つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(18)女医への道
すずの一人娘、美穂は、今年で32歳になる。
外科の女医を目指して、奮闘している最中だ。
女医をめざしたきっかけは、12歳の時に出会った1冊の小説だ。
渡辺淳一が書いた「花埋み」。
明治時代を生きぬいた女医、荻野吟子の生涯を描いた作品だ。
荻野吟子は、日本が初めて認めた女医の開業医。
この本と出会ったことがやがて美穂を、医学の世界へ向かわせることになる。
嘉永4年(1851年)。荻野吟子は、現在の熊谷市・俵瀬で生まれる。
荻野家は苗字帯刀を許され、代々庄屋をつとめてきた名家だ。
屋敷には、大きな長屋門が有ったという。
吟子が10歳の春。江戸城で桜田門外の変が発生する。
世相が大きく変わりはじめた時代を、吟子がドラマチックに生きていく。
18歳になった夏。周囲から玉の輿(こし)と羨(うらや)ましがられ、
秩父郡・川上村の名主のもとへ嫁いでいく。
結婚後、すぐに体調を崩す。やがて性病を患い、2年後に実家へ帰って来る。
明治3年(1870)。性病治療のために順天堂病院に入院する。
1年あまりの治療を終えて、翌年退院する。
彼女はこの時、こころにあまりに深い傷を負う。
治療にあたった担当医が男性だったため、激しい羞恥を体験する。
このときの体験が、女医になるきっかけを生む。
これから先の日本には女医が必要だと考えて、医学の道をこころざす。
医学校「好寿院」に入り、医学を学びはじめる。
男尊女卑の偏見の中、 男子学生をはるかにしのぐ成績で医学を習得する。
明治15年(1882)抜群の成績で「好寿院」を卒業。このとき吟子、32歳。
医師になることを決めた美穂は、中学時代をひたすらの猛勉強で明け暮れる。
一人前の医者になるためには、10年から15年かかる。
大学で6年間、医学について学ぶ。
卒業と同時に、本物の医者になるための2年間の研修医制度が待っている。
研修医とは読んで字のごとく、一人前の医師になるため研修を受ける医師のことだ。
医学部を卒業し、2年間の研修を受ける医師を初期研修医。
その後、専門的な科目において研修を受ける医師を、後期研修医と呼ぶ。
研修医たちは、「レジデント」と呼ばれる。
訳すと、「居住すること。住み込む」という意味になる。
住み込んだままは働きながら、医師としての素養を身に付けるという意味になる。
研修医はとにかく忙しい、というイメージが有る。
だが現実は、想像以上に過酷なものだ。
研修医の朝は早い。先輩医師より早く来て、病棟を見て回る。
その後、カンファレンス(症例検討会)に出席し、チームで病棟を回診する。
カルテを書き、外来を見学し、勉強会に顔を出す・・・などなど、
一日が目まぐるしく、あっという間に過ぎていく。
朝から晩までの通常勤務とは別に、研修医たちに平等に与えられるのが
当直業務の割り当てだ。
少なくとも週1回、当直をしなければならない。
病院と診療科により、中には週2回以上の当直業務が有るという。
過酷な実態と長時間にわたる労働が、研修医のやる気と若い体力を削っていく。
研修医のうちの約3割が、うつ状態に陥ると言われている。
バーンアウトで燃え尽きていく研修医たちが、水面下にはたくさんいる。
前期と後期で5年あまりの研修医を終えた美穂が、市内の病院へやって来た。
月に1度だけ。すずの様子を見るために実家へ戻って来る。
研修医が終えたとはいえ、医師が不足している病院での仕事は多忙を極める。
「もともとが、試練の道ですから」と、美穂は屈託なく笑う。
「わたしだって、辞めてしまおうかしらと、最初の2年間は何度も悩みました。
でも、自分でやり遂げると決めた医師の道です。
途中で投げ出しているようでは、支えてくれた母さんに申し開きが出来ません。
とはいえ私はまだまだ道半ば。いまだに半人前の女医なんです、わたしは」
と美穂が赤い舌を出す。
「当分のあいだ、お嫁には行けません。お母さんにはお気の毒ですが」
と、いつものように付け加える。
「誰に似たんだろうねぇ、あんたのその我儘な生き方は」と横槍を入れるすずに、
「高校を1年で中退して、和裁の世界へ飛び込んだ誰かさんと一緒です」
と、これまた慣れた口調で切り返す。
(19)へつづく
