落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ   (19)3ボール、2ストライク

2015-04-21 10:56:35 | 現代小説

つわものたちの夢の跡・Ⅱ
 
(19)3ボール、2ストライク 





 帰省の予定日ではないが、突然、一人娘の美穂が帰って来た。
『ボロ雑巾状態での帰宅で~す』と、玄関から大きな溜息が聞こえてくる。
『どうしたの、突然に』慌ててすずが玄関へ飛んでいく
『何でもない。いつものように病院で、まる2昼夜こき使われただけ』美穂が、
憮然とした声で答える。


 炬燵でミカンをつまんでいた勇作が、思わず手を停める。
玄関で交わす2人の声に、聞き耳をたてる。
『あら。聞こえちゃったかしら・・・いつものわたしのつまらない愚痴が・・・』
えへへと笑いながら、美穂が障子から顔を出す。



 「大変だねぇ。女医さんという仕事も・・・」


 「当直で患者さんが途切れず、一睡もできなかったの。
 でも、そのくらいの事はよくあることだから、慣れっこです。
 でもね。その後の展開が不運でした。
 朝から膵頭(すいとう)十二指腸切除術(手術時間は、6~10時間くらい)に
 引っ張り出され、そのままオペ室へ入りました。
 21時に手術が終わり、やっとのことで帰れる~と思ったら、今度は
 腸管破裂の緊急手術が入り、そのまま日付を越えちゃいました。
 自分でもオペ室の中で、何をしていたのか、ほとんど覚えていません。
 気力だけで、立っていましたから・・・」



 「だから言ったでしょ。いい加減で男を見つけて結婚しなさいって。
 あれが嫌だ、これが嫌だと文句をつけて、贅沢ばかりを言うから行き遅れるのよ。
 30をとうに過ぎたのよ。いい加減で私に孫の顔を見せて頂戴」



 「お母さんのいい分も分かるけど、女医にとって、結婚のタイミングは難しいの。
 女医の婚期は大きく分けて3つあると、先輩が言っていたけど本当ですね。
 行遅れた私が言うんだもの、やっぱりあれは事実です。
 1度目は、医学部を卒業した時。
 2度目は研修医を修了した時で、3度目は、専門医の資格を取得した時。
 このタイミングで結婚できないと、やっぱり婚期のタイミングを失います」



 「3度目も見逃したとすると、フルカウントの2ストライク、3ボールだね。
 次の絶好球は、絶対にバットを振りたいね。
 振ればあたる可能性もあるし、もしかしたら、満塁ホームランになる可能性もある」



 「優しく励ましてくれるのは、おじ様だけです。
 でも、切羽詰まった状況の事を昔は2ストライク、3ボールと言いましたが、
 いまは野球もソフトも世界基準に合わせて、3ボール、2ストライクと言うそうです。
 うふふ。口答えをしている女は、可愛くないですね。
 ひとこと多い女はやっぱり、殿方からは、敬遠されるようです・・・」


 「そんなことは無いさ。君はお母さんに似て、チャーミングだ。
 男たちの側に見る目が無いんだろう。
 こんな美人を放っておくなんて、福井の男たちは欲が無さ過ぎる」



 「うふふ。そんな風に慰めてくれるのは、やっぱりオジ様だけです。
 歳の若い女医は、経験不足の甘ちゃんだろうと、患者さんから軽く見られます。
 逆に30過ぎれば、早く嫁に行けと、今度は後ろ指を指されます」


 「居ないのかい本当に。君には、いい人が・・・」



 「居るには居るけど、私自身が、いまさら恋にときめこうという気分にならないの。
 毎日が忙しすぎるせいかしら。
 女の顏が、なかなかわたしの表面に登場してくれないのよ」



 「困ったね、それは」


 「それだけじゃないの。
 言い訳がましくなるけど、実は、母の事で気になる症状が有るのよ。
 ホントはそっちのほうが、気がかりなんだ・・・」


 すずが席を立った瞬間。美穂が声を潜めて、小さな声で勇作の耳にささやく。
『気になっている症状?、なんだい、気になっている症状って・・・』
勇作の問いかけに、美穂が、『しぃっ、あとで内緒でお話しします。
母には聞かれたくない話なので・・・』と何故か1段階、声のトーンを落とす。


(20)へつづく



 つわものたち、第一部はこちら
 

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (18)女医への道

2015-04-18 11:41:32 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(18)女医への道




