からっ風と、繭の郷の子守唄(105)
「前橋の市街地を見下ろす、高台にある日帰り温泉施設」
「夏から秋にかけて、たくはん康平はんのスクーターに乗せてもらいました。
でもさすがにこの寒い季節になると、スクーターの2人乗りには無理があります。
前々から考えとったさかい、ついに手に入れました。
群馬は車が無いと、ほんまに不便どす。
これで電車やバスの時間を気にせんと、いつでもどこでも
自由に、出かけられるようになってきました」
野良着から着替えたばかりの康平を、助手席へ乗せた千尋の赤い軽自動車は、
赤城の山麓に沿って、山道をひたすら西へ向かって走りだします。
ぎこちない運転の様子は、ペーパードライバーの期間が長かったためと思われますが、
走るに連れ、やがて少しずつ落ち着きぶりを取り戻します。
「急に懐かしい京都弁などを使い始めたのには、なにか理由がありそうだね。
よかったら聞かせてくれないか。その、本当の意味を」
「あら。君もという表現は、どう聞いても2人称どす。
心当たりがあるのどすか、康平はんには。もうひとり京都弁などでお話しをするお方が」
「君もよく知っているはずだ。心当たりはあるだろう」
「やっぱりね。いつも一緒に仕事をしている相棒は英太郎なのね。
よく似ていると、実は最初から感じていました」
「そうか、気がついていたのか。本人は君にはバレないようにと、必死だったのに」
「過ぎてしもたこととはいえ、いっぺんは将来を誓い合った仲どす。
あんたには不愉快な話でしょうが、なんでかそないなことを思い出したら、封印したはずの
京都弁まで、自然に蘇ってきました」
「本能のなせる所作だと思う。
それに君なら、口調の荒い上州弁などを無理して話すよりも、京都弁の方が
なにやら、はんなりとしていて心地がいい。
君に違和感がないのなら、無理をしないで京都弁のままのほうが、好感が持てる」
「寛大なのね。あんたって。
じゃあ、京都弁のまんまに、あんたに愛をささやこうかしら。
もう、前の男のことなら過ぎ去ったことどすので、すっかりと忘れてしまいましたって」
「無理をしなくてもいいさ。
人には、言えない秘密がひとつやふたつは、きっとある。
ところで、これからいったいどこへ行く予定なの?。行き先のほうが気にかかる」
「高台にある、日帰りの温泉施設まで。
そこからは、渋川市と前橋市の夜景が両方とも遠くに見えるそうどす。
夜景を見ることがでける露天風呂なんて、考えただけでもロマンチックどす」
「へぇ~。どこで仕入れたの、そんなホットな情報を」
「一年間お世話になった徳次郎はんのお宅へお礼の挨拶に行ったら、
完成したばかりの高台の日帰り温泉の泉質が、むちゃええから遊びに行けと勧められました。
こう見えてもあたし、お風呂は超がつくほど大好きなの。
早速、麓にあるホームセンターまで飛んでいって、
二人分の入浴セットなどを、ウキウキとした気分などで買い込んできました」
「ということは、どこかに車を止めて、
俺たちの農作業がおわるのを、延々と待っていたわけだ」
「えええ。また徳次郎はんのお宅へ戻り、コタツでおぶをいただいていました。
表は風が吹いていてむちゃ寒そうなのに、縁ねぎのガラス越しの日差しはむちゃ暖かいし、
徳はんとお婆ちゃんと3人で、思わずお昼寝などをしてしまいました。うふっ」
15分ほど走るとお勧めという、その高台の温泉施設へ到着します。
西を向けば正面には伊香保温泉方面の山々が見え、足元には利根川の流れに寄り添う形で、
渋川市と前橋の市街地が大きく広がっています。
ナトリウムとカルシウムを含む塩化物の地下からの源泉があり、趣が異なるそれぞれの
2つの浴室は、週変わりで男女が入れ替わります。
