝観することが出来る秘仏なのです。

平成30年4月23日から3年間ご開帳になり、現在は全身のお姿を見ることが出来ます。
本尊の左腕に巻かれた五色の「御手の糸」は、白布「善の綱」に結ばれ麓の山門に伸びています。

作りかけの観音像
「どうぞどうぞ、ご案内します」と、若奥さんに観音様の説明をしていただきました。
「奈良時代のことです。大和の国の稽文(けいぶん)と言う仏師が、大和長谷寺の十一面観音像
を作りました」、
「同木でもう一体観音様を刻んでいる時、未完のうちに中風の病にかかりました。そのため、作
りかけの像を大和の長楽寺に預けることになります」。

「すると、流行(はやり)病が村を襲い、村人は観音様の祟りに違いないと恐れます」、「村人は、
その像を難波浦まで運んで海中に投じ、それが流れ流れて城崎の観音浦に漂着したのです」。

大師山に安置
「ちょうど城崎温泉に湯治で来ていた稽文仏師が、引き上げられた観音様を見て、自分が未完のま
まで残してきたものと分かり、さらに仕上げて現在の弁天山に草堂を営み祀りました。
そして、温泉を開いた道智上人に任せて大和に帰りました」、

「道智上人は伽藍建立の大願を発し、その地を求めて祈願したところ、観音様の眉間から光が出て
西方の大師山を照らしたので、ここに伽藍を建て観音様を安置しました」。
 
「天平十年戌寅(738)に、聖武天皇から末代山温泉寺の勅号を賜り温泉寺が開創されたのです」
と説明です。
ここまで「そうですか。そうですね」と真面目に聞いていました。

木の先の観音様
続けてこんなお話をされます。
「この観音様には秘密があります」、「巨大な一本の木から、大和の長谷寺と鎌倉の長谷寺の観音様
が作られたの。8mもある大きな観音像作られたのです」、「二体の大きな観音様を作った後、温泉
寺の2mの十一面観音像は木の一番先の部分で造られたのです」。

「そう、木の先で造られたものなので、木の先→木の崎→城崎となったのです」。
   
「城崎は木の先で観音様が作られたことから名付けられました。城崎温泉の地名の謂(い)われは、
桧(ひのき)の木の先からなのです」と、聞く者興味を引くように、上手に真面目に説明されまし
た。とても面白いお話に、ただ、うっとりと納得します。

湯島村が城崎町へ
本当のことを調べました。
城崎の昔の名は城崎郡田結郷湯島です。あるいは気比庄湯嶋です。明治初期は湯島村でした。
 
城崎郡の城崎は、豊岡盆地が沼地だった「黄沼前の湖(きぬさきのうみ)」から名付けられたもの
で、主に豊岡市中心部の地名だったのです。
室町時代には、神武山に木崎城(城崎城)がありました。
 
その後、天正時代に城主・宮部継潤によって「城崎」から「豊岡」に改名、明治22年に城崎郡豊岡
町になります。
湯島村は、明治28年町制施行で城崎町となったのです。決して「木の先」から「城崎」になったわ
けではありませんが、城崎・温泉寺の楽しいお話でした。

(温泉寺の若奥さんの説明や、但馬の地名資料を参考に書きました)

「ふるさとの話」 令和元年5月号

2019年12月23日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 5月・53号                                   

「令和」が発表された日のテレビで、「107歳のばあちゃんは明治、大正、昭和、平成、
令和と生きて、なにがなにやら分からんわ」と放送でした。
今月は、この5つの改元のことを、ふるさとの出来事と一緒に書いてみます。
クイズのヒントも隠れています。

明治の改元
ばあちゃんが生まれたのは明治45年ですが、話はそこより45年前の明治元年から始め
てみましょう。

慶応4年9月8日のことです。
「慶応」から「明治」に改元されたのです。9ヶ月もさかのぼって慶応4年1月1日を明治
元年1月1日としたのです。新暦で明治元年1月25日(1868)となります。

新元号「明治」は、すでに即位していた天皇が決めたといわれます。
慶応2年12月25日に14歳で即位していた睦仁親王(明治天皇)は、松平春嶽に委ねて
いたいくつかの元号案から、天皇自らクジ引きをして「明治」に決めました。今とえらい違
いです。

出典は中国の古典・易経から「・・・明に嚮(むか)ひて治む」を準拠しています。
その年のふるさとでは「御札降り、ええじゃないか踊りがはやる(清滝村誌)」の世情だった
ようです。

