嬉(うれ)しさは レンジ買い替え ありがとう 花々きれい 庭褒めるとき
嬉(うれ)しさは こんなチラシは 忙しく 書く暇ないと 言うと聞くとき
もう、あとは本部から送られてくる、
「アトム夏の大感謝祭」DM一式を待つばかりです。
夏の大感謝祭のご案内状が出来ました。
本部作成のDM一式は、明日4月の26日に店に到着する予定です。
正確な新幹線のダイヤと一緒のように、
案内状の印刷が完了し、若嫁さんの袋詰め準備作業がどんどん進みます。
盛りだくさんですよ、
感謝祭の楽しい中身。それを案内するチラシの枚数も、半端なものではありません。
練りに練ったおもてなしの内容を、
4月に入る前から書き始め、出来たチラシは凄いです。
メインのご招待状は、A3チラシの裏表、
それも2枚でていねいにご案内しています。
もう一つのご案内は、
「ゴールデンウィークの営業カレンダー」と、感謝祭直前までの購入特典のお知らせA4チラシです。
感謝祭限定お買い得商品のご案内は、本部の大判デラックスDMに任せて、
店のチラシは、パソコンに強い当店おすすめ快適パソコンの、B5チラシが一枚裏表です。
あとは、おまけのクイズが二つ、
「ふるさとの話とクロスワードパズル」、「売り出し風景、まちがい探しクイズ」です。
そして、
「アトムでんきの たのしいぬりえ」もちゃんと今度も付いてます。
そんなチラシを一生懸命作って、積み上げ準備している時です。
ある業者のお方がご来店されました。
来るたびに、
「今度のDMに、当方のキャンペーンチラシも入れてね」と店の販促に協力していただくお方です。
「次回のDMはアトムの感謝祭ですか。見本に一部下さいね」とおっしゃいます。
豊岡の町の電気屋さんにも、出入りされています。そんなお方が、こんなことをお話しします。
「アトムさんのところは、毎月毎月お客さまにお便りチラシや、売り出しのDMを自前で作っておられますよ」と、
しっかりとしたあるお店にお話しされたそうです。
そうしますと、こんな返事が返ってきたと、
「アトムさんってお店は、ようこんな素晴らしいチラシ作る時間あるんですね。
うちの店なんか、とっても毎日が忙しくって忙しくって、チラシなんか作る暇ありません。
そんなん売り出しなんて、する暇もなんも毎日の仕事でいっぱいで、やっとる暇ありません」と返事が返ってきたと言うのです。
それを聞いて感心します。
アトムの店なんか全国どこのお店も、うち以上にお客さまへの情報発信に時間を割いて、
あいさつ回りに時間を割いて、売り出しもするブログも書く、SNSもやる、忙しいはずなのに、なんもかんもやってます。
いや暇なんかな?、
そんなことないわな暇なんて。
豊岡のこの町の電気屋さんは、忙しすぎてチラシなんか書く暇ないと、
えらいもんです凄いです。
町の電気屋でもいろいろあるのですね。忙しすぎてチラシなんか作ってる暇ないなんて、
物凄く景気良い話を聞いて、とてもとっても羨ましいですね。
楽(たの)しみは 読んできちんと 綴じてるの 声を励みに 話書くとき
「アトムさんの毎月のふるさとの話、とても楽しみに読んでます」、
「読み終わってクイズを出して、切り取ったふるさとの話はずっと大事に綴じて残してます」とMさんはおっしゃいますね。
「ふるさとの事をあらためて書いてもらうと、色々なこと知ることができて勉強になります」と、
読まれたファンの方は、ほとんどの同じにおっしゃいますね。
5月の感謝祭号は月初めに届けます。
その中に、ふるさとの話「5月号(前編)」が入ります。
5月の中旬には、売り出し直前の「売り出しに来てね!!」のご案内状を届けます。
その中にも、ふるさとの話「5月号(後編)」が入ります。
もちろん、
どちらにも楽しい楽しいクロスワードも入ってます。
今日は日曜日でした。
時間の合間に書きました。
ふるさとの話㉘5月号(後編)を書きました。
まだ一ヶ月先に配る分ですが、
ちょっと手際よく早目に書きました。
ふるさとの話 ㉘ 5月号(後編)