つわものたち、第一部はこちら
(18)女医への道
すずの一人娘、美穂は、今年で32歳になる。
外科の女医を目指して、奮闘している最中だ。
女医をめざしたきっかけは、12歳の時に出会った1冊の小説だ。
渡辺淳一が書いた「花埋み」。
明治時代を生きぬいた女医、荻野吟子の生涯を描いた作品だ。
荻野吟子は、日本が初めて認めた女医の開業医。
この本と出会ったことがやがて美穂を、医学の世界へ向かわせることになる。
嘉永4年(1851年)。荻野吟子は、現在の熊谷市・俵瀬で生まれる。
荻野家は苗字帯刀を許され、代々庄屋をつとめてきた名家だ。
屋敷には、大きな長屋門が有ったという。
吟子が10歳の春。江戸城で桜田門外の変が発生する。
世相が大きく変わりはじめた時代を、吟子がドラマチックに生きていく。
18歳になった夏。周囲から玉の輿(こし)と羨(うらや)ましがられ、
秩父郡・川上村の名主のもとへ嫁いでいく。
結婚後、すぐに体調を崩す。やがて性病を患い、2年後に実家へ帰って来る。
明治3年(1870)。性病治療のために順天堂病院に入院する。
1年あまりの治療を終えて、翌年退院する。
彼女はこの時、こころにあまりに深い傷を負う。
治療にあたった担当医が男性だったため、激しい羞恥を体験する。
このときの体験が、女医になるきっかけを生む。
これから先の日本には女医が必要だと考えて、医学の道をこころざす。
医学校「好寿院」に入り、医学を学びはじめる。
男尊女卑の偏見の中、 男子学生をはるかにしのぐ成績で医学を習得する。
明治15年(1882)抜群の成績で「好寿院」を卒業。このとき吟子、32歳。
医師になることを決めた美穂は、中学時代をひたすらの猛勉強で明け暮れる。
一人前の医者になるためには、10年から15年かかる。
大学で6年間、医学について学ぶ。
卒業と同時に、本物の医者になるための2年間の研修医制度が待っている。
研修医とは読んで字のごとく、一人前の医師になるため研修を受ける医師のことだ。
医学部を卒業し、2年間の研修を受ける医師を初期研修医。
その後、専門的な科目において研修を受ける医師を、後期研修医と呼ぶ。
研修医たちは、「レジデント」と呼ばれる。
訳すと、「居住すること。住み込む」という意味になる。
住み込んだままは働きながら、医師としての素養を身に付けるという意味になる。
研修医はとにかく忙しい、というイメージが有る。
だが現実は、想像以上に過酷なものだ。
研修医の朝は早い。先輩医師より早く来て、病棟を見て回る。
その後、カンファレンス(症例検討会)に出席し、チームで病棟を回診する。
カルテを書き、外来を見学し、勉強会に顔を出す・・・などなど、
一日が目まぐるしく、あっという間に過ぎていく。
朝から晩までの通常勤務とは別に、研修医たちに平等に与えられるのが
当直業務の割り当てだ。
少なくとも週1回、当直をしなければならない。
病院と診療科により、中には週2回以上の当直業務が有るという。
過酷な実態と長時間にわたる労働が、研修医のやる気と若い体力を削っていく。
研修医のうちの約3割が、うつ状態に陥ると言われている。
バーンアウトで燃え尽きていく研修医たちが、水面下にはたくさんいる。
前期と後期で5年あまりの研修医を終えた美穂が、市内の病院へやって来た。
月に1度だけ。すずの様子を見るために実家へ戻って来る。
研修医が終えたとはいえ、医師が不足している病院での仕事は多忙を極める。
「もともとが、試練の道ですから」と、美穂は屈託なく笑う。
「わたしだって、辞めてしまおうかしらと、最初の2年間は何度も悩みました。
でも、自分でやり遂げると決めた医師の道です。
途中で投げ出しているようでは、支えてくれた母さんに申し開きが出来ません。
とはいえ私はまだまだ道半ば。いまだに半人前の女医なんです、わたしは」
と美穂が赤い舌を出す。
「当分のあいだ、お嫁には行けません。お母さんにはお気の毒ですが」
と、いつものように付け加える。
「誰に似たんだろうねぇ、あんたのその我儘な生き方は」と横槍を入れるすずに、
「高校を1年で中退して、和裁の世界へ飛び込んだ誰かさんと一緒です」
と、これまた慣れた口調で切り返す。
(19)へつづく
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