内郷公民館前に咲いています早咲き桜です。
満開でした。
明治29年の温泉図。
39カ所あった。
湯本温泉計画図から。
温泉は湧出しなかった!!
内郷学特別講座から
「加納一族の炭鉱経営」と「湯元温泉の苦悩の歴史」
講師は
熊沢幹夫先生(いわきヘリテージツーリズム協議会)
1部:加納一族の炭鉱経営
加納家は常磐炭田採炭業の開始から
常磐炭鉱(株)の閉山まで石炭産業に携わってきた。
1)加納家の主な系図
加納作次郎→加納作平→加納五郎→(佐藤作平)→加納邦武
2)加納作次郎(1803年(享和3年)~1873年(明治6年)
3)加納作平(1835年(天保6年)~1892年(明治25年))
4)加納五郎(1867年(慶応3年)~1936年(昭和11年))
5)佐藤作平(1893年(明治36年)~1950年(昭和25年))
6)加藤邦武(1925年(大正14年)~1978年(昭和53年))
について
その業績について説明されました。
また
内郷の弥勒沢から
石炭を江戸(東京)まで運んだか
というルートまで話されました。
2部:
湯本温泉の苦悩の歴史
1)歴史ある湯本温泉
平安時代から栄えた温泉場でした。
2)盛況であった時代
3)湯本温泉の苦悩の始まり
A:住民の増加
B:温泉数の減退と炭鉱坑口開発の関係
磐城炭礦は明治18年湯本小野田地区、明治31年から内郷町田地区。
入山採炭は明治28年から内郷川平地区、
賛成炭礦は明治30年から内郷綴地区の杭を開発。
C:湯本町の飲料水の問題
現在は
昭和51年西部炭鉱閉山と共に今後の温泉供給の継続をするため
「常磐湯本温泉(株)」が組織され
現在の給湯方法による配湯をするようになって解決された。
温泉と炭礦の戦いは
明治から戦後まで続いたようです。
現在の配湯方法になるまで
長く戦いは続いた歴史を学びました。
熊沢先生
温泉と炭礦のお話ありがとうございました。
日めくりカレンダーから
☆オレの行く方
青空だ!
神奈川県 公務員の方
曇りがちな朝、
小学1年生の息子さんの一言でした。
雲の隙間から青空が少しだけ見えたのを見つけて。
内郷公民館前の桜から。
大滝江筋水分(みずわけ)神社の碑文。
今回は内郷・常磐関係を学びました。
水道設備のある炭鉱14鉱・15か所
・・・いわき市水道局発行より
上野原浄水場拡張事業概況 昭和60年8月から
大滝江筋から水を引いてきました。
一昨日
内郷学特別講座
内郷上水道の今昔
小山田昭三郎先生(常磐炭鉱(株)OB)でした。
水関係のプロで
明治時代からの炭鉱・行政の水に関するいろいろな歴史・エピソードなど
様々なことを話して
貴重な歴史を学べました。
今回は内郷・常磐関係を学びました。
われわれが飲んでいる内郷の水。
実は
炭鉱と密接な関係があると小山田先生は話されました。
炭鉱は大量の水を使う。
明治の磐城炭礦(株)、入山採炭(株)時代から
内郷地区を中心に採炭してきた常磐炭礦(株)は
その水対策をどのようにしてきたのか?
白水川や宮川しかない内郷地区で水は間にあったのか?
今回はその歴史を学びました。
1)歴史的な経緯
・・・湯本温泉は水不足、お湯(温泉)不足であったと。
2)常磐炭礦(株)の浄水場
川平浄水場・峰根浄水場・浅貝浄水場・西部立坑浄水場
などの沿革、水利権の譲渡を説明いただきました。
昨日はこれらのお話された
大滝江筋
上野原浄水場
峰根浄水場跡地
川平浄水場跡地(現在は配水場として使用されているようです)
などを見学してきました。
今まで水については理解不足でしたが、
奥が深かったのにびっくり!!
小山田先生ありがとうございました。
小山田先生は90歳になられるようですが
元気はつらつでした。
昨日内郷学で
内郷の炭鉱・水をバスにて見学途中
白水阿弥陀堂にて休憩。
周りを見てみますと
芝生が掘り起こされった様な様子。
いったい何が?
いのししが
ミミズを食べるために
芝生を堀り起こしたと。
すごい範囲に驚きました。
上記写真のように
国宝・白水阿弥陀堂で
いのししが・・・・・
驚きました。