八鹿町 とがやま温泉天女の湯
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(2級)問題より
【19】室町時代末期の山名氏は、九日市(豊岡市)に守護所を置きましたが、
その後、本拠地とした場所は、次のうちどれでしょうか。
(a) 豊岡城 (b) 此隅山城 (c) 三開山城 (d) 八木城
山陰地方を勢力範囲としていた山名時氏の長男・師義(もろよし)に、室町幕府
から但馬守護職が与えられます。山名一族はその領国を全国の六分の一にも広げ、
六分の一殿(ろくぶんのいちどの)と呼ばれるほど隆盛を誇りました。
室町時代の守護職は、その後の近世守護大名とは違います。但馬の一国の領主では
ありません。守護職は領主ではなく、幕府から与えられた「職」です。律令時代の
国司に近く、武士が国司に代わって与えられた行政職のようなものです。なので、
守護所とは武士の軍事指揮所であり、国の行政の出先機関の所のようなものです。
但馬守護職になった山名氏は、守護所を豊岡市九日市に置きました。東の円山川
を外豪に見立て、西の戸辺羅(とべら)山に砦を築きます。
その後、被官・垣屋(かきや)氏との確執などから、直轄領の出石郡西部にある此
隅山(このすみやま)に退き、此隅山城を本拠地にします。さらに、後世代になっ
て此隅山城から有子山(子有山)へと後退していくのです。
答えは(b)の此隅山城です。
『プロレス』
じいちゃんが中学生のころかな、白黒テレビから流れる娯楽はプロレス中継だった
の。近所のおうちにテレビを見せてもらいに行くの。力道山の空手チョップがさく裂
して、外人レスラーがバッタバッタと倒れていくの。
大人も子供もテレビのプロレス中継を見て、ワ~ワ~キャ~キャ~言って楽しんだん
だよ。力道山が大活躍の時代だったんだよ。
清滝小学校の桜の木も雪化粧
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平成29年 第12回但馬検定(2級)問題より
【16】但馬最大の百姓一揆は、天領村々の百姓が生野の代官所に強訴したもの
です。それは何年のことだったでしょうか。
(a)元和7年(1621 年) (b)享保5年(1720 年)
(c)元文3年(1738 年) (d)寛政3年(1791 年)
古くから銀を産出していた生野銀山は、佐渡の金、生野の銀と言われて江戸幕府
の最も重要な鉱山でした。そのため本格的な採掘が始まった頃、宝永2年(1705)
には「御所務山(ごしょむさん)」という鉱山の最高位を表す称号を与えられ、生
野銀山は幕府直轄地とされ繁栄を極めました。
その生野銀山で一揆が起きたのです。今から280年前の頃です。生野銀山の鉱
夫らが仲買人である加奉(町役人)宅を打ちこわし、代官所に強訴(ごうそ)する一
揆が起きました。結果は、一揆側に銀100貫匁と米160石を救恤(きゅうじゅつ:助
けるために出すこと)することで解決します。
この一揆の勝利に刺激されて、ほどなく生野代官所の支配下の朝来(あさご)郡の
村々で、1万人からなる人数の年貢減免を求める強訴が発生しています。但馬最大
の百姓一揆と言われる朝来の一揆です。この生野の一揆も朝来の百姓一揆も、元文
3年(1738)12月に起きました。これを「生野銀山元文一揆(いくのぎんざんげ
んぶんいっき)」、と言われます。答えは(c)の元文3年(1738年)です。
余談ですが、道の駅但馬のまほろばで見ました。朝来市と長崎県壱岐島が友好を
深めているという案内です。その由来が、朝来市和田山町東河地区で語り継がれて
いる心諒尼(しんにょうに)の話です。
元文3年12月に、朝来郡の村々で1万人の百姓一揆が起きました。首謀者のひと
りで、当時35歳であった小山弥兵衛は長崎県壱岐島へ流罪となります。その弥兵衛
を修行僧になった孫娘が、壱岐島に訪ねるという話です。祖父を訪ねて壱岐島に渡
り介護します。3年後、80歳で亡くなった祖父の遺骨を抱いて帰郷して、和田山
町宮の円明寺の門に入り、法名を心諒(しんりょう)と改め、後々まで祖父を弔っ
たという温かい話です。
その縁で、朝来市と長崎県壱岐島の友好・交流が続いていると、道の駅に大きく「祖
父を弔う孝行者・心諒尼」と案内されていました。生野銀山の一揆、朝来の百姓一
揆の先に、こんなお話がありました。
『ようしんさる。ようきなった』
