山梨県人の朝の習慣とは山梨日日新聞(ほかの新聞もあり)のおくやみ欄をチェックすることです。
知り合いが亡くなっていないか、もし亡くなっていたら葬儀もしくは通夜に行かなければならない。
そのために毎朝チェックを欠かさないのです。
しかし、このところ異変が・・・・
今年に入ってからでしょうか、特に甲府市地域のおくやみがやたらと少ない。今までは山梨のほかの地域に比べて格段に掲載量が多かったのにこのごろでは1件か2件ぐらいしか掲載されていないことも少なくありません。
このおくやみ欄は掲載料無料で市役所に死亡届を出しに行った際そこに掲載を申し込むコーナーが設置されているのです。
もちろん市役所がやっているサービスではないのですが、少し前まではたいていの人がこれを利用していました。
なぜおくやみ欄に掲載しないのか?
亡くなる方が少なくなったわけではなく、いわゆる家族葬といわれる身内だけで行われる葬儀が増えてきたからのようです。
このような葬儀は広く葬儀の告知をするわけではないので、会葬者もほとんどないものになります。
今までの葬儀のように会葬者に気を取られることがないので葬儀に集中できるという利点はありますが、生前故人と交流のあった方にとってはお別れすることもできないという大きな欠点もあります。
人は生きているときには家族とだけあるいは親族とだけ付き合っているわけではありません。
多くの人との交流の中で生きてきたはずです。中には家族以上のつながりを持つ人もいることでしょう。そういう縁のあった方々にお別れをせずに旅立つというのはいかがなものかとも思います。
もし、私が友人の死を知ったなら絶対にお別れしたいし、もしそれができないと亡くなったことが受け止められずいつまでももやもやとした気持ちを引きずってしまうような気がします。
同じ時を生きたものとして別れを告げたいし、また、去っていくものも別れを告げていくのが礼儀ではないかとも思います。
自分が亡くなった時に家族に迷惑をかけたくないという方も見受けられますが、生きていること自体いろいろな方のお世話になりながら成り立つことなのですから、最期ぐらいはきちんと挨拶をしていくべきでしょう。
喪主となる家族もその経験を通して多くのものを学び縁など受け継がれるものも多いはずです。
それをなくしてしまうことはこれからも生き続けていくものにとって大きな損失となることでしょう。
そのことに気づいていない方が多いのが残念です。
人が亡くなるということはその方から人生と知恵の詰まったリレーのバトンを受け取るようなものです。
そうして命のバトンを受け継いで次の世代に引き継いでいくことが人として生きる使命の一つなのではと思うのですが・・・
このままで行くと家族も縁もいつかバラバラになって、何十年かすると縁の切れてしまった方々は孤独死という道をたどるのではと危惧しています。
確かに少し前まではこちらでもそういう傾向がありましたね。それに義理でお焼香にいく会葬者も多かったように思います。
その反動があるのかもしれません。
でも、葬儀とは故人に対して行うものであり、宗教儀式としてだけでなく、通過儀礼でもあり、社会的な意味もあります。決して個人的な行事ではないということが忘れられているからでしょうか。
本当に自分を惜しんでくれる人を。
自分の為に本気で涙を流してくれる人を。
単に義理で参列される位なら、参列してくれなくて良いと私は思います。
少人数でも構わないから、心のこもった葬儀さえして貰えれば、それで十分だと思います。
参列者の数だけで、その人の善悪を裁きはしないでしょう。
問題は、その人自身がどれだけ自分の人生に誇りを持って死んだかです。
おっしゃる通り、故人の立場としては参列者の数ではなく本当に自分を惜しんでくれる人に来ていただきたいですね。
会葬者の立場としては親しい間柄の場合には知られてほしいと思います。
送られる側と送る側双方が心安らげる葬儀であってほしいと願います。