今から百年ほど昔のふるさとの話です。
今回は前編の続きで、藤本俊郎村長と幻に
消えた西気鉄道のその後の運命です。そし
て江原出石間を走った出石軽便鉄道の話(後
編)です。
クイズのヒントも隠れています。
西気鉄道と村長の運命
日高小学校での起工式に先立つこと半
年前の、大正8年(1919)6月には、
請願していた出石軽便鉄道の免許が国か
ら下ります。西気鉄道の工事がスタート
したことと併せて、発起人代表だった藤
本俊郎村長の得意は、想像に余りがある
ものでした。
しかし、丹後山田と出石、豊岡を結ぶ
山豊線計画を流産させたことで、猛烈に
陳情していた神美村の平尾令太郎らの勢
力と、大きな敵対関係になります。その
確執は、後々の腹背を敵に囲まれる四面
楚歌の元となるのでした。
西気鉄道の敷設工事は着々と進んで行
くように見えましたが、伊府を過ぎ野村
あたりまで来ますと、墓地の移転交渉が
進まず工事が中断します。庄境、頃垣へ
と続くあたりは、用地の買収や軌道や並
行しての電柱の工事も少しずつ進んでい
ましたが、少なからず暗雲も立ち込めて
まいります。
当時の景気の後退と、政局の影響です。
ローカル線の採算の難しさに輪をかけ、
大口出資予定の鈴木商店の倒産、相次ぐ
敵対勢力からの株主辞退や離反する者が
続出します。工事が進捗せず、再三の竣
工延期申請を出す羽目となります。
大正15年、とうとう西気鉄道を夢見
た但馬軽便鉄道株式会社は倒産し、藤本
俊郎は破産してしまいます。地域住民の
希望を大きくふくらませた西気鉄道の軌
道には、一度の汽笛の声も聞くことなく
夢は空しく消えたのです。県議を任期半
ばで辞任して、家も私財もすべて失った
藤本俊郎は、西気鉄道倒産の大正15年、
ふるさとを去った東京の地で悲しくも七
十才の生涯を閉じています。
出石軽便鉄道の完成
西気鉄道の起工式に遅れること半年、
大正9年6月、出石軽便鉄道の建設が始
まります。出石は室埴村弘原から、小坂村、
中筋村の山裾を走って、国府村上郷に至り
ます。円山川に橋を架け、日高村鶴岡から
江原駅に至る11km余りの鉄路です。
資金難で工事中断や、菅谷川や円山川の
橋梁工事もなかなかの難工事、それでも九
年の歳月をかけて昭和4年(1929)に
出石軽便鉄道は完成しました。
7月の開通式は、出石城稲荷台で盛大に
行われました。町中が万国旗で飾られ、大
名行列、花火打ち上げ、祝賀飛行で賑わう
中を第一号の始発列車が弘原の出石駅から
華やかに発車します。明治の頃より、鉄道
の通らない町として取り残された無念さを、
一気に払拭する待望の鉄道がついたのです。
地元の人たちからは「軽便(けいべん)」
の愛称で呼ばれていました。しかし、出石
軽便鉄道も前途は苦難の道のりでした。
苦難十五年の軽便鉄道
最初に使用された汽車は、船舶用の35
人乗りの気道車で、故障が多く貨車が引け
ない。次に代えた中古の蒸気機関車は、欠
陥で使えない。三度目は中古のガソリンカ
ーで、何と時速20kmで馬力が小さく、
雪の狭間峠では「若い者は下りて押してく
れ」というありさまでした。二年でガソリ
ンカーをやめて蒸気機関車にして頑張りま
す。
ところが利用者です。乗客は初午の日以
外はとても少なく、平均5~6名くらいに
すぎず会社の営業内容は火の車だったので
す。あの手この手で沿線住民へ利用を促す
も、ずっと赤字続きのこの鉄道は「シャッ
キン・シャッキン(借金)」と音(ね)を
あげて走っているとまで言われていました。
更に、昭和9年(1934)の室戸台風
で鶴岡鉄橋が流されます。復旧工事の資金
の都合がつかないため、青年団や消防団の
奉仕人夫で復旧させたという、涙ぐましい
努力で鉄道を守り続けます。
しかし、昭和17年にまたも水害で橋が
流されそのままに、昭和18年(1943)、
戦争のためレールをはがして供出させられ
ることになり、とうとう昭和19年1月、
出石軽便鉄道は営業停止になってしまいま
す。哀れレールは積み出しの港で終戦を迎
