つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(19)3ボール、2ストライク

帰省の予定日ではないが、突然、一人娘の美穂が帰って来た。
『ボロ雑巾状態での帰宅で~す』と、玄関から大きな溜息が聞こえてくる。
『どうしたの、突然に』慌ててすずが玄関へ飛んでいく
『何でもない。いつものように病院で、まる2昼夜こき使われただけ』美穂が、
憮然とした声で答える。
炬燵でミカンをつまんでいた勇作が、思わず手を停める。
玄関で交わす2人の声に、聞き耳をたてる。
『あら。聞こえちゃったかしら・・・いつものわたしのつまらない愚痴が・・・』
えへへと笑いながら、美穂が障子から顔を出す。
「大変だねぇ。女医さんという仕事も・・・」
「当直で患者さんが途切れず、一睡もできなかったの。
でも、そのくらいの事はよくあることだから、慣れっこです。
でもね。その後の展開が不運でした。
朝から膵頭(すいとう)十二指腸切除術(手術時間は、6~10時間くらい)に
引っ張り出され、そのままオペ室へ入りました。
21時に手術が終わり、やっとのことで帰れる~と思ったら、今度は
腸管破裂の緊急手術が入り、そのまま日付を越えちゃいました。
自分でもオペ室の中で、何をしていたのか、ほとんど覚えていません。
気力だけで、立っていましたから・・・」
「だから言ったでしょ。いい加減で男を見つけて結婚しなさいって。
あれが嫌だ、これが嫌だと文句をつけて、贅沢ばかりを言うから行き遅れるのよ。
30をとうに過ぎたのよ。いい加減で私に孫の顔を見せて頂戴」
「お母さんのいい分も分かるけど、女医にとって、結婚のタイミングは難しいの。
女医の婚期は大きく分けて3つあると、先輩が言っていたけど本当ですね。
行遅れた私が言うんだもの、やっぱりあれは事実です。
1度目は、医学部を卒業した時。
2度目は研修医を修了した時で、3度目は、専門医の資格を取得した時。
このタイミングで結婚できないと、やっぱり婚期のタイミングを失います」
「3度目も見逃したとすると、フルカウントの2ストライク、3ボールだね。
次の絶好球は、絶対にバットを振りたいね。
振ればあたる可能性もあるし、もしかしたら、満塁ホームランになる可能性もある」
「優しく励ましてくれるのは、おじ様だけです。
でも、切羽詰まった状況の事を昔は2ストライク、3ボールと言いましたが、
いまは野球もソフトも世界基準に合わせて、3ボール、2ストライクと言うそうです。
うふふ。口答えをしている女は、可愛くないですね。
ひとこと多い女はやっぱり、殿方からは、敬遠されるようです・・・」
「そんなことは無いさ。君はお母さんに似て、チャーミングだ。
男たちの側に見る目が無いんだろう。
こんな美人を放っておくなんて、福井の男たちは欲が無さ過ぎる」
「うふふ。そんな風に慰めてくれるのは、やっぱりオジ様だけです。
歳の若い女医は、経験不足の甘ちゃんだろうと、患者さんから軽く見られます。
逆に30過ぎれば、早く嫁に行けと、今度は後ろ指を指されます」
「居ないのかい本当に。君には、いい人が・・・」
「居るには居るけど、私自身が、いまさら恋にときめこうという気分にならないの。
毎日が忙しすぎるせいかしら。
女の顏が、なかなかわたしの表面に登場してくれないのよ」
「困ったね、それは」
「それだけじゃないの。
言い訳がましくなるけど、実は、母の事で気になる症状が有るのよ。
ホントはそっちのほうが、気がかりなんだ・・・」
すずが席を立った瞬間。美穂が声を潜めて、小さな声で勇作の耳にささやく。
『気になっている症状?、なんだい、気になっている症状って・・・』
勇作の問いかけに、美穂が、『しぃっ、あとで内緒でお話しします。
母には聞かれたくない話なので・・・』と何故か1段階、声のトーンを落とす。
(20)へつづく
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