大正の改元
「大正」の改元は、明治45年7月30日・明治天皇崩御で即日に行われ、大正元年7月30日
(1912)となりました。
その日のうちに枢密院顧問が審議して決めたのですが、大阪朝日新聞がスクープして、改元発
表より先に元号「大正」を号外にして出してしまいました。これも今とえらい違いで、情報管理
がゆるいです。
 
出典は同じく易経の「大いに亨(とほ)りて、以て正しきは・・・」からです。
この年は台風襲来が続き、上郷の渡し船が沈没して府中小通学児童18名が溺れる事故がありま
した。

昭和の改元
「昭和」の改元も大正天皇崩御の即日にありました。大正15年12月25日が昭和元年12月
25日となりました。
正式な元号発表前に東京日日新聞(現在の毎日新聞)が「光文と決定」の号外を出します。その
ためかどうか分かりませんが、その数時間後の午前十一時に「昭和」と元号が発表です。
世に言う歴史的誤報の「光文事件」です。
 
出典は中国の古典・書経の「・・・昭明にして萬邦を協和する」からです。
この年には、豊岡病院日高分院の前身が現在地に出来ました。また冬に神鍋スキー場が開設されま
した。

平成の改元
「平成」の改元は昭和天皇崩御の翌日となります。大正、昭和と違って即日改元ではありません。
昭和64年1月7日までが昭和、平成元年1月8日からが平成となりました。

「平成」も、発表30分前に毎日新聞がスクープしたそうですが、号外にはしませんでした。
崩御後の静かすぎる中での、小渕官房長官の「平成」の額を掲げる発表が印象に残りました。
 出典は中国の古典・史記とも書経ともいわれ、書経の「地平(たいら)かに天成る」からです。

この年には、神鍋に温泉が出た。府中小、城崎小校舎改築のニュースがありました。

令和の改元
「令和」への改元は今日5月1日からです。
平成天皇が譲位されたため、平成31年4月30日で平成は終わります。今日、令和元年5月1日か
らが徳仁親王が新天皇に即位され令和の天皇となられます。
「令和」はどこもスクープ出来ず、ブームにもなった新元号予想も全て的中しませんでした。
 
出典は万葉集からです。
大化から数えて248番目にして初めて、日本の古典(国書)から選定されました。
万葉集の中に出てまいります「時は初春の令(よ)い月であり、空気は美しく風は和
かで・・・」からです。

さて今年のふるさとは、どんな良いニュースがあるでしょうか。改元にふさわしい令(よ)
い出来事がありますように。

(元号の資料や日高町史を参考に書きました) 

「ふるさとの話」 平成31年4月号

2019年12月22日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話 4月・52号                                    

3月号では元号で年数計算するって難しいな~と書きました。
江戸時代の人は年齢どうしたのかな。古くからあるお寺は、創建何年をどう計算かな。
今月は元号しかない時代の年数の数え方について調べてみました。
クイズのヒントも隠れています。

元号に干支を
写真は、日高町の右衛門という人が、日置郷の田地三百三十歩を大岡寺に寄付した寄進状
です。(日高町史)
見えにくいですが、最後の行に「正應三年庚寅十月」と書いてあります。

正應(しょうおう)は元号、庚寅(こういん)は干支(えと)です。
正應三年は庚寅と呼ぶ年ですよ、庶民の読み方で「かのえとら」の年ですよということです。

昔の文書や墓石には、元号何年の次に干支が書いてあります。
明治になるまで西暦というものが一切ありませんから、元号何年の次には干支なのです。
 
今なら、平成三十一年(2019)と書くところを、平成三一年己亥(きがい)と書いてい
るようなものです。(2019)が己亥(つちのとい)と書いてあるのです。

ちなみに、正應三年庚寅は西暦1290年です。
今から729年前の鎌倉時代、伏見天皇即位によって弘安から正應に改元されて3年目なので
す。
日本では干支はずっと昔から使われ続け、正確に歴史に刻まれています。ただ60年で同じに
なります(還暦する)。

温泉寺は創建何年
昔の偉いお坊さんは、大化の元号から干支と一緒に一覧表をきっちり持っていたのです。
だから、城崎温泉が湧いた養老四年は庚申(かのえさる)の年、温泉寺が創建された天平十年は
戊寅(つちのえとら)の年とか、一覧表で分かっていたのです。