え、出石軽便鉄道のさびしい十五年間を象
徴しているようでした。
(日高、出石町史など参考に書きました)
嬉(うれ)しさは ふるさとの話 風雲児 その前編を 書き上げるとき
来月はアトムの夏の大感謝祭です。
毎度のことです。売り出しのご案内状を、5月に入ったらお届けします。
そして売出しの二、三日前に、
「ぜひぜひ、ご来店待ってますよ~~」の直前ハガキも出しますね。
今年は、
その直前ハガきを「直前ビックリ封筒?」にする予定です。
その中には、
とってもお得なお話や、いつものクイズも入れますね。
と言うことは、来月のクイズとふるさとの話は2回あるってことなのです。
ふるさとの話は、前編と後編に分かれて一つの話が続きます。
本日書けました。
5月号のふるさとの話、前編が書けました。
ふるさとの話㉗5月号(前編)
今から百年ほど昔のふるさとの話です。
旧日高村長だった藤本俊郎を知っています
か。日高を横断する西気鉄道計画があった
ことを知っていますか。今月は、夢を追いか
けた一代の風雲児・藤本俊郎と、幻に消え
た西気鉄道の話です。
クイズのヒントも隠れています。
但馬の十字路・日高
今年3月25日、北近畿豊岡自動車道
が日高町まで開通しました。地元の住民
にとってはとてもうれしい喜びの日です。
春の晴天の下、日高神鍋高原インター
チェンジには、にぎやかに開通を祝う人
の波が続きました。
道路でも鉄道でも同じです。町に新し
い道路が完成したり、鉄道路線が計画さ
れたりして町の交通事情が一変するよう
になると、その喜びひとしおです。
西気鉄道の起工式
今から98年前のことです。大正8年
(1919)11月、城崎郡日高村で鉄道
敷設工事の起工式がありました。但馬軽
便鉄道(西気鉄道)の起工式なのです。
「第一期工事の起工式は、日高小学校々
庭で盛大に挙行されたが、各種の催し物
で賑わい、町中が喜びに沸き返り、日高村
はじまって以来の盛況であったという」、
「藤本俊郎村長の壮大な夢・・・日高
町史に残る一代の風雲児に鶴岡出身の藤
本俊郎がある。彼の構想は雄大で大風呂
敷であったが、全財産を擲(なげう)って
当たれば必ず成功するという信念で数々
の事業に挑戦した」((日高町史より)
彼の特筆する事業が、丹後山田(野田
川)から出石、日高を経て鳥取(若桜)に抜
ける、但馬の東西を横断する幹線鉄道の
建設、西気鉄道計画だったのです。
日高村長・藤本俊郎
藤本俊郎は明治4年(1871)日高村
鶴岡の大地主の家に生まれています。
風姿堂々として、その頭の中には強烈
な事業欲と満々たる自信に満ちた、壮大
な夢を持ち合わせる性格でした。大正元
年(1912)41歳の若さで第13代日
高村長に就任し、大正11年までの10
年間日高村長として活躍しました。
政治的手腕は高く、阿瀬川発電創設、道
路網の整備、中但病院新設、但馬新報社、
鶴岡橋、林業試験場、蚕業試験場、放牧場、
日高燐寸、日高劇場と、時代に即応したア
イデアと実行力でことを進めていきまし
た。
最大の懸案が、今も同じ但馬の十字路
を自認する日高のリーダーとして、但馬を
東から西に横断する幹線鉄道(西気鉄道)
の建設だったのです。
但馬軽便鉄道
明治時代、大阪、舞鶴、鳥取、島根を結ぶ
鉄道の路線誘致合戦は激烈なものでした。
明治42年に山陰線が豊岡まで開通し江
原駅が完成します。福知山を経由する現
在のルートです。舞鶴、山田(野田川)、出
石、日高、若桜ルートは計画から退けられ
ます。藤本はそれでも出石、日高の路線に
執念を燃やしました。
三方村庄境に耐火煉瓦用の鉱石を産出
する、品川白煉瓦株式会社の鉱山があり
ました。大商社である神戸の鈴木商店(現
在の双日)が鉱石搬出のための鉄道敷設
を計画していましたが、米騒動で焼き討
ちにあった鈴木商店は計画を断念、大正
8年に鉄道建設権を但馬軽便鉄道を設立
していた藤本俊郎に譲渡しているのです。
第一期工事始まる
大正8年、日高小学校での盛大な起工