 すずの一人娘、美穂は、今年で32歳になる。
外科の女医を目指して、奮闘している最中だ。


 女医をめざしたきっかけは、12歳の時に出会った1冊の小説だ。
渡辺淳一が書いた「花埋み」。
明治時代を生きぬいた女医、荻野吟子の生涯を描いた作品だ。
荻野吟子は、日本が初めて認めた女医の開業医。
この本と出会ったことがやがて美穂を、医学の世界へ向かわせることになる。


 嘉永4年(1851年)。荻野吟子は、現在の熊谷市・俵瀬で生まれる。
荻野家は苗字帯刀を許され、代々庄屋をつとめてきた名家だ。
屋敷には、大きな長屋門が有ったという。
吟子が10歳の春。江戸城で桜田門外の変が発生する。
世相が大きく変わりはじめた時代を、吟子がドラマチックに生きていく。



18歳になった夏。周囲から玉の輿(こし)と羨(うらや)ましがられ、
秩父郡・川上村の名主のもとへ嫁いでいく。
結婚後、すぐに体調を崩す。やがて性病を患い、2年後に実家へ帰って来る。



 明治3年(1870)。性病治療のために順天堂病院に入院する。
1年あまりの治療を終えて、翌年退院する。
彼女はこの時、こころにあまりに深い傷を負う。
治療にあたった担当医が男性だったため、激しい羞恥を体験する。
このときの体験が、女医になるきっかけを生む。
これから先の日本には女医が必要だと考えて、医学の道をこころざす。
医学校「好寿院」に入り、医学を学びはじめる。
男尊女卑の偏見の中、 男子学生をはるかにしのぐ成績で医学を習得する。
明治15年(1882)抜群の成績で「好寿院」を卒業。このとき吟子、32歳。


 医師になることを決めた美穂は、中学時代をひたすらの猛勉強で明け暮れる。
一人前の医者になるためには、10年から15年かかる。
大学で6年間、医学について学ぶ。
卒業と同時に、本物の医者になるための2年間の研修医制度が待っている。
研修医とは読んで字のごとく、一人前の医師になるため研修を受ける医師のことだ。
医学部を卒業し、2年間の研修を受ける医師を初期研修医。
その後、専門的な科目において研修を受ける医師を、後期研修医と呼ぶ。


 研修医たちは、「レジデント」と呼ばれる。
訳すと、「居住すること。住み込む」という意味になる。
住み込んだままは働きながら、医師としての素養を身に付けるという意味になる。
研修医はとにかく忙しい、というイメージが有る。
だが現実は、想像以上に過酷なものだ。



 研修医の朝は早い。先輩医師より早く来て、病棟を見て回る。
その後、カンファレンス(症例検討会)に出席し、チームで病棟を回診する。
カルテを書き、外来を見学し、勉強会に顔を出す・・・などなど、
一日が目まぐるしく、あっという間に過ぎていく。


 朝から晩までの通常勤務とは別に、研修医たちに平等に与えられるのが
当直業務の割り当てだ。
少なくとも週1回、当直をしなければならない。
病院と診療科により、中には週2回以上の当直業務が有るという。
過酷な実態と長時間にわたる労働が、研修医のやる気と若い体力を削っていく。
研修医のうちの約3割が、うつ状態に陥ると言われている。
バーンアウトで燃え尽きていく研修医たちが、水面下にはたくさんいる。



 前期と後期で5年あまりの研修医を終えた美穂が、市内の病院へやって来た。
月に1度だけ。すずの様子を見るために実家へ戻って来る。
研修医が終えたとはいえ、医師が不足している病院での仕事は多忙を極める。


 「もともとが、試練の道ですから」と、美穂は屈託なく笑う。
「わたしだって、辞めてしまおうかしらと、最初の2年間は何度も悩みました。
でも、自分でやり遂げると決めた医師の道です。
途中で投げ出しているようでは、支えてくれた母さんに申し開きが出来ません。
とはいえ私はまだまだ道半ば。いまだに半人前の女医なんです、わたしは」
と美穂が赤い舌を出す。


 「当分のあいだ、お嫁には行けません。お母さんにはお気の毒ですが」
と、いつものように付け加える。
「誰に似たんだろうねぇ、あんたのその我儘な生き方は」と横槍を入れるすずに、
「高校を1年で中退して、和裁の世界へ飛び込んだ誰かさんと一緒です」
と、これまた慣れた口調で切り返す。