平成10年は天平より21回目の戊寅の年です。60年の21倍は1260年です。
平成31年の干支は己亥です。戊寅から己亥までは21年です。なので温泉寺は創建1281年
と計算するそうです。

干支で歳を数える
それでは、江戸時代の庶民は自分の年齢をどう計算していたのでしょうか。
昔の人は賢かったのです。子(ね)丑(うし)寅(とら)の生まれ年の干支が好きだったのです。

甲子(きのえね)から癸亥(みずのとい)までの60ある干支の順番と名前を丸暗記していたので
す。江戸時代だってカレンダー(暦)は出回っていて、今年が何の干支か分かっていました。
   
文政10年生まれの勘助さんは、元号よりも干支で生まれ年を覚えています。
文政10年は戊子(つちのえね)です。勘助さんは「わしは戊子生まれだ」と覚えています。
文久2年になって歳を数え戸主になります。
文久2年は壬戌(みずのえいぬ)です。

数え年
歳神様に出合って一歳、正月が来れば二歳と数える数え年が当たり前の時代です。
戊子(つちのえね)から壬戌(みずのえいぬ)まで、何回の歳神さんに出合ったかを計算します。

甲子から始まる25番目が戊子です。59番目が壬戌です。
こんな順番をへっちゃらで知っていたのです。25番から59番までは、35の干支に出合います。
なので、勘助の年齢は35歳(数え年)となるのです。

文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久と元号をまたいでも、干支はきちんと進んで行くのです。
元号で計算はしないで、干支ばかりで計算していました。
60年ひと回りの干支でも、親子三代くらいは充分こと足りたのです。

自分と人との歳の差をいう時も、お互いの干支を聞けばその差が一瞬に分かるほどに、日常から干支
に親しんでいました。干支は方位、時刻など生活の必需品だったのです。(正午は干支の午から)
今月は、干支で年数を数えた話でした。

(日高町史や元号の資料を参考に書きました)
 

「ふるさとの話」 平成31年3月号

2019年12月21日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話  3月・51号                                  
                       
いよいよ、四月一日には新元号が発表されますね。
元号でどうして歳を数えますか。元号で老舗旅館の創業何年をどう計算したのでしょうか。
今月は元号と年数についてのお話です。
クイズのヒントも隠れています。

歳の数え方
私は、歳を聞かれた時「昭和20年生まれです。
え~っと、今年は昭和で言ったら昭和94年かな。今年の誕生日で74歳になります」と
言いますね。あなたはどうでしょうか。

元号で歳を数えるってなかなか難しいのです。
生まれてから、いくつも元号が替わると難しいのです。

昭和は64年、平成は31年、そして今年は新元号の1年です。私の誕生日は7月です。もし
も、5月1日よりも向こうに誕生日がある方なら、普通はこう計算するのです。

昭和と平成と新元号の三つを足します。そして合計から2を引きます。これは元号が重なっている
数だけ引くのです。
64+31+1から2を引いて、94です。この94から昭和20年生まれは、20を引くのです。
答えは74歳となりますね。

元号なんていちいち分かりにくいと言う方は、西暦を使います。
昭和20年は、西暦1945年です。新元号元年の今年は、西暦2019年です。
何のこともありません。2019年から1945年を引けば、74歳ですね。これは簡単便利です。

創業何年ですか
但馬の創業の古い会社を調べてみます。
但馬銀行は、明治30年(1897)香住町に美含銀行の名で創業です。
明治45年+大正15年+昭和64年+平成31年+新元号1年の計は156年、そこから4を引き
ます。元号が4回重なっているのです。差し引き合計は152年です。152年引く明治30年です
から、創業122年の但馬銀行となりますね。

何のこともない、西暦の2019年から1897年を引けば122年です。

衣川産業の創業は明和4年(1767)、小間物行李の店がルーツです。
およよ、どうして計算したのかな。
明和9年、安永10年、天明9年、寛政13年、享和4年、文化15年、文政13年、天保15年、
弘化5年、嘉永7年、安政7年、万延2年、文久4年、元治2年、慶応4年、明治45年、
大正15年、昭和64年、平成31年と新元号1年と、実に20も元号が続きます。
足して275年から19年引くのです。
合計が256年となります。明和4年を引くと、創業252年となりますね。ややこしいです。

