つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(17)あれから40年
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「毒舌漫談家の綾小路きみまろじゃないけど、あれから40年。
ふふふ・・・あたしたちも、ずいぶんと、歳をとりましたねぇ」
「まったくだ。
今から思うと、18歳の時の君の訪問着姿は、涙が出るほど初々しかった」
「あら。どうせもうわたしは、散る寸前の姥(うば)桜です」
「そういう意味じゃない。君はまだ、充分に美しい・・・と、俺は思う」
夕食を終えた勇作が、柱時計の時刻を見上げる。
針は、午後8時45分を指している。
この時間になると勇作は、決まってすずの家を出る。
公園通りに停めてある軽のキャンピングカーへ、戻っていくためだ。
「誰も居ない家だもの。遠慮しないで泊まっていけばいいのに。
ご飯だけ食べて、さっさと車へ帰っていくなんて、
あなたは私のいったい何なのさ」
「58年来の、幼なじみだろう。
18歳のあの日。君がキスに応えてくれていれば、
俺たちの人生はたぶん違っていた。
鴨川の川辺を散歩したあの時。
無理やりにでも、キスすればよかったな、俺たちは」
「無理を言わないで。門限は9時だったのよ。
キスなんかしたら私の気持ちに火が点いて、朝になっても寮へ帰れません。
あの時、小袖ではなく訪問着を着せたのには、実は意味が有ったそうです」
「先輩たちの悪知恵だろう?」
「そうよ。ゆるりと着る小袖なら、多少は着崩れても気になりません。
でも、しっかりと着付けた訪問着ではそういう訳にいきません。
帯と紐で、幾重にも純潔が守られています。
脱がせることはできても、お互いに素人では、着付けることができません。
大切な純潔を守るのにはこれが一番だと、先輩たちが笑っていました」
すずが、40年も前の思い出話を口にする。
3年ぶりに再会した幼なじみの2人は、加茂川のほとりをゆっくりと散策する。
歩きにくそうなすずをかばって、勇作がことさらゆっくりと足を運んでいく。
何事も起こらず、門限の間に合う午後9時前に2人は京都駅で別れる。
訪問着姿のすずが見送る中。
新幹線はあっというまに発車して、勇作を東京へ連れ去っていく。
(勇作を見送るのは、これで2度目です。
1度目は上京していくときの福井駅。2度目の今日は、京都駅の新幹線。
もしかしたらウチの人生は、こんな風にして、ただ勇作の背中を、
見送るだけで終わるかもしれません・・・)
すずの予感が、的中をする。
その後も2人の関係は進展をしない。
着かず離れずの膠着状態が、その後、なん年も続いていく。
和裁塾の5年間を終えたすずは、アパートを借り、そのまま京都に住み着く。
福井へ帰っても、和裁の仕事が少ないためだ。
そのことを知ったすずが、福井へ帰る気力を失う。
勇作も東京の羽村工場から、新しく完成した群馬工場へ移動を命じられる。
2人の仲が、自然消滅の気配を見せてきたころ。
25歳になったすずが、はじめて別の男性に心を惹かれる。
(勇作に申し訳ないけど・・・)と思いつつ、あたらしい交際が深みにはまっていく。
相手は、繊維業界を駆けまわる営業マンだ。
滑らかな口調とくったくのない笑顔に、いつの間にかすずが引き寄せられていく。
25歳の秋。押し切られた形で、すずが結婚に同意する。
だがあれほどまで優しかった男が、結婚を契機ににわかな豹変を見せる。
働きもせず、ギャンブルに溺れるための借金を繰り返す。
酔うと暴力をふるいはじめる。
最初からすずの高収入を当てにしていただけと判明するが、すでに遅かった。
すず腹の中には、すでに一人娘の美穂が宿っていた。
(18)へつづく
つわものたち、第一部はこちら
(17)あれから40年
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「毒舌漫談家の綾小路きみまろじゃないけど、あれから40年。
ふふふ・・・あたしたちも、ずいぶんと、歳をとりましたねぇ」
「まったくだ。
今から思うと、18歳の時の君の訪問着姿は、涙が出るほど初々しかった」
「あら。どうせもうわたしは、散る寸前の姥(うば)桜です」
「そういう意味じゃない。君はまだ、充分に美しい・・・と、俺は思う」
夕食を終えた勇作が、柱時計の時刻を見上げる。
針は、午後8時45分を指している。
この時間になると勇作は、決まってすずの家を出る。
公園通りに停めてある軽のキャンピングカーへ、戻っていくためだ。
「誰も居ない家だもの。遠慮しないで泊まっていけばいいのに。
ご飯だけ食べて、さっさと車へ帰っていくなんて、
あなたは私のいったい何なのさ」
「58年来の、幼なじみだろう。
18歳のあの日。君がキスに応えてくれていれば、
俺たちの人生はたぶん違っていた。
鴨川の川辺を散歩したあの時。
無理やりにでも、キスすればよかったな、俺たちは」
「無理を言わないで。門限は9時だったのよ。
キスなんかしたら私の気持ちに火が点いて、朝になっても寮へ帰れません。
あの時、小袖ではなく訪問着を着せたのには、実は意味が有ったそうです」
「先輩たちの悪知恵だろう?」
「そうよ。ゆるりと着る小袖なら、多少は着崩れても気になりません。
でも、しっかりと着付けた訪問着ではそういう訳にいきません。
帯と紐で、幾重にも純潔が守られています。
脱がせることはできても、お互いに素人では、着付けることができません。
大切な純潔を守るのにはこれが一番だと、先輩たちが笑っていました」
すずが、40年も前の思い出話を口にする。
3年ぶりに再会した幼なじみの2人は、加茂川のほとりをゆっくりと散策する。
歩きにくそうなすずをかばって、勇作がことさらゆっくりと足を運んでいく。
何事も起こらず、門限の間に合う午後9時前に2人は京都駅で別れる。
訪問着姿のすずが見送る中。
新幹線はあっというまに発車して、勇作を東京へ連れ去っていく。
(勇作を見送るのは、これで2度目です。
1度目は上京していくときの福井駅。2度目の今日は、京都駅の新幹線。
もしかしたらウチの人生は、こんな風にして、ただ勇作の背中を、
見送るだけで終わるかもしれません・・・)
すずの予感が、的中をする。
その後も2人の関係は進展をしない。
着かず離れずの膠着状態が、その後、なん年も続いていく。
和裁塾の5年間を終えたすずは、アパートを借り、そのまま京都に住み着く。
福井へ帰っても、和裁の仕事が少ないためだ。
そのことを知ったすずが、福井へ帰る気力を失う。
勇作も東京の羽村工場から、新しく完成した群馬工場へ移動を命じられる。
2人の仲が、自然消滅の気配を見せてきたころ。
25歳になったすずが、はじめて別の男性に心を惹かれる。
(勇作に申し訳ないけど・・・)と思いつつ、あたらしい交際が深みにはまっていく。
相手は、繊維業界を駆けまわる営業マンだ。
滑らかな口調とくったくのない笑顔に、いつの間にかすずが引き寄せられていく。
25歳の秋。押し切られた形で、すずが結婚に同意する。
だがあれほどまで優しかった男が、結婚を契機ににわかな豹変を見せる。
働きもせず、ギャンブルに溺れるための借金を繰り返す。
酔うと暴力をふるいはじめる。
最初からすずの高収入を当てにしていただけと判明するが、すでに遅かった。
すず腹の中には、すでに一人娘の美穂が宿っていた。
(18)へつづく
つわものたち、第一部はこちら