式の後、いよいよ西気鉄道の工事が始ま
ります。江原駅西側のプラットホームを
起点駅にして、線路敷の工事が進みます。
稲葉川沿いに久斗の弁天池をまたぎ、
久田谷から伊府の通称庵山まで田圃を一
直線に、野村、庄境、十戸、頃垣までが一期
工事です。着々と進む工事は、誰の目にも
西気鉄道の明るい前途が洋々と横たわっ
ているように映っていました。
さらに山宮、栃本、太田を経て、トンネ
ルを抜いて射添村(村岡)へ、トンネルが
不可能な時は万劫から山を越す路線です。
氷ノ山を越すという鳥取までの道のりは
壮大なものでした。
そんな夢のような西気鉄道の建設が始ま
りました。
西気鉄道と藤本村長の運命
西気鉄道計画は無事に完成するでしょ
うか。藤本村長のその後はどうなったの
でしょうか。この続きは、次号後編(感謝
祭直前の5月中旬お届け)にて、出石軽便
鉄道の話と一緒に書いてみます。
(日高町史などを参考に書きました)
嬉(うれ)しさは 花春一つ 穏やかな 流れに落とし 水測るとき
穏やかな流れに、ポイと一つ放り込みます。
用水路の側面に赤く印の付いた辺りに、放り込みます。
草むらに咲いていた紫色の花を、一片(ひとひら)放り込みます。
流れに落ちた瞬間に、ストップウォッチを押します。
穏やかな流れに、花弁は流されていきます。
3m先の赤い印を通過する瞬間に、ストップウォッチを押します。
穏やかな流れは、2.65秒でした。
記録ノートに、測定棒で測った水深を32cmと書き込み、
次の欄に、2.65秒と、その日の天候と、測定時刻とを一緒に書き込みます。
たったこんなことを、真面目に毎日朝の6時にやっているのです。
4月に入ってすぐの頃は、用水路の桜の木も蕾(つぼみ)ばかりでした。
今朝は、春爛漫に咲けよ咲けよと、
桜の花も満開でした。
嬉(うれ)しさは 作りも作った 88回も タテヨコ言葉 書きつなぐとき
平成22年から足かけ8年、
毎月毎月、クロスワードパズルを作ります。
来月5月はアトムの夏の大感謝祭です。
5月の売り出し号のクイズが出来ました。
なんと88回目の作品、
「幻に消えた西気鉄道」のクロスワードパズルが出来ました。
今回も、先にクイズを作ってしまいました。
さあ次はふるさとの話「一代の風雲児村長と、幻に消えた西気鉄道」の原稿を書き始めます。
「街のでんきや便り」から、売出し号のパズルです。
赤二重枠の5文字で完成する言葉は?「ヒント :DMの中にいるカニは何匹? 」
赤文字のヒントの答えは、ふるさとの話の中にあります)
タテのヒント ヒントの〇〇は漢字です。
1 藤本俊郎は10年勤めました。
2 昔、元町の豊劇と生田通りの○○館がありました。
3 基準に合って国がOKを出すこと。
4 三方村の蠟石山は○○白煉瓦の鉱山でした。
5 カギ。
8 神戸の異人館でよく見かけます。
11 大雑把なことを表します。
13 出石でも日高でも、車両が小型なのでこう呼ばれた。
16 NHKでは歌がうまいことを「のど○○大会」という。
19 堤防。
ヨコのヒント ヒントの〇〇は漢字です。
1 城崎温泉に7つあります。
3 幻に消えた○○鉄道計画。
6 豚の腸に詰めるとフランクフルト、羊の腸に詰めると。
7 ○餅食堂は豊岡豊田町の饅頭店が発祥の地。
9 金沢藩は○○百万石と呼ばれた。
10 神武山もライトアップされてきれいでした。
12 意味、理由。
14 陸地よりずっと広い。
15 日本一の山。
17 円山川をせき止めた蓼川井堰や用水路の出発点。
18 ○○に立って外の様子をうかがいます。
20 立てばシャクヤク座れば牡丹、歩く姿は○○の花。
21 久斗の池。
今月のクイズは①簡単だった②難しかった③その他ご意見( )
楽(たの)しみは 若嫁さんも 振込を 四日(よっか)も早くし ゲン担ぐとき
ずっと昔から、
ゲンを担いで支払いの振り込みを、即日即刻のスピードでいたします。
1月も2月も3月も、
そしてこの春4月だって、月初めから不思議と問い合わせやら、ご注文が殺到します。