「夜景がおすすめということどすから、日が暮れてからのお風呂にしましょう。
それまでの時間、すこしお話でもしましょうか。
どこぞ静かな場所はないかしら」
先に立った千尋が、共用の休憩スペースを覗き込んでいます。
客の姿は意外に少なく、大きなガラスに沿って置かれている椅子とテーブルには
空間ばかりがやたらと目立っています。
その先にも部屋の様子が見え一段高くなった床には畳が敷かれ、置かれている座布団と
長机が無人となっている室内で、ひたすら暇などを持て余しています。
「人の姿が少ないようどす。
昼間から夕方へ切り替わるタイミングのせいで、ちょうど途切れとるのかしら。
畳のほうがええでしょう。落ち着くもの」
人目が気にならない、死角のような一角へ千尋が腰を下ろします。
きわめて細長い造りになっている日帰り温泉の建物は、回廊のような廊下に沿って
休憩用のスポットが連なり、その最奥に、浴室と2つの露天風呂の施設が作られています。
懐に伊香保の温泉街を抱いている榛名山が、夕暮れ時の大きな黒い影を
渋川市の街並みの上に、長々と落とし始めてきました。
初冬のこの時期になると、傾きかけた夕日はあっというまに山峰に消えていきます。
山裾から利根川の岸辺まで伸びてきた大きな長い影が、そのまま、夜の闇へと変わります。
点々とはじまっていく足元の明かりが、黒い影に変わってしまった山裾へ向かうにつれ
やがて一面の、見渡すかぎりの光の海へと変化をしていきます。
「すごいわねぇ。あっというまに日暮れから夜にかわってしまいました。
西の方向が榛名そやし、足元に見える半分以上は、渋川の夜景なのかしら・・・・」
長机に頬杖をついたまま、何か別の話題を切り出しそうとしている素振りを、
常に滲ませながら、それでも千尋は、ぼんやりと渋川の夜景を見下ろして続けています。
千尋が切り出してくる話題に、康平もおよその検討はついています。
貞園の過呼吸症騒動から、早くも一ヶ月余りが経過しようとしています。
なんどか顔を合わせ、それなりの時間も過ごしてきたというのに、あれ以来2人のあいだに、
千尋の病気に関する話題は出てきません。
意図的に避けている訳ではないものの、やはり話題にしにくいものが潜んでいます。
(今日がその日かもしれないな・・・)康平も、街の灯を見下ろしながら腹をくくります。
「日も落ちて、ちょうどいい時間になってきたようだ。
露天風呂から、町の灯を見下ろしてゆっくりとお風呂に入るのが楽しみだ。
難しい話は後回しにして、ゆっくり温泉に入ってこようか。
俺はどちらかといえば『カラスの行水』だけど、君はどうなの?長湯のほうかな」
「あきれるほどの長湯どす。
それも。お湯に首までしっかりと浸かって、ひたすら汗をかくまで我慢をするの。
変でしょう。みんなにもよくそう言われています」
「せっかくの、源泉かけ流しの天然温泉だ。
ゆっくりと気が済むまで入ってきてください。俺のことは気にしないで」
「でも悪いわ。待たせすぎてしまっては」
「生ビールでも飲ませてもらいながら、あとは、適当に時間を潰しています。
万が一、酔っ払っいすぎてベロベロになっても、家まで送ってもらえるから安心です」
「わかりました。
あたしも夜景などをじっくりと見つめもって、覚悟を決めてまいります。
でも根っからの意気地なしどすから、すこしばかり、予想外に
余計に、時間がかかるかもしれません・・・・」
暗黙の了解が二人のあいだで、静かに交わされていきます。
覚悟を決めた千尋と、いよいよ来るべき時がきたと腹をくくった康平が、温泉へ入るために、
何故か、ほとんど同時に席を立ちます。
・「新田さらだ館」は、
日本の食と、農業の安心と安全な未来を語るホームページです。
多くの情報とともに、歴史ある郷土の文化と多彩な創作活動も発信します。
