@江戸城無血開場後、廃藩置県、版籍奉還等は武家社会を一転させた。全国で大量の失業者(武士)が溢れ出したことは想像を絶する。薩長土肥中心の新政府は新たな政策を次々に実行したことで、批判、暴動もあったが西南戦争後は沈静化したという。それは、武力で鎮圧させた背景に新政府の「軍隊」があったことである。 人を導くには最後は「武力」がモノを言うことか。
さてその江戸城大奥にいた奥女中約1千人も多くは失業している。そこで生まれたのは、習い事、塾、学校である。 やはり「失業」というのは如何なる能力・知識・知恵を持った人材なのかを問われる、そのためにも勉強し努力した当時の姿が見えそうだ。 これからの個性を問われる時代となると一層個人の能力、経験値からなる知識・知恵が重要になる。
- 1868年4月11日江戸城明渡し、江戸城無血開城
- 明治維新を作ったのは家臣、豪商、大名、だが多くの「失業者」も作り出した
- 『篤姫が住んだ大奥とは』
- 約千人の女性の大奥(本丸本殿:表、中奥、大奥)
- 大奥には約5百人が就寝(子育ての空間)
- 御殿向、長局向、広敷向、御座の間、将軍の寝床
- 大奥の主は御台所「京女」五摂家、宮家
- 御台所の1日
- お風呂、髪の結、朝食、将軍対面、仏間、午後は自由
- 数回のお召替え、庭園の散策
- 茶の湯、生花、和歌、扇遊び
- 御年寄(大奥の最高位管理職)は4−5人
- 現代で約1千万円の年棒(米、衣装代、扶持米等)
- 篤姫の奥女中は126名、江戸城退出した時点で66名に削減された
- 篤姫は多くの奥女中の次の仕事を斡旋努力したとの話もある
- 和宮の奥女中は96名から72名になった
- 篤姫は徳川家達の婚儀後1883年中風にて享年47歳で死去
- 和宮も5回の篤姫と対談後、脚気にて31歳で死去
- 奥女中はその後大名への奉公、その他三味線、琴、長唄、踊りの習い事商売へ転身
- 多くの奥女中は先見知らずで一般から反発もあり、茶道、生花の独立を余儀なくされた
- 大奥は他言しない契約書義務があり多くは公開されていない
- 『失業した3万の幕臣はその後』
- 幕臣の3つの選択
- 新政府に帰順して朝臣になる=約5千人
- 御暇をいただき、農業、商売等をする=4500人
- 無録覚悟で新領地静岡に移住する
- 1万3764名となるが貧乏生活を強いられた
- 士族の商法が始まり、多くは酒屋、米屋、古着屋、小間物屋
- 飲食関係が一番多く、汁粉屋、団子屋、居酒屋とつづく
- 福沢諭吉(九州の外様大名家臣)語学から通訳、教育へ動く
- その後諭吉は出版社から慶應義塾等の運営を手がける
- その他三井の大番頭増田孝、麻布学園創設者江原素六、
- 渋谷栄一(豪農)は静岡藩からの転身、明治政府を支える一人
- 静岡藩は沼津兵学校を作った(総合大学的機能)
- 渋沢は貨幣、租税、運輸、前島は郵便制度を確立
- 静岡藩の新政府官員は5215名にも及んだ(仕官の3分の1)
- 『将軍家御典医・桂川家の娘の運命』
- 江戸城は5回大火で焼け落ちている
- 1639、1657、1844、1859、1863年
- 桂川家は「解体新書」に携わり6代に渡るオランダ医学外科医
- 桂川が作った蘭学サロンでは福沢諭吉が教授になった
- 福沢は桂川家のツテで咸臨丸にてアメリカに渡り勉学
- 娘「みね」には華族、大名から多くの縁談があったが断り、佐賀藩家臣伊万里権限典事、今泉利春検事と結婚となる(親のプライド=将軍の御典医としての役、幕府直系からの解放を望んでいた)
- 『日本最初の帰国女子、津田梅子の奮戦』
- 岩倉使節団の一人として5人の女性と渡米、10年間滞在
- 津田は当時6歳、最年長は14歳
- 帰国後は伊藤博文の華族に英語を教え、自身は日本語を学んだ
- 女学校設立、8歳から15歳までの教育
- 皇族の華族女学校設立後は教授として勤務
- 自由な校風を入れた女子英学塾を設立(のちの津田塾)
- 『東京に移転した大名とその妻』
- 版籍奉還により華族と士族に分かれる
- 427家が華族(旧公卿164、大名248)
- 家老以下藩士は士族となる
- 1871年、薩長土藩兵1万人を御親兵とした
- 3府72県、明治20年代に3府43県になる
- 1877年、第15国立銀行、頭取毛利元徳、副は徳川慶勝
- 日本鉄道、海運、銀行、鉱山株で華族は配当(給与)を受けた
- 社交界、鹿鳴館にて外国交流、大山捨松が貴婦人として活躍
- 『東京の街は、牧場と桑畑だらけ』
- 1862年参覲交代も3年に一度、1年から百日と負担を軽
- 3百諸侯と旗本8万騎はくずれ人口が減り、武家屋敷の廃墟
- 政府の殖産興行、桑畑、牧場、兎等いずれも失敗
- 1878年西南戦争西郷を慕うもの多く薩長政府への不満続出
- 同じ年大久保利通の暗殺、長州藩の木戸孝允も病死
- 『江戸の商人や町人』
- 大奥への呉服問屋、三井家の越後屋、大丸屋、白木屋が繁盛
- 三井はその後銀行業に力を入れ、さらに三越屋で独立
- 両替商が第一国立銀行を設立(三井家、小野組)
- 町奉行、約13百人はそのまま引き継ぎされ治安警備となった
- 行政では名主(250−260名)は区長、戸長等に任命