4月から切り替えました。
うちの若嫁さんが、全部全部お金のことは仕切ります。
早速です。
午後はお昼過ぎに、アトム本部からの「今月の請求金額はこうですよ~」がネットに上がってきました。
うちの若嫁さんは即刻です。
銀行の3時までに間に合うように、パソコン叩いて即日振込やっています。
こりゃ~きっと明日から、
ドドっと問い合わせに、ご注文が殺到してくるでしょう。
ゲンを担いで即日振込やりますと、
不思議なほどに、次から次へとご注文の電話があります。良いこと来ますねホントです。
楽(たの)しみは 朝早よ起きて 水路見る 井堰の向こう 朝霧立つとき
「豊岡南さんは、社長会に来るの朝早いですか?」と井坂会長が尋ねます。
あっ、井坂本部長は今月から取締役会長になられたのです。
今日はアトムの社長会でした。
午前中の二階での勉強会を終え、昼食は下の食堂でバイキングです。
食券持って並んでいる時に、
「朝は早く出発ですか?」と会長に尋ねられたのです。
『私はけっこう朝起きなんです。
そうですね、6時にはちょっと用水路の水流管理と門扉の開け閉めのために、毎日出向かねばならんので朝はとっても早く起きます。
それに毎月の社長会、3時間ほどかけて羽曳野に来ます』、
『朝は7時半には出かけて、午前中の勉強会にも出席しています。遠くの加盟店も勉強会出席しておられますよ』と、岡山からいつも出席のお店と相づち打って話します。
「へ~、朝早くから大阪に来てもらってご苦労さまです。
でも、いつもニコニコ顔で豊岡南さんはいいですな。次代の跡継ぎもしゃんとしとって良いですな」、
『いやあ、今日は息子が出席する番なんですが、
ちょっと遠方に配達がありまして、親父が社長会に代理出席なんです』、なんて会話をいたします。
嬉(うれ)しさは 久美浜抜けて トンネルで 但丹(たんたん)またぎ 品運ぶとき
城崎町桃島にある公民館に、蛍光管を配達します。
次の配達先は、但東町資母(しぼ)にある認定こども園です。
『ウーン、どうしようかな?。このまま引き返して豊岡、出石経由で資母に向かった方が近いかな、
それとも、気比(けひ)から峠を越えて京都府久美浜町を抜けて、たんたんトンネルから資母へ向かった方が近いかな』と思案します。
スマホで地図検索しまして、だいたいの距離感をつかみます。
『地図で見る限り久美浜回りが近いぞ』と決めて走ります。
車のメーターは、店を出発する時から付けいていました。
店から桃島までは23kmでした。
桃島までだってけっこう遠いのです。以前測っていました。店から資母までの距離は31kmです。
と云うことは、桃島から出石経由で資母まで走ると50kmはあるのでしょうか。豊岡市ってムチャクチャ広いです。
店から東に一番遠い但東町の資母辺りで、30kmは優に越します。
城崎だって20kmをとっくに過ぎるし、西の一番遠い竹野町の切浜あたりになりますと、30kmは十分にあります。
まあ、豊岡市の端から端まで走りますと、
60も70kmにもなる、ムチャクチャ広い所なのです。
桃島を出まして、気比、畑上、三原を抜けて、
峠越で兵庫県から京都府に入って、久美浜町に抜けました。
久美浜の町を通過して、どんどんと峰山方面に走ります。
野中から右折して但東町方面に向かいます。
進んで走って、今度は京都府から兵庫県へと「たんたんトンネル」を抜けていきます。
あとは一気に下って資母地区に入りました。
車のメーターを測っていました。
桃島から資母までは34kmありました。本当に遠い配達なのです。
でもでも、出石回りならば50kmは十分にあります。
兵庫県から京都府へ、そして京都府から兵庫県へ但馬丹後を抜けます「但丹(たんたん)トンネル」をまたいで、10km以上は近道でした。
嬉(うれ)しさは いつもと違い 早目です チラシカタログ 目を通すとき
3月のこの頃は、なにやら会議や行事が続きます。
昨日の夜は電機商業組合の支部総会をやって、今日は昼間にひだか商品券組合の役員会に、夜は地元の土地改良区の総代会をします。