詳しくはこちら
「前橋の市街地を見下ろす、高台にある日帰り温泉施設」
「夏から秋にかけて、たくはん康平はんのスクーターに乗せてもらいました。
でもさすがにこの寒い季節になると、スクーターの2人乗りには無理があります。
前々から考えとったさかい、ついに手に入れました。
群馬は車が無いと、ほんまに不便どす。
これで電車やバスの時間を気にせんと、いつでもどこでも
自由に、出かけられるようになってきました」
野良着から着替えたばかりの康平を、助手席へ乗せた千尋の赤い軽自動車は、
赤城の山麓に沿って、山道をひたすら西へ向かって走りだします。
ぎこちない運転の様子は、ペーパードライバーの期間が長かったためと思われますが、
走るに連れ、やがて少しずつ落ち着きぶりを取り戻します。
「急に懐かしい京都弁などを使い始めたのには、なにか理由がありそうだね。
よかったら聞かせてくれないか。その、本当の意味を」
「あら。君もという表現は、どう聞いても2人称どす。
心当たりがあるのどすか、康平はんには。もうひとり京都弁などでお話しをするお方が」
「君もよく知っているはずだ。心当たりはあるだろう」
「やっぱりね。いつも一緒に仕事をしている相棒は英太郎なのね。
よく似ていると、実は最初から感じていました」
「そうか、気がついていたのか。本人は君にはバレないようにと、必死だったのに」
「過ぎてしもたこととはいえ、いっぺんは将来を誓い合った仲どす。
あんたには不愉快な話でしょうが、なんでかそないなことを思い出したら、封印したはずの
京都弁まで、自然に蘇ってきました」
「本能のなせる所作だと思う。
それに君なら、口調の荒い上州弁などを無理して話すよりも、京都弁の方が
なにやら、はんなりとしていて心地がいい。
君に違和感がないのなら、無理をしないで京都弁のままのほうが、好感が持てる」
「寛大なのね。あんたって。
じゃあ、京都弁のまんまに、あんたに愛をささやこうかしら。
もう、前の男のことなら過ぎ去ったことどすので、すっかりと忘れてしまいましたって」
「無理をしなくてもいいさ。
人には、言えない秘密がひとつやふたつは、きっとある。
ところで、これからいったいどこへ行く予定なの?。行き先のほうが気にかかる」
「高台にある、日帰りの温泉施設まで。
そこからは、渋川市と前橋市の夜景が両方とも遠くに見えるそうどす。
夜景を見ることがでける露天風呂なんて、考えただけでもロマンチックどす」
「へぇ~。どこで仕入れたの、そんなホットな情報を」
「一年間お世話になった徳次郎はんのお宅へお礼の挨拶に行ったら、
完成したばかりの高台の日帰り温泉の泉質が、むちゃええから遊びに行けと勧められました。
こう見えてもあたし、お風呂は超がつくほど大好きなの。
早速、麓にあるホームセンターまで飛んでいって、
二人分の入浴セットなどを、ウキウキとした気分などで買い込んできました」
「ということは、どこかに車を止めて、
俺たちの農作業がおわるのを、延々と待っていたわけだ」
「えええ。また徳次郎はんのお宅へ戻り、コタツでおぶをいただいていました。
表は風が吹いていてむちゃ寒そうなのに、縁ねぎのガラス越しの日差しはむちゃ暖かいし、
徳はんとお婆ちゃんと3人で、思わずお昼寝などをしてしまいました。うふっ」
15分ほど走るとお勧めという、その高台の温泉施設へ到着します。
西を向けば正面には伊香保温泉方面の山々が見え、足元には利根川の流れに寄り添う形で、
渋川市と前橋の市街地が大きく広がっています。
ナトリウムとカルシウムを含む塩化物の地下からの源泉があり、趣が異なるそれぞれの
2つの浴室は、週変わりで男女が入れ替わります。