ケンちゃんね、ふるさと但馬の言葉ってとっても優しい訛りがあるんよ。とっても
きれいな言葉を使うんよ。その一つ二つ話してみようか。
「あの人はよく仕事ができる人だね」って言う時、こう言うんだよ。『あの人はよー
仕事しなる人だわ。よー仕事しんさる人だわ』っていうんだよ。
~しなる。~しんさる。但馬の話し言葉の最後に付ける「しなる。しんさる」は、優
しいきれいな言葉なんよ。
もう一つ、「ようきなった」という言葉なんよ。「ようきなった、よーきんさった」
は、人を迎える時に使う丁寧語なんよ。『雪のよう降る中、よーきんさった。よーきん
さった。熱いお茶でも出すわ』なんて、歓迎して使うときにフっと優しい言葉が出るの
がいいんだね。ふるさと但馬の方言は、とっても優しい言葉なんよ。
アップ神鍋スキー場 夕べ迫りナイター照明点灯
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平成29年 第12回但馬検定(2級)問題より
【12】江戸時代の大名や旗本は陣屋をおいて村々を治めました。次のうち江戸時代
の陣屋ではなかったものは、どれでしょうか。
(a)朝来陣屋 (b)芦屋陣屋 (c)豊岡陣屋 (d)村岡陣屋
浜坂港を見下ろす山頂に亀ヶ城と呼ばれた芦屋(諸寄)城がありました。
新温泉町芦屋には、芦屋陣屋が置かれていました。現在は跡形もありません。
豊岡藩の藩庁である豊岡陣屋は豊岡市京町にありました。陣屋跡は豊岡市立
図書館の敷地になっており、旧豊岡県庁正門の建物が現存しています。
村岡藩の藩庁としての政庁、居館が立ち並ぶ村岡陣屋は、村岡黒野村にあり
ました。明治になり廃藩置県で陣屋は破却されました。
四つのうち江戸時代に存在してなかった陣屋は、朝来陣屋です。答えは(a)
の朝来陣屋です。
『井戸』
じいちゃんの子供のころは、水道ってなかったんよ。飲み水や、洗濯や洗い
物は井戸水や手動でくみ上げるポンプだったんだよ。くみ上げポンプが家にや
ってくるまでは、全部井戸だったの。昔はね、家の玄関の横に井戸があったの。
半径1mちょっとの丸いコンクリートの井戸だったね。4、5mくらいの深さ
かな。夏でも枯れない水がいつもある井戸だったの。カラカラカラと回る滑車
に、ロープが上がり下がりして、ロープの先についたバケツで井戸水をくみ上
げるの。
くみ上げた水は、台所の桶の中にためて炊事に使うの。風呂にもバケツで一
杯一杯中庭を歩いて、裏にある風呂おけまで運ぶんよ。みんな子供たちの手伝
いでやったんよ。玄関先のタライに井戸水くんで、行水もしたんよ。そして、
舗装していない家の前の道路に水まきもするの。そうそう、スイカなんかを網
に入れて、井戸の中に吊るして浸けるの。井戸水で冷やしたスイカは美味しか
ったよ。
そんな大切な井戸は、その頃のどのお家にもあって大事に大事に使ってたんよ。
片間より小坂の田んぼを一望
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平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より
【31】豊岡市気比で発見され、国指定重要文化財になり、現東京国立博物館の
蔵品となっているのは、次のうちどれでしょうか。
(a) 勾玉 (b) 銅鐸 (c) 埴輪 (d) 銅鏡
答えは、ズバリ(b)の銅鐸(どうたく)です。
勾玉や、銅鐸や、埴輪や銅鏡は、いろいろな遺跡から出ています。現東京国立
博物館に収められて蔵品になっているものは、豊岡市気比(けひ)の銅鐸なので
す。大正元年(1912)に気比村の石切り場で、4個の小さな銅鐸が偶然発見され
ました。路傍の巨岩の後ろの小さな洞窟に、貝殻類と一緒に並べてあったそうで
す。
特徴のある模様を描いた銅鐸は、大阪市茨木市や堺市から出土したものと同じ
種類、同じ鋳型のものです。弥生時代は今から約二千年前です。そのころから陸
路200㎞離れた但馬と大阪に、交易があったことを裏付けています。発見時、
大変質の良い気比の銅鐸は、宮内省から東京帝国博物館へ提出の指令が出され、
現東京国立博物館の蔵品になっているのです。
竹野町浜須井 日本海海岸
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平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より