予定表に記したスケジュールを追っかけていますと、
一日一日が、アッと過ぎ去るように感じます。
なにやら「行っちゃう1月」、「逃げる2月」に「去っちゃう3月」と、
毎月がビュンビュン過ぎ去っていくような気がします。
『今月はえらい早目に “まちのでんきや便り” を印刷しとるんだね』と尋ねます。
月初めにメール便でお客さんのところに届ける、店のオリジナルチラシが刷り上がったと積んでます。
本部から、毎月27日にアトムの特選品カタログは届くはずなのです。
ところが、今月は何でしょうか今日はまだ24日というのに、ドサッとカタログの荷物が届きます。
3日も早いじゃありませんか。
店のオリジナルチラシも早々と印刷できるは、3日も早くカタログは届くは、
もう気分は早々4月です。
楽(たの)しみは 日高豊岡 組合の 45年ぶりに 合併するとき
今夜、豊岡市商工会館で支部の臨時総会を開催しました。
主議題は、豊岡支部との合併です。
兵庫県電機商業組合は県下に多くの支部があります。
この30年間くらいのうちに、組合に加盟するお店は廃業その他で激減しました。
その数おおよそ半減なのです。
各支部の加盟店数も年々減少をたどり、
市町単位にある支部も、一支部の加盟店数が3店だ、5店だ、8店だとどんどん少なくなってきました。
本部の方針で、
10店以下の支部は近隣の支部と統合するようにという指導で、日高支部は隣町の豊岡支部に合流することになりました。
元々は、日高も豊岡も同じ豊岡支部でした。
今から45年前の昭和47年4月1日に、所帯も増えてきたことだと、豊岡支部から日高の電気店は分離して日高支部として発足しました。
それが時代の流れです。環境の激変です。
45年ぶりに古巣の豊岡支部に合流することになったのです。
当店がこの2年間日高支部の支部長として、そのとりまとめに努めてきました。
『長きにわたった日高支部としての活動は、本日の総会をもって終了します。4月からは豊岡支部となります。ご苦労さまでした』と挨拶しまして総会を締めくくります。
嬉(うれ)しさは ドシャ降りの中 特養で ハイ映ったよと 相撲見るとき
「親父が特養に世話になってるんだわ。家にあるテレビと買ってきた台を持ち込んでたから、
アトムさん線をつないで映るようにしてやってよ」と頼まれました。
店から少し距離のある施設ですが、ひとっ走りに駆けつけます。
昨夜から大荒れの天気は、山の頂上に雪を降らせ、今日も一日中ドシャ降りの天気でした。
施設は、道路から少し入った小高い丘の上です。
叩きつけるような冷たい雨の中を走って、空調でほんのり暖ったかな建物の中に入ります。
建物はとても小ぎれいな、素晴らしい環境です。
施設の職員さんに案内されて、お客さまの個室に入ります。
『こんにちわ~。テレビ映るように来ましたよ』と声をかけます。
ずっとずっと昔からお客さまだった〇〇さんは「とうとう施設に世話になるようになっちゃったよ」と元気な声で話します。
お家で奥さんがケガをされて、お世話がし難くなってやむなくこちらに入られたようです。
少し足の具合が悪く、車椅子ではありますがしゃ~んとして話もしっかり元気です。
施設に入っておられる方は、
ベットの上か、休憩ホールの椅子に座って、一言もしゃべらず「じぃ~~」っとされているのがほとんどです。
頭も口も元気な〇〇さんは、
「だいたい分かってたけれど、施設に入ってゆっくり本を読んだり、誰かと将棋をしたりするってな雰囲気ないわな。
右見ても左見ても、テーブルに伏せてじぃ~~っとしてるだろ。そんなそばにいるとこちらまでおかしくなるわい」と話しです。
自分の部屋でも好きな番組を見たいというのです。
『2ヶ月も辛抱してたの。ハイ、BSのチャンネルも全部入ります。これで好きな相撲も見られますよ』と説明します。
『家の奥さんが元気回復したら、早く戻ってきてね』と、
いろいろ、いろいろ昔話をしながら、ドシャ降りの窓の外を見ながら、〇〇さんとのひと時過ごします。