落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(108) 

2013-10-07 11:10:00 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(108)  
「群馬へやって来た千尋の新しい夢と、未だに残る淡い恋」




 「恥ずかしがることはおまへんと、女医の先生がおせてくれました。
 大切な自分の身体を守るために、これから自身の病気と向き合うのそやし、
 どんな些細なことでもメモをして、記録に残しておきなさいと、
 治療に当たっての指導を受けました。
 子宮を摘出したことであたしの病気が終わった訳ではおまへん。
 日頃からの注意深い観察と、定期な検査はず~と続きます。
 子供を産めへん女として、新しい人生と生き方の模索がいつのまにか始まりました。
 彼のアパートへ通うことを減らし、会うことも次第に拒み始め、
 ちびっとずつどすが、お互いの距離をつくることにしました。
 子供を産める体でなくなってしもたということが、あたしが決めた、彼と別れる理由どす。
 彼からのアプローチを何度も断って、あたしは京都以外で生きることを決めました。
 そないな時期に手にしたのがインド旅行での柔らかい絹と、黄八丈の暖かく手触りのええ
 絹糸の世界どした。
 まだそないな生き方が残っとったことを知り、第2の出発点としてこの群馬を選び、
 終生の仕事として、あたしは座ぐり糸作家として生きることをきめました」


 沈黙が訪れると、車内には温風の吹き出し音だけが響いてきます。
かすかに開けらている助手席の窓からは、深々と更けていく山の夜気が、時々風にあおられ、
思い出したように、まとめて流れ込んできます。



 「その栄太郎さんが、最近になってこの群馬に現れました。
 いまは俺とふたりで、畑の5反分、3000本の桑の苗を、いちから育てはじめています。
 すべては、あなたの役に立ちたいという、その一心からの行動だと思います」



 「それも承知をしています。
 遠くからどすが、何度も彼の姿は拝見しています。
 女というものはいっぺん終わったことに対して、さほどの未練は持ちません。
 忘れてしもたわけではおまへんが、英太郎はんは過去の男のひとりになってました。
 いまのあたしの心の中にいるのは、たったひとりの男性だけどす。
 あたしはまた、同じ過ちを繰り返すかもしれませんので、そうなる前にこうしてすべてを
 あんたに、さらけ出してお見せしました。
 あんたに、むちゃ残酷な選択を迫っとるちびっと卑怯な女どす。あたしは。
 この先もあたしとお付き合いをしてくれるのであれば、子供は諦めてくださいと
 あんたに、あらためてお願いをせななってません。
 重大なことになってますが、どうにもならへん、それがあたしの事実どす」


 「あなたの気持ちに応えるためにも、俺も、真実を言う必要がある。
 会うたびに好きになり、今のあなたに心から惹かれていることは、まぎれもない事実です。
 しかしその気持ちとは裏腹に、俺には2つのわだかまりが潜んでいます。
 ひとつは、突然現れた英太郎くんへの遠慮です。
 彼は今、ウェブデザイナーと農業という2足のわらじを同時に履きながら、
 あなたのために、無償の愛で、桑畑を作り上げようとしています。
 その熱意や気持ちがどこから生まれて来るのか、俺にもおおよその見当はついています。
 おそらく、あなたと修復をするために、彼は多くの時間を費やしてきたと思います。
 京都を離れるための条件を整えてから、あなたの役に立つために群馬へやってきました。
 そんな彼とコンビを組み、いつのまにか俺までが桑の苗を育てています。
 漠然とですが俺がいま真剣になって桑を育てている意味は、もうひとりの女性のためだと
 なんとなくですが、最近になって、なぜか気づき始めました」



 「ふふふ。2人の男が、2人の女のために必死になって桑を育てはじめたわけどすなぁ。
 京都からやって来た英太郎は、あたしのために桑の苗を育て、
 康平はんは、昔から大好きやった美和子のために桑苗を育てておるんどすなぁ」