なにも西暦で2019年引く1767年をすれば、ドンぴたり252年です。

ところが、その頃日本に西暦なんてありません。(1767)の数字は現代人があとで付けました。元号
の和歴しかありません。
キリスト教伝来の頃に、西暦は入ってきましたが全く実用化されていません。明治になってからが
やっとです。

千年の湯 古まん
城崎温泉には「千年の湯古まん」という老舗旅館があります。日本で4番目に古い企業と言われています。
巻物「日生下氏家宝旧記」に「養老元年に僧侶が訪れ、三年間修業をすると温泉が湧いた」と記述されてい
ます。

まんだら湯のことです。
かって曼陀羅屋敷と呼ばれ、明治に「古曼陀羅屋」と名を変え旅館を続けます。創業は、なんと養老
元年(717)と言うから驚きですね。

日本の元号は大化から始まって、平成まで247もあります。養老は、大化から11番目の元号で
す。そんな古い時代には(717)の西暦表示なんて絶対にありません。230を越す元号を、足し
て足してそれから引いて計算したのでしょうか。

難しいですね。答えは創業1302年となります。
今月は、元号と歳の数え方の話でした。

(元号で計算するって難しいです。来月は、昔の歳の数え方を書いてみます。) 
        

「ふるさとの話」 平成31年2月号

2019年12月20日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話㊿ 2月号

日高町清滝地区に「ただのまんじゅうさん」と呼ばれる碑があります。
地元の人もあまり詳しくありません。
今月は日高町太田にあるちょっと不思議な「まんじゅうさん」の話です。
クイズのヒントも隠れています。

太田で聞く         
日高町太田(ただ)地区を訪ねます。
地元の人に「ただのまんじゅうさん」ご存知でしょうかと尋ねます。

「ええ、まんじゅうさん、まんじゅうさんですね。子供のころから聞いてましたよ、知っ
てます」、「あの村の入口のがそうでしょう」と答えてもらいます。

「まんじゅうさんは誰ですか?お祭りはあるのでしょうか?」と聞きますが、
年配のお方でも「誰のことか知らんなあ。祭りや行事なんてやってないよ」と返事です。
 
80才過ぎたご老人に聞いても、何でもよく知っていそうなリンゴ園の人に聞いても分か
りません。

「まんじゅうさん」の碑は、ブロック塀に囲われた立派なものですが、誰も詳しいことは知
りません。

出石の伊豆の甚五郎の伝説のように、小さな道端の石しか残ってないのに、しっかり万灯の
行事を続けているところもあります。なのに、「まんじゅうさん」は誰も知らない、お祭り
もないちょっと不思議に思います。

源満仲
調べてみました。
「ただのまんじゅうさん」は、「太田の満仲(まんじゅう)さん」と言って、多田満仲(ただ
まんじゅう)を祀るものだと分かりました。

多田満仲は、源満仲(みなもとのみつなか)という人物です。
源満仲は、平安時代中期のとても強い武将でした。源氏の武士団の党領として頭角を顕します。
摂津、越前・越後などの国々を受領して各地の国司を務めます。

ニ度目に務めた摂津国に土着するのです。
現在の川西市多田盆地に入部し、多田の地を所領として開拓するとともに、一族の武士団をさら
に強化します。それ以来、多田満仲と名乗り多田源氏の祖となりました。

満仲の子が源頼光(みなもとのよりみつ)です。頼光は、但馬国の国司として日高の地に来たと
いう記録はありますが、父親の多田満仲は、但馬には全く関係のない武士だったのです。

太田の満仲

なぜ日高町太田の地に、多田満仲を祀る碑があるのでしょうか。とても不思議な話です。
これも調べてみました。

ずっと後の世、太田の人たちは物凄く強かった武将多田満仲にあこがれ、多田と太田とは音が相通
ずるところから、多田満仲にあやかろうと、満仲の碑を建てて崇敬しようとしたのではないかと推
測されています。
      
尋ねて回った時に85歳のご老人に聞きました。
「戦時中、出征する者は必ずまんじゅうさにお参りしてから戦地に行ったんだよ」と言いました。
「まんじゅうさん」は村のお守り神だったのです。
 
最後に95歳の歴史研究家を名乗る古老に出合います。
「源満仲の屋敷跡が宮の森にあったんだよ?、これが正倉院クラスの貴重な緑柚土器のかけら
だ?」、と見せてくれます。

「上郷には満仲谷があるだろ(これは本当にありました)」、「戦前は彼岸の大祭をまんじゅうさん
でやったの。踊りもお菓子配りも、列をなす人出だった(これも本当のよう)」。
古老からはウソのような話を聞きました。

