@古代の推古天皇から江戸時代まで8人の女帝(女性の天皇)が在位していた。女性がリードできる素晴らしい歴代の天皇系列である。女帝だからと言って功績がなかったわけではない。だが、日本は世界比で圧倒的に女性の管理職など就業率が低いと批判される。時代をリードした男の発言力(政府・安倍内閣など)が未だしぶとく生き続けているのは、日本の未来を時代遅れへと導くことになるだろう。
『女帝の歴史を裏がえす』永井路子
女帝とは、しょうがなくの中継ぎではなく、政治力・外交力にも長けた国の大黒柱だった――従来の男中心史観の常識を鮮やかに裏返して、歴史小説の第一人者がその実態を描き出す。推古天皇から後桜町天皇まで、古代から江戸に生きた八人の女帝たちを通観し、隠された権力者たちの素顔に迫る
- 日本の歴史で女帝は8人いたとある、がいずれも中継であったとある。また、古代の男帝、女帝の数はほぼ半数を示している。 江戸時代には2人の女帝がいた、1630年明正天皇、1762年後桜町天皇である
- 推古・592~628
- 皇極・642~645 斉明と同人物
- 斉明・655~661
- 持統・690~697
- 元明・707~715
- 元正・715~724
- 孝謙・749~758 称徳と同人物
- 称徳・764~770
- 明正・1629~1643
- 後桜町・1762~1770
- 海外の女帝では中国の則天武后、朝鮮の善徳女王があるが、日本の女帝の方がずっと古い。また推古天皇のように36年間在位など日本では一番長く、12の冠位を設け、17条の憲法(聖徳太子=厩戸皇子という説から)、外交問題など大事業なども行ったとある
- 「妻問婚」は男性が女性の処に通うのが普通の時代で子供はその母親が育てた。よって母親、祖母などが大黒柱のような存在だった
- 天皇位の継続でも血みどろの相剋があり、兄から弟への順じ行われたという事実は、すんなり皇位継承は行われなかったとある。特に蘇我氏系と藤原氏系との熾烈な戦いへとも連れ殺戮も多くあった。
- 「大化改新」は中大兄と藤原鎌足が行った。現代では「乙巳の変」(いっし)と呼ばれる
- 天智天皇(中大兄)は飛鳥から近江へ遷都、国号を「日本」とした
- 天武天皇から「生きぬよう、死なぬよう」と潰すより囲い込みを優先とし戦いを避けた。だが持統天皇からまた腹違いの王子を殺害するなど次期天皇の座を得るため繰り返し殺戮が始まった。 持統天皇から中央集権国家体制が始ったが、その中心人物が藤原不比等であり「大宝律令」などを配布、法律も外交も携わり藤原氏系の復讐がまたしても始まった。それは周辺の系族を血みどろにすることになった。
- 元正天皇時には飢餓対策の農業振興など「三世一身法」など3代の土地の私有を認めた
- 「日本書紀」はある意味で蘇我大王家の絶頂期をそのまま描いたもので、藤原氏の勝利の歴史である書だと言う。
- 「近江令」「浄御原令」「大宝律令」などは遺ったものはなく、「養老立令」だけ現存している。
- 「私の歴史散歩」直木孝次郎『直木孝次郎と奈良・万葉を歩く』
- 『君が代』の本当の意味は「君が代ではなく、民が世でなければならない」