 「どうして、そのことを?」


 「先日のことどすが、入院中の貞ちゃんからたっぷりと告白をされました。
 あれほどまで慕っとる貞ちゃんなのに、あんたときたら一切受け入れず、
 あげくに可愛い妹にされてしもたと、可哀想に貞ちゃんは一晩中泣いておりました。
 でも、どうしましょう、この先のあたしたちは。
 あたしたちの前途には、どちらを見ても、難問ばかりが横たわっています。
 こんな厄介すぎる訳ありの女は嫌いだと、放り出されてもあたしは文句を言おりません。
 でも、ちびっとでもチャンスと呼べるものがあるのなら、あんたの心の中から
 美和子を完全に追い出すまで、あたしはあんたと交際したいと、心のそこから願っています。
 かなんわぁ・・・・まいったなぁ。
 ついに全部を、自分から告白をしてしまいました。
 あんたが悪いのよ。こんな素敵な夜景のロケーションなんか用意するさかいに、
 雰囲気に騙されて、ペラペラと全部しゃべってしまいました。
 でも、・・・・決してそれだけではおまへん。
 超えなければならへん最初のハードルどすので、曖昧にしたくないのどす。
 ようやっとのことで、あんたにすべてを話せる勇気が生まれてきました。
 嫌われるのは覚悟の上で、深い関係になるまえに、今の自分をすべて正直にさらけだそうと
 実は、お付き合いをはじめた最初の頃から心に決めておりました。
 ごめんなさい。計算たこおして、ずる過ぎる女で・・・・」


 「卑下することはありません。
 それ以上に、言いにくいことを正面から語ってくれたあなたの勇気に、心から敬服をします。
 ここに置いてある『タッチ』のCDで思い出したけど、
 『敬遠は一度覚えるとクセになりそうで』という、あの上杉達也のセリフそのものです」


 「あっ、それ。いったいいつの間に!」


 「あなたが告白をしているあいだ中、探していたら何故かふと手に当たりました。
 不謹慎ですが、ドキドキしながら聞いていたもので、手が思わず暴走をしてしまいました。
 これを事前に聞いていたということは、最初から、今日が、
 その日だったというわけですね」

 「大好きなんどす。『タッチ』は。
 『そうだよ。ここで逃げたらクセになる!』と、どなたかが言うとったように、
 告白を先にのばして逃げようとしとる自分を、踏みとどまらせるために役に立ちました。
 告白の前に腹をくくるのに、むちゃ効果的なセリフどす」


 「『おい、バカ!』『なぜ新田と勝負をした。』『敬遠は一度覚えるとクセになりそうで。』
 新田明男に1点リードされる、完璧なホームランを打たれた直後のベンチのシーンです。
 たしか、高校野球漫画『タッチ』の、大好きなクライマックスシーンのひとつです」


 「よく知ってるわねぇ。あんたも『タッチ』のファンの一人なん?」


 「ラブコメディに、野球などのスポーツを絡めた青春ものを得意とする、
 あだつ充は群馬県の伊勢崎市の生まれで、野球の強豪、前橋商業高校の出身です。
 『上杉達也は、浅倉南を愛しています。世界中のだれよりも!!。』
 『ここから始めなきゃ、やっぱりどこにも動けねえみたいだ。』
 という、上杉達也と浅倉南のクライマックスシーンも、やっぱり心に滲みて素敵でした」

 「ええわねぇ。南が『千尋』に変わっとったら、もっと素敵やったのに・・・・」


 「あっ。まずい、絶好球を見送っちまった!」

「大丈夫どす、まだワンストライク目どす。チャンスはあと2度も残っています」



 
 
  呼吸を止めて1秒 あなた真剣な目をしたから
  そこから何も聞けなくなるの 星屑ロンリネス
  きっと愛する人を大切にして 知らずに臆病なのね
  落ちた涙も 見ないフリ

  すれちがいや まわり道を
  あと何回過ぎたら 2人はふれあうの
  お願い タッチ タッチ ここにタッチ あなたから
  手をのばして 受けとってよ
  ためいきの花だけ 束ねたブーケ

  愛さなければ 淋しさなんて 知らずに過ぎて行くのに
  そっと悲しみに こんにちわ
 
 テレビアニメ「タッチ」オープニング主題歌
      歌:岩崎良美  作詞:康珍化、作曲・編曲:芹澤廣明






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