【24】旧因幡道沿いの新温泉町対田に今も残る一里塚は、江戸時代に一里(約4 ㎞)
ごとに土、石、木などでつくられるものですが、その目的は、次のうちどれでしょうか。
(a) 亡くなった人の供養のため (b) 村の守り神として
(c) 旅人のための目印や休憩所として (d) 村に貢献した人を讃えるため
新温泉町対田(たいた)は、豊岡から香住、余部、久谷を抜けて因幡道を浜坂に
入るあたりにあります。元禄13年(1700)の但馬国絵図に、対田の一里塚が描か
れています。現在は石の基壇の上に、享保13年(1728)「大乗妙典全部書写供養塔」
と記した塔が建っています。
このころの一里塚は、旅人の距離の目安とされ、また休息所となっていたのです。
答えは、(c)の旅人のための目印や休息所が正しいですね。
『とっちんば・イナゴ』
昔の田んぼ道は、草ぼうぼうでした。車のわだちは草が少ししか生えてませ
んが、大体草ぼうぼうが田んぼ道の姿です。
秋仕舞いのころ田んぼ道を歩くと、ザワザワと音が聞こえるほどに昆虫が飛び
跳ねます。イナゴです。じいちゃんが子供のころは「とっちんば」とよんでい
ました。
イナゴは、元気よく田んぼ道の草むらを飛び跳ねます。イナゴを捕まえて袋
に入れます。家に持って帰り、縁の下で飼っているニワトリに与えます。ごち
そうにありついたニワトリは、逃げ回るイナゴを口ばしでつついて、美味しそ
うに食べていきます。
時にはこんなこともしました。とっちんばの足を引き抜き、先っちょを持つと
ピクっピクっと動くのが楽しくよく遊びました。
時には、針金にとっちんばを何匹も串刺しにします。ワラの火で炙ってこんが
りと焼けると、醤油をつけておやつです。
昔の子供は、とっちんばをおやつの代わりに食べたんよ。
竹野町切浜海岸 はさかり岩
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平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より
【23】但馬地方で最も古い遺跡である畑ケ平遺跡があるのは、次のうちどこでしょうか。
(a) 朝来市 (b) 養父市 (c) 香美町 d) 新温泉町
畑ケ平遺跡は、2万5千年前の旧石器時代の人が住んでいた痕跡を示すナイフ
形石器が発見された地なんです。但馬では最も古いといわれている遺跡です。
畑ケ平は、扇ノ山(おおぎのせん)の近くの標高1000m付近です。国道9号
線から分かれて、上山高原をずっとずっと先にいったところです。
そう、畑ケ平遺跡は新温泉町の山深いところ、鳥取県境近くの位置にあるのです。
答えは(d)の新温泉町です。
『落穂ひろい』
ケンちゃんケンちゃん、じいちゃんが子供のころね、稲刈りがすんだあとは
落穂ひろいなんよ。バケツを持って小さな落穂も一つずつ、土に埋もれた落穂
も引っこ抜き、「一本あったー」とまるまる一本の落穂に歓声あげて、子供た
ちは落穂ひろいのお手伝いなんよ。
たった60年ほど昔のことですが、田んぼの手入れや米つくりは丁寧だったね。
今のように、草ぼうぼうの田んぼなんて見ようと思ってもなかったね。
日高町上石 国府テラスより眺める
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より
【22】 幕末期は、但馬各地に藩校や私塾が開設されましたが、次の組合せで正
しいのはどれでしょうか。
(a) 豊 岡 藩 - 弘道館 (b) 出 石 藩 - 青谿書院
(c) 池田草庵 - 稽古堂 (d) 村岡山名領 - 明 倫 館
江戸幕末期、但馬の各地でとても教育熱が高まります。藩校や私塾に学ぶ若者
は、尊皇の志士となって尊皇攘夷の動乱に飛び込む者もいます。維新を迎えて、
明治の政界財界で大活躍をする者もいます。
藩校は、豊岡藩に天保4年(1833) 稽古堂(けいこどう:この名で現在も市
役所に残っています)が、出石藩には安永4年(1775)弘道館(こうどうかん)
が、村岡藩には天保3年(1832)明 倫 館が開設されます。
そして、とても有為な人材を多く輩出した私塾・青谿書院(せいけいしょいん)
は、池田草庵が弘化4年(1847年)に八鹿宿南に開設しています。
正しい組み合わせの答えは、村岡山名領 - 明 倫 館となります。
答えは、(d)が正解です。
『明倫舎』
ケンちゃんケンちゃん、ケンちゃんの行ってる保育園って「こくふこども園」て