(19)へつづく


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つわものたちの夢の跡・Ⅱ   (17)あれから40年

2015-04-17 11:13:36 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ
 
(17)あれから40年





 「毒舌漫談家の綾小路きみまろじゃないけど、あれから40年。
 ふふふ・・・あたしたちも、ずいぶんと、歳をとりましたねぇ」


 「まったくだ。
 今から思うと、18歳の時の君の訪問着姿は、涙が出るほど初々しかった」


 「あら。どうせもうわたしは、散る寸前の姥(うば)桜です」


 「そういう意味じゃない。君はまだ、充分に美しい・・・と、俺は思う」



 夕食を終えた勇作が、柱時計の時刻を見上げる。
針は、午後8時45分を指している。
この時間になると勇作は、決まってすずの家を出る。
公園通りに停めてある軽のキャンピングカーへ、戻っていくためだ。


 「誰も居ない家だもの。遠慮しないで泊まっていけばいいのに。
 ご飯だけ食べて、さっさと車へ帰っていくなんて、
 あなたは私のいったい何なのさ」


 「58年来の、幼なじみだろう。
 18歳のあの日。君がキスに応えてくれていれば、
 俺たちの人生はたぶん違っていた。
 鴨川の川辺を散歩したあの時。
 無理やりにでも、キスすればよかったな、俺たちは」


 「無理を言わないで。門限は9時だったのよ。
 キスなんかしたら私の気持ちに火が点いて、朝になっても寮へ帰れません。
 あの時、小袖ではなく訪問着を着せたのには、実は意味が有ったそうです」


 「先輩たちの悪知恵だろう?」



 「そうよ。ゆるりと着る小袖なら、多少は着崩れても気になりません。
 でも、しっかりと着付けた訪問着ではそういう訳にいきません。
 帯と紐で、幾重にも純潔が守られています。
 脱がせることはできても、お互いに素人では、着付けることができません。
 大切な純潔を守るのにはこれが一番だと、先輩たちが笑っていました」


 すずが、40年も前の思い出話を口にする。
3年ぶりに再会した幼なじみの2人は、加茂川のほとりをゆっくりと散策する。
歩きにくそうなすずをかばって、勇作がことさらゆっくりと足を運んでいく。
何事も起こらず、門限の間に合う午後9時前に2人は京都駅で別れる。
訪問着姿のすずが見送る中。
新幹線はあっというまに発車して、勇作を東京へ連れ去っていく。



 (勇作を見送るのは、これで2度目です。
 1度目は上京していくときの福井駅。2度目の今日は、京都駅の新幹線。
 もしかしたらウチの人生は、こんな風にして、ただ勇作の背中を、
 見送るだけで終わるかもしれません・・・)



 すずの予感が、的中をする。
その後も2人の関係は進展をしない。
着かず離れずの膠着状態が、その後、なん年も続いていく。
和裁塾の5年間を終えたすずは、アパートを借り、そのまま京都に住み着く。
福井へ帰っても、和裁の仕事が少ないためだ。
そのことを知ったすずが、福井へ帰る気力を失う。
勇作も東京の羽村工場から、新しく完成した群馬工場へ移動を命じられる。



 2人の仲が、自然消滅の気配を見せてきたころ。
25歳になったすずが、はじめて別の男性に心を惹かれる。
(勇作に申し訳ないけど・・・)と思いつつ、あたらしい交際が深みにはまっていく。
相手は、繊維業界を駆けまわる営業マンだ。
滑らかな口調とくったくのない笑顔に、いつの間にかすずが引き寄せられていく。
25歳の秋。押し切られた形で、すずが結婚に同意する。
だがあれほどまで優しかった男が、結婚を契機ににわかな豹変を見せる。


 働きもせず、ギャンブルに溺れるための借金を繰り返す。
酔うと暴力をふるいはじめる。
最初からすずの高収入を当てにしていただけと判明するが、すでに遅かった。
すず腹の中には、すでに一人娘の美穂が宿っていた。

 
(18)へつづく

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つわものたちの夢の跡・Ⅱ   (16)18歳の訪問着

2015-04-16 11:21:34 | 現代小説

つわものたちの夢の跡・Ⅱ
 
(16)18歳の訪問着




 日ごろから訪問着や振袖を、仕立てているだけのことはある。
先輩たちの手際は、きわめて熟練している。
呆然としているすずを尻目に、訪問着の着付けが手際よくすすんでいく。


