落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(104)

2013-10-03 10:31:45 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(104)
「畑に伏せられた3000本の桑の苗木が、試練の冬を迎える」




 10月も終りを告げ、11月に入ると朝夕の冷え込みが一段と厳しくなります。
よく晴れて冷え込んだ夜には地上へ降りた水蒸気が、翌朝になるとあたり一面を真っ白に
染め変えていることがあります。冬の到来を告げる初霜の来襲です。
初霜は、山を染めあげた秋の紅葉などと同じように、標高の高いところから気温の下降とともに、
徐々にその高度を下げ、やがて平地一帯へ降りてきます。


 一ノ瀬の大木から切り取られ、康平たちによって畑へ伏せられた
3000本の桑苗も、やがてくる冬を乗り越えるための本格的な真冬用対策に入ります。
上州の真冬は、表で仕事をする人たちにとっては、きわめて過酷な環境を作り出します。
真夏には関東地方での最高気温を、連日にわたって更新をしてきた赤城の山麓周辺は、
真冬を迎えると気候が一転をします。
一日中、それこそ休みなく強烈な季節風が吹き降ろすという、きわめて過酷な
極寒の地に姿を変えてしまいます。


 真冬の平均気温は、8度前後で推移をしていきます。
冬の到来とともに、シベリア大陸からやって来る-30℃から-50℃という強烈な寒気団が、
日本海側へ大量の雪を降らします。
新潟や長野の一帯に豪雪をもたらした大陸からの寒気団は、さらに乾いた冷たい風に変身をして、
日本海と太平洋を隔てている中央分水嶺を、一気に超えて南下をしてきます。
この冷たい風が関東平野に向かって吹きおろし時、名物の『上州のからっ風』にかわります。
電線をもがり笛のように震わせ、細かい砂利まで吹き飛ばしてしまうこの強い北風は、
時として体感気温を、零度以下にまで急降下をさせてしまいます。



 大地を凍て尽くす霜と、体感気温が氷点下にちかくなる環境の中を、
ひたすら耐えぬいていくことが、上州に根付く野菜や植物たちの真冬の使命です。
有機肥料を大量に投与して、来年からの桑苗の作付を予定している康平たちの畑も、
そんな季節を、目と鼻の先に迎えています。
11月のはじめと共に、本格的な畑での農作業が始まります。


 凍てつき始めた大地を何度となく、ロータリーを使って攪拌を繰り返します。
栄養分が下層に固まらないようにするためと、大地へ酸素を送り込むことがその主な目的です。
微生物が棲む有機質の畑は、それ自体がいきものであり、真冬になっても人の手による
キメ細かい管理などを必要とします。



 観賞の菊まつりが山麓の各地で催される頃になると、康平と英太郎の農作業は
ピークを迎ます。連日にわたり寒空の下での細かい作業が続いていきます。
風が吹き始めた畑では、横たえた桑の苗が飛ばされないようにマルチのシートがかけられていきます。
全体を覆い尽くしたあと、一本づつ手作業で小さな穴から苗木を地表へ出していきます。
根の部分だけを寒風から守り、枝の先端部分は、上州の冷たい風にさらす形をつくります。
真冬の寒さに耐えられる強い苗を育てるために、絶対に欠かせない作業のひとつです。


 3000本のすべて対策をすることは、気の遠くなるような地道な作業量になります。
遮る物など一切見当たらない傾斜地での農作業においては、身にしみる寒さは半端ではなく、
まさに、風との我慢比べの様相に変わります。




 「康平はん。桑というのはほんまに強い植物どすな。
 秋の初めに挿した細い枝から、もう小さな根っこが伸び始めました。
 最初は不安でしたが、こんなやり方でも桑の苗は作ることがでけるんどすね・・・・
 正直、桑の生命力には驚きました」


 「お。いつのまにか京都弁が丸出しになってきましたね。
 群馬の風は情け容赦がありませんので、慣れない標準語では我慢が足りません。
 やっぱりそのほうが、英太郎くんらしくていいですね。
 京都弁のほうが、存在感があるから、やっぱり言葉というものは不思議です。
 でも、油断はまったくできません。試練の本番はこれからです。
 年が明けると本格的に冬将軍がやってきますから、凄まじい季節風が吹いてきます。
 大地は凍てつくし、強烈な霜が毎日のように樹木を襲います。
 それに耐えて春に芽をふくものだけが、上州では生き残ることができます。
 徳次郎さんが言うように、3000本のうち、半数がダメになるかもしれません」


 「それほどまでに、上州の冬はきついのどすか?
 もう、充分に強い風が吹いとると思うのどすが、この程度ではきずつないのどすか」


 「よそから来た人たちは、初めて経験をする上州の風に一様に驚きます。
 風の冷たさと強さは、たぶん群を抜くでしょう。
 俺たちは生まれた時からこの風に慣れていますので、どうということはありませんが、
 それでも一年に何度かは厳しさのあまり、風上に向かって目が開けられず、
 背中を向けて歩くこともあります。
 でもそのおかげで、真夏の暑さにも耐え抜ける逞しく強い植物が育ちます」



 「人間も逞しく育ちそうです。
 そうですか。厳しい冬を耐え抜くからこそ、上州の農家は辛抱強いんだっぺ」



 「おっ。今度は、上州弁の使い方も板についてきましたね。
 そうです。べと、だんべを上手に使い分けることが上州弁の基本です。
 今日の予定はクリアしましたので、もう上がりましょう。
 俺も今日は休みですから、久しぶりに五六でも呼んで一杯やりますか?」



 「そうしたいのは、やまやまどすがデザイン仕事の方が遅れています。
 農作業を終えて家に帰ると、ほっとして身体のほうが横になるたがるんどす。
 ちびっとくらいならええやろうと妥協をして、コタツで寝るんどすが、
 たいていは、朝まで気持ちよく眠ってしまいます。
 こんなに身体を使うのも久しぶりどすから、ええ具合に疲れとると思うて。
 でも、そろそろ追い上げないと、ほんまに納期には間に合おりません。
 そっちが片付いたら、一晩中飲みましょう」


 英太郎がほどよく日に焼けた顔に、白い歯を見せて笑っています。
この間の農作業には、なれているはずの康平でさえ身体にきついものが潜んでいます。
作業の量が秋口の頃と同じでも、寒さと吹きつけてくる強風が無用に体力を奪っていきます。
一般的に、真夏の農作業よりも真冬のほうが体力を必要とすると言われています。
寒さで縮む筋肉が、人の心まで早めに疲れさせてしまうのかもしれません・・・・


 英太郎と別れ家路を辿り始めた康平を、赤い軽自動車が後ろから追い越していきます。
(見たことのない車だ。今頃の時間、このあたりを走るなんて、ずいぶんともの好きだな)
あたりを見回しても畑しかない寂しい風景の中で、見慣れない車が来ること自体が珍しい出来事です。
ましてやこの道は、最奥にある徳次郎の屋敷で行き止まりとなる小道です。
赤い軽自動車が、ゆっくりと康平を追い越してから、坂道の途中でゆるやかに停りました。



 「ようやっとお仕事が終わったようどすな。康平くん」


 運転席の窓が開き、そこから現れたのは笑顔を見せる千尋です。
しかし、気がつけば・・・・なぜか千尋までが、京都弁の口調をしています・・・・





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