言うね。昔の幼稚園は「こくふ」とは言わなかったの。府中幼稚園って言ってたの。
「府中」って呼び名はずっとずっと昔から使ってたの、府中小学校って使ってたの。
ところが、府中小学校の学校便りはなぜか「明倫」ってなってるね。国府の村に
は江戸時代には学校がなかったの。明治になってまだ二、三年しかたっていない頃
に、初めて学校ができたんよ。その時の学校の名前が「明倫舎(めいりんしゃ)」
というの。
明治3年に、府中新村の村長だった家を借りて、学校を作ったの。その時の名前
が「明倫舎」と言ったんよ。 学校としては全国的にも早い方で、但馬の中でも一番
古い方なんだよ。月に数回、出石藩の儒者を招いて漢籍の講義、素読、習字を教え
たんだって。そのあと、明治7年に「府中尋常小学校」に衣替えしたの。それから
ずっと140年間、国府の学校は「府中」なんよ。
豊岡市三宅 お菓子の神様中嶋神社
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より
問【20】 江戸時代、但馬の幕府領代官所は、どこにあったでしょうか。
(a) 生野 (b) 出石 (c) 大屋 (d) 村岡
生野は日本有数の銀の産出地でした。織田信長の時代より、豊臣政権、徳川幕
府になっても、時の権力者は直轄地として生野銀山、佐渡金山、石見銀山を天領
統治しました。
徳川幕府は、はじめは生野奉行所を置き、鉱山を御所務山(ごしょむやま)と称
して最重要の直轄鉱山としていました。享保年間(1720年ごろ)には、生野代官
所となり明治維新まで続きます。
幕末の討幕の先駆けとなる生野義挙は、この代官所を占拠する事件だったので
す。江戸幕府領の代官所が置かれたのは生野です。
答えは(a)の生野です。
『よう来んさった』
ケンちゃんケンちゃん、ふるさと但馬の方言って、とっても優しい言葉があるん
よ。お客さまを迎えた時の「よう来んさった」は、《ようこそいらっしゃいませ》
の言葉なんよ。
「遠いところをよう来んさった。まあ~上がっておくれんせえ」、「こんなに暑い
豊岡に、よう来んさった。冷たいビールでも飲みんせえな」、「ボクは早6年生に
なったかえ。夏休みはもうすむかえ、よう来んちゃった、よう来んちゃったね」と
とっても優しい言葉でお客さんを迎えるんよ。
豊岡市立野交差点の花壇
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(3級)問題より
問【19】 豊臣秀吉が天下統一後、但馬の大名配置を決定しましたが、但馬地域を
治めるために形成された城下町は、豊岡、出石、八木ともう一つは、どこでしょうか。
(a) 村岡 (b) 大屋 (c) 竹田 (d) 生野
天正6年、8年の羽柴秀吉、秀長の一次・二次但馬平定後、但馬の大名は四つ
に決まりました。出石に前野長康氏が、木崎(城崎城)改め豊岡に宮部継潤氏、
竹田に赤松広秀氏、八木に別所重宗(重棟)氏が入って、それぞれ城下町の整備
にかかりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのとき、竹田は赤松広秀が西軍に属し鳥取城
下で切腹、八木は後継ぎ別所吉治が丹波北由良に転封、それぞれ藩主がいなくなっ
て、江戸幕府は竹田、八木の廃城を決めます。豊岡藩、出石藩は明治維新まで続き
ます。豊臣政権直後の但馬の大名配置は、出石、豊岡、竹田、八木の4ヵ所。なの
で、答えは(c)の竹田です。
『昔の府中幼稚園』
ケンちゃん、ミオちゃん。昨日はこくふこども園の祖父母参観日だったね。じい
ちゃんもばあちゃんも、ケンちゃんたちの様子を見に行ったね。よかったよ、ステ
ージで歌を唄ったのとっても良かったよ。そして、お昼の給食当番でケンちゃんは
よくテキパキ配ってたね、感心感心凄いわ良かったよ。
こくふこども園の建物は、きれいでよくできてるね。ほんと立派な教室で、いき
いき遊んでいるの見るといいなーと思うわ。
ケンちゃんの遊んでいる教室のあたりは、昔々府中小学校の建物だったんよ。一階
が府中幼稚園の教室、二階は四年生の教室だったね。控え所(体育館の代用)をは
さんで、本館につながってたの。どの教室も、木造の普通の作りで質素なもんだっ
たよ。今のこども園のように、明るく綺麗でピカピカの教室や廊下でなかったな。
70年後の府中の幼稚園、今はこども園っていうハイカラな建物、本当にきれいな
良い所だね。