 同じような体型をしている和子の訪問着は、すずの身体にピタリと合った。
出来上がったすずの18歳の訪問着姿に、みずみずしさが漂う。
鏡を見つめるすずも、出来がった自分の美しさに思わずはっと息を呑む。


 「やっぱりねぇ。
 20歳前の素の美しさは、捨てがたいものがあります。
 10代ならではの、健康的な、ピチピチとした美しさが有るもの。
 昔はねぇ。女たちは、10代の頃から、普通に着物を着て過ごしてきました。
 16になれば、身長の伸びが止まります。
 大人サイズの着物を着ることが可能になる、年頃に達します。
 成人式に初めて着物を着るのではなく、こんな風に10代のうちから
 着物に馴染んでいきたいものです。
 綺麗に出来上がりました。すずちゃん。
 これなら何処へ出しても恥ずかしくは、ありません」



 寮母が満足そうに、すずの訪問着姿を見つめる。
「完璧です・・・この子ったらまるで、着物を着るために生まれてきたようです」
着付けを手伝った先輩のひとりが、ふぅ~と、すずの出来あがりにため息を漏らす。


 「背は低め。なで肩で長い首、少しだけハト胸。
 うふふ。ホントですねぇ。
 あなたには、着物美人になるための条件がすべて揃っています。
 持ち主のあたし以上に、訪問着がよく似合っているもの。
 まるであなたのために、仕立てたようです」


 訪問着を提供した先輩の和子も、目を細めてすずを見つめる。
訪問着は、日本女性がまとう正装のひとつだ。
当初は背中と両袖の3カ所に家紋を入れる慣例が有ったが、次第に廃れてきた。
今では紋を入れないほうが多い。
「絵羽物」と言われる、華やかな模様に最大の特徴がある。


 絵羽物は生地を採寸通りに裁断して、まず仮縫いをする。
着物として仕立てた時おかしくならないよう、全体に絵を描いた後、
再び解き、染色の作業をおこなう。
帯の上にも下にも、柄が入る。柄のすべてが縫い目をまたいでつながっていく。
同じ柄物着物である※付け下げと、この点が異なる。
大正初期に三越が、よそのお宅に訪問するに足る格の着物、という意味合いで
販売したのが、「訪問着」の名前の由来になった。



 ※付け下げ(つけさげ)。訪問着を簡略化した染めの着物。
 外見的な特徴として、訪問着より模様が少ない。
 衿と肩、裾の前身頃とおくみの模様が、つながっていない。
 反物で染色され、販売時も反物のまま店頭に並ぶことが多い。
 太平洋戦争中に絵羽模様の訪問着が禁制品となったため、代用として定着した。


 「すずちゃんの、色の白いことが、なによりですねぇ。
 昔から、肌の白さは七難隠すと言います。
 色白の女性というものは、顔かたちに多少の欠点があっても、
 それを補って美しく見えますからねぇ」


 「寮母さん。それって、わたしの顔の造りはごく平凡なのに、
 こうして高い着物を着ると、それなりにかわいく見える、という意味ですか?」


 
 「ご明察です。あなたは、とても賢いわ。
 ほら、こうしているあいだに、時刻は早くも5時50分になりました。
 約束の6時はもうすぐです。
 楽しみですねぇ。白馬の王子様が登場するのが」


 「白馬の王子が登場する?。なんの話ですか、私は何も聞いていませんが・・・」


 「あら、伝えてなかったかしら、あなたには。
 あなたの幼なじみの勇作君が、あなたに会いにやってくる時間です。
 変ですねぇ・・・
 和ちゃんに訪問着を貸してちょうだいと頼んだとき、伝言を頼みましたけど、
 届かなかったのかしらねぇ・・・まぁ、別に問題は無いでしょう。
 彼がやって来る時間にはちゃんと間に合いましたし、出来上り具合も完璧です。
 あら、寮の前にタクシーが停まりましたねぇ。
 到着したのかしらねぇ。
 あなたの白馬の王子様が。予定よりも10分も前に!」