そんな不思議が残る「まんじゅうさん」には、今はひっそりと茶碗が一つお供えでした。

(太田の人たちに聞きました。日高町史で調べて書きました)
        

「ふるさとの話」 平成31年1月号

2019年12月19日 | ふるさとあれこれ


ふるさとの話㊾1月号                                                                                      

十二月号で、明治の改暦や改元のことを書きました。
今月は、今を生きる者が身近に親しんできた明治・大正・昭和・平成の元号にまつわるお
話を書いてみます。
クイズのヒントも隠れています。

元号を名前に
明治、大正、昭和などの元号を、企業名にしている会社ってすぐに思いつきますね。
明治製菓、大正製薬、昭和シェルというふうにとても多いのです。

ところが、平成をあたまにしている会社って案外少ないのです。
名前には付けにくい、いろいろな事情があったのでしょうか。
 
ふるさと但馬を調べてみます。
明治は、明治牛乳販売所が各地に、明治安田生命営業所が豊岡にあります。
大正は、大正軒(瀬戸)、大正冷熱サービス(中陰)とか大正丸(香住)があります。

昭和は、昭和住宅(生野)、昭和リーブス(和田山)、昭和金属工業所(久斗)、昭和リー
ス(八鹿)があります。それに、昭和四十二年発足した豊岡市昭和町の地名もありますね。

ところが、平成はとても少ないのです。事業所名にも、地名にもほとんどありません。
平成元年建築の、村岡区長板の公民館の名前が「平成会館」とあるだけなのです。

元号の由来 
5月1日からは新しい元号になります。
新しい元号が事業所や地名や、会館に付いたらいいなと思います。

ところで、明治・大正・昭和・平成の名の由来はどうでしょう。
明治の由来は「易経」が出典で【聖人南面而聴天下、嚮明而治】「聖人南面して天下を聴き、
明に嚮(むか)いて治む」の「明」と「治」から名付けられました。

「南面」とは「南に面したところ・主人(国民)のいる部屋」です。
君主は南に面して政治を聴けば、国は明るい方向に向かうという意味です。

大正は、同じく「易経」の【大享以正天之道也】「大いに享りてもって正しきは天の道なり」
の「大」と「正」からです。
天が民の言葉を嘉納し、政が正しく行われるの意味です。

昭和は、「書経」の【百姓昭明、協和萬邦】「百姓昭明にして万邦を協和す」から「昭」と
「和」をとったもので、国民(百姓)の平和と世界(万邦)の共存・繁栄を願うものとなって
います。
この三つの元号は、天下萬邦の政治と平和を願う成長志向の言葉です。 
 
ところが、平成は、「書経」の【地平天成(地平かに天成る】からで「内外、天地とも平和が
達成される」の意味です。
【地平天成】の「平」と「成」の組み合わせで、ちょっと安定志向の言葉です。
      
明治、大正、昭和は、それぞれ時代の成長を感じさせる響きがあったのですね。
平成は丸く平(たいら)に成るイメージで、成長感に乏しかったからでしょうか。

元号の期間
ところで、元号の使われた長さの話です。
明治以降こそ天皇一代で一つの元号ですが、それ以前はとても頻繁に改元されていました。
     
第35代皇極天皇(女性)の大化が始まりで、第125代平成の天皇までの91代の御代で、
247も元号が使われました。
1373年間で247は、天皇一代で平均2・7回、約5・5年なのです。

期間の長いところを調べます。
昭和は、62年と14日間でダントツ一位です。第ニ位は明治で44年と187日間、第三位は
「応永」といいます。西暦1400年代の後小松天皇の御代で34年9ヵ月、そして平成が4月
30日で、30年と113日になって第四位なのです。
(大正は14年と148日で歴代18位)

明治45年生まれは今年で107才です。
ゼロ歳から107歳の、今を生きる者は明治、大正、昭和、平成の元号に親しみました。
今月は元号についてのほんの少しのお話でした。

「ふるさとの話」 平成30年12月号

2019年12月18日 | ふるさとあれこれ
『ありゃ~、わざわざ豊岡まで来られたんですか』、
「豊岡初上陸です。シャープの8Kキャラバンカーやって来ました」と挨拶交わします。