「夜景がおすすめということどすから、日が暮れてからのお風呂にしましょう。
それまでの時間、すこしお話でもしましょうか。
どこぞ静かな場所はないかしら」
先に立った千尋が、共用の休憩スペースを覗き込んでいます。
客の姿は意外に少なく、大きなガラスに沿って置かれている椅子とテーブルには
空間ばかりがやたらと目立っています。
その先にも部屋の様子が見え一段高くなった床には畳が敷かれ、置かれている座布団と
長机が無人となっている室内で、ひたすら暇などを持て余しています。
「人の姿が少ないようどす。
昼間から夕方へ切り替わるタイミングのせいで、ちょうど途切れとるのかしら。
畳のほうがええでしょう。落ち着くもの」
人目が気にならない、死角のような一角へ千尋が腰を下ろします。
きわめて細長い造りになっている日帰り温泉の建物は、回廊のような廊下に沿って
休憩用のスポットが連なり、その最奥に、浴室と2つの露天風呂の施設が作られています。
懐に伊香保の温泉街を抱いている榛名山が、夕暮れ時の大きな黒い影を
渋川市の街並みの上に、長々と落とし始めてきました。
初冬のこの時期になると、傾きかけた夕日はあっというまに山峰に消えていきます。
山裾から利根川の岸辺まで伸びてきた大きな長い影が、そのまま、夜の闇へと変わります。
点々とはじまっていく足元の明かりが、黒い影に変わってしまった山裾へ向かうにつれ
やがて一面の、見渡すかぎりの光の海へと変化をしていきます。
「すごいわねぇ。あっというまに日暮れから夜にかわってしまいました。
西の方向が榛名そやし、足元に見える半分以上は、渋川の夜景なのかしら・・・・」
長机に頬杖をついたまま、何か別の話題を切り出しそうとしている素振りを、
常に滲ませながら、それでも千尋は、ぼんやりと渋川の夜景を見下ろして続けています。
千尋が切り出してくる話題に、康平もおよその検討はついています。
貞園の過呼吸症騒動から、早くも一ヶ月余りが経過しようとしています。
なんどか顔を合わせ、それなりの時間も過ごしてきたというのに、あれ以来2人のあいだに、
千尋の病気に関する話題は出てきません。
意図的に避けている訳ではないものの、やはり話題にしにくいものが潜んでいます。
(今日がその日かもしれないな・・・)康平も、街の灯を見下ろしながら腹をくくります。
「日も落ちて、ちょうどいい時間になってきたようだ。
露天風呂から、町の灯を見下ろしてゆっくりとお風呂に入るのが楽しみだ。
難しい話は後回しにして、ゆっくり温泉に入ってこようか。
俺はどちらかといえば『カラスの行水』だけど、君はどうなの?長湯のほうかな」
「あきれるほどの長湯どす。
それも。お湯に首までしっかりと浸かって、ひたすら汗をかくまで我慢をするの。
変でしょう。みんなにもよくそう言われています」
「せっかくの、源泉かけ流しの天然温泉だ。
ゆっくりと気が済むまで入ってきてください。俺のことは気にしないで」
「でも悪いわ。待たせすぎてしまっては」
「生ビールでも飲ませてもらいながら、あとは、適当に時間を潰しています。
万が一、酔っ払っいすぎてベロベロになっても、家まで送ってもらえるから安心です」
「わかりました。
あたしも夜景などをじっくりと見つめもって、覚悟を決めてまいります。
でも根っからの意気地なしどすから、すこしばかり、予想外に
余計に、時間がかかるかもしれません・・・・」
暗黙の了解が二人のあいだで、静かに交わされていきます。
覚悟を決めた千尋と、いよいよ来るべき時がきたと腹をくくった康平が、温泉へ入るために、
何故か、ほとんど同時に席を立ちます。
・「新田さらだ館」は、
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