 
(17)へつづく


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つわものたちの夢の跡・Ⅱ   (15)5月23日

2015-04-15 09:37:44 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ
 
(15)5月23日




 勇作と寮母が電話で約束した、5月23日の朝。
朝食を終えて部屋へ戻るすずを、『ちょっと』と寮母が呼び止める。

 「すずちゃん。今日は何の用事もないんやろ。
 塾の仕事が終えたら、まっすぐ、あたしの部屋へおいで。
 袖を通したいと言っていた、小袖を着せてあげるから」


 「え・・・本当ですか!。
 だってあれは、娘さんが大切にしている袷の小袖でしょう。
 嬉しいけど、なんで今日のタイミングで、着せてもらえるのですか?」


 「袷の小袖が着られるのは、5月の末までや。
 それに今日は京都府民の日や。お天気も朝から絶好の好天どす。
 小袖を着るなら、いましかないと思うでぇ」



 「分かりました。楽しみにしています」と、すずが階段を駆け上がっていく。
日本の着物の原型は、「小袖」にある。
小袖は桃山時代から江戸時代にかけて、服飾の中心的な役割を担ってきた。
平安時代は、十二単衣の下着として小袖が着用された。
有名な「見返り美人」の絵と同じ着物と言えば、分かりやすいだろう。


 小袖には、おはしょりがない。
ゆったりと作られているため、自由に動いても着くずれしない。
着る時は、従来の襦袢(じゅばん)の代わりに、半着(はんぎ)を使う。
その上に小袖をゆったりと着る。
洋服に例えれば半着はシャツであり、小袖は、ワンピースのように
ふわりとその上に羽織るように着る。



 京都は国内きっての着物の生産地として、知られている。
最新の文様と最高の技術であつらえた小袖を、日本中に送り出してきた
長年の歴史を持っている。
小袖に洒落たデザインを配したことから、京友禅が生まれてきた。
祇園に、小袖の名前を冠した小路が有る。
花見小路通りから一本東へ入った裏通りに、その小袖小路が有る。
青柳小路から花見小路へ繋がる、石畳の細い路だ。


 午後5時。仕事を終えたすずが、寮母の部屋へ飛んできた。
夢にまで見た小袖が着られるという歓びに、すずの胸が弾んでいる。
だが寮母の部屋へ飛び込んだ瞬間、すずの眼が丸くなる。
部屋の壁に架かっているのは小袖ではなく、綺麗に仕立てあげられた
訪問着だ。

 
 訪問着は未婚、既婚を問わず着ることのできる、格式上位の着物だ。
紋を付ければ、色留袖と同格になる。
ゆるりと着る小袖とばかり思い込んでいたすずが、驚きのあまり目を見張る。
すずは、正式な着物を着たことが無い。
浴衣なら何度か着たことは有るが、格式のある着物に手を通すのは、
生まれて初めてのことになる。


 「小袖ではなく、訪問着ですなぁ。
 ええんですかぁ。こんな高価な着物に、ウチみたいな初心者が袖を通しても?」



 「心配おへん。あんたの先輩、和子ちゃんが自分の成人式用に、
 仕立てあげたもんや。
 すずちゃんに小袖を着せると言うたら、はじめての着物を着るんなら
 やっぱり、ちゃんとした訪問着がええでしょうと、快く貸してくれました。
 和ちゃんも着付けのために、まもなく、小物を持ってやって来る頃や」

 
 寮母の言葉が終わらないうち、先輩の和子が、小物を抱えて部屋のドアを開けた。
その後ろに、櫛やかんざしを持った、和子の同級生たちの顔も見える。
和装の必需品を抱えた上級生たちが、一斉に寮母の部屋へなだれ込んできた。


 すずに、抵抗する暇は無かった。
部屋の中央に立たされたまま、寄って集っての訪問着の着付けがはじまる。
洋服が手早く脱がされる。
素っ裸に近い状態で、肌襦袢が着せられる。
言われるままに両手を広げているだけで、訪問着の着付けが着々と進んでいく。
後ろに回った先輩が、すずの髪を、軽いアップにまとめていく。
集団作業の連携は、40分足らずですずを訪問着の似合う、女の子に仕立て上げた。


 「先輩・・・訳がわかりません。
 いきなりの訪問着なんて、これっていったい、どういう事ですか?」


 「今日は何の日や、すず」


 「23日やから、京都府民の日どす。
 語呂合せで、五(こ)二(ふ)三(み)というのも、有ります。
 浅田次郎原作の映画、『ラブ・レター』の公開初日であったことから
 5月23日は、恋文の日どす!」


 「それだけや無いやろう。胸に手を当てて、よう考えてみい。
 他にも、なにか有るはずや」


 「あ・・・
 本格的なキスシーンが話題を呼んだ、はたちの青春が封切られた日や。
 そうか、恋人たちのキスの日です。
 すっかり忘れていました。
 そういえば今日は勇作と約束をした、キスの日ですねぇ・・・」


 
(16)へつづく


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