何日か前に連絡があった時、
「いいですよ~。店の人だけしかおられなくても構いませんよ」と言って、さっさと本日
ご来店です。

駐車場で80インチの8Kテレビを視聴します。
準備をじっと見ていたケンちゃんが一番乗りです。

車の中で、80インチにかぶりつきです。
「わ~~きれいだ~。音もメチャクチャすごいわ」と感心します。

運よくご来店だったUさん、Iさんがご覧になります。公民館の職員さんも何事かと見に
出てこられます。さらに、Oさんも子供連れでのぞきます。

見る者びっくり、8K画質のきれいさにビックリします。

本日は、突然の8Kキャラバンカーに見る者みんな感動します。
こんな素晴らしいキャラバンカーはもったない。100世帯も集まる感謝祭の時だわと話し
ます。

「いやいや、今日はお店の方にだけでも見てもらおうと、豊岡に初上陸ですわ」とシャープ
の二人は笑顔です。




ふるさとの話㊽十ニ月号

十二月、平成最後の師走です。
今から百四十六年前、明治五年の師走にあった改暦をご存知でしょうか。
今月は、明治五年をまん中にした、世の中が激動した十年間のふるさと但馬の話です。
クイズのヒントも隠れています。

来年は新元号に
来年、四月三十日をもって平成は終わります。
五月一日からは新元号になって、新天皇が即位されます。

人生の中では、いろいろな変わり目を体験しますが、今日まで使っていた元号が明日から
は別の名前になるなんて、滅多にない体験なのです。
 
ところが、平成の世のこんな体験なんかぶっ飛ぶくらいに、凄い変わり目を連続して経験
した時代があったのです。
 
明治五年をまん中にした十年間の出来事なのです。

明治の改暦
今から百四十六年前の明治五年師走のことです。
明治五年十二月がやって来ました。「正月までにあれもして、これもして」と、あわただし
く生活に追われていた十二月二日のことです。

突然、お上から命令です。
「明日三日は、明治六年一月一日ということにしますよ~」、「時刻の数え方も、何々の刻
から午前何時と言うようにしますよ~」と、太陽暦への大転換です。
 
明治新政府は、十一月九日に太政官達(たっし)なんて命令書を公布して、二十三日後の十二
月三日を、新年の一月一日に強引にしてしまったのです。

ふるさと但馬の庶民は驚いたでしょうね。
「まだ十一月だと思ってたら、突然正月が来てしまったわ」と大ビックリです。

明治へ
五年前の慶應三年一月九日には、孝明天皇から明治天皇へ天皇が変わっているのです。
昔は元号の改元は度々ありました。孝明天皇の在位二十年の間でも弘化、嘉永、安政、万延、
文久、元治、慶応と7つもあったのです。

明治天皇も慶應と明治の元号なのです。コロコロ変わる元号に庶民も戸惑ったでしょう。
慶應三年十月十四日に、徳川幕府が終了して大政奉還です。現代の政権交代の騒ぎどころでは
ありません。
庶民の心も「世の中どうなっちゃうのかな」と心配だったのです。

慶應四年に、明治元年と改元されてやれやれ一安心です。
ところが、西園寺公が山陰鎮撫という名目で官軍を引き連れ但馬にやってきます。庶民は又々
ビックリです。

豊岡県から兵庫県へ
明治三年には出石、村岡、豊岡、久美浜、生野県が生まれます。
わずか一年後の明治四年には豊岡県に統合、庶民はついて行くのが精いっぱいなのでした。

そして、明治五年十二月三日をバッサリと明治六年一月一日にぶっ飛ばされる太陽暦への
改暦で、庶民の生活はフラフラするほど大変だったのです。
     
明治五年から七年にかけては、明治の諸制度が次々と定められていきます。
府中小学校をはじめ、各地区に小学校が設置されるのは明治七年なのです。もう庶民は新し
い世の中に目が回ります。

豊岡県は5年続きます。
そして、明治九年八月には豊岡県を廃して兵庫、豊岡、飾磨、名東(淡路)が一つになって、
「新兵庫県」が誕生するのです。

激動の十年
天皇は変わるわ、元号は変わるわ。コロコロと出石県だ豊岡県だ、新兵庫県だと変わるし、そ
の上、月の満ち欠けで親しんでいた暦まで変わってしまいました。

あまりの変わり目の激しさに、オロオロ、ウロウロする十年間だったのです。
ふるさと但馬の庶民は、平成の元号一つが変わる何倍ものビックリの連続だったのです。

(兵庫の歴史資料を参考に書きました)