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戊辰戦争の敗北から学ぶこと『桑名藩戊辰戦記』

2024-04-13 07:53:02 | 歴史から学ぶ
@戊辰戦争から学ぶ「敗北」の教訓 戊辰戦争は、明治維新期における重要な出来事の一つで、この戦争から、私たちは「敗北」の教訓を学ぶことができる。
最新式武器の調達と指揮官のリーダーシップ
戊辰戦争において、薩摩藩と長州藩は最新式の武器を積極的に調達し、経験豊富な指揮官を配置していた。一方、会津藩や米沢藩の指揮官は年老いており、戦争経験も乏しかったため、兵士の士気も低かった。
豪商たちの活躍
薩摩藩と長州藩の勝利には、豪商たちの活躍も大きな役割を果たした。彼らは最新式武器の調達に尽力し、財政的な支援も行っていた。
・アラン・ブルーク元帥の名言
英国参謀長アラン・ブルーク元帥は「ウスノロは何度戦ってもウスノロである」と述べています。この言葉は、経験と能力の欠如が敗北につながることを示唆しています。
戊辰戦争の敗北には、最新式武器の不足、指揮官の力量不足、そして兵士の士気の低さなどが大きな要因となっていたと考えられる。この教訓は、現代においても重要な意味を持っていると言えるでしょう。
『桑名藩戊辰戦記』郡義武
「概要」戊辰戦争を最後まで戦った会津・松平容保の弟・松平定敬を藩主にいただく桑名藩兵は、宇都宮、北越、庄内、寒河江と戦いつづけた…。東北の山野を血に染めて戦った桑名藩士の姿を生き生きと描く。
ー1868年1月6日大阪城から密かに15代将軍慶喜、京都守護職松平容保(会津藩主)、京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩主)、老中首座板倉勝静(備中松山藩主)、老中酒井忠惇(姫路藩主)、大目付戸川安愛、外国奉行山口直毅、目付榎本道章がらが逃亡
ー幕府の要人大久保一翁の言葉「恭順なさるなら江戸を離れ、いずれかの遠地で謹慎なさるがよかろう」で越後柏崎へと船で出発する松平定敬(兄は会津・松平容保)を藩主と桑名藩兵約80名、その中の神風隊隊長町田老之丞の手記によるもの(江戸から新潟、と陸路の家老吉村を中心とした120名となる(江戸から下妻、宇都宮、日光、若松、福島、白石、清川、鶴岡へ)。
ーその後どの藩でも恭順派と主戦派の席を同じくした互いの詮議も多く、双方に分かれての戦いが行われる「戊辰戦争」へと広がる
「戊辰戦争」は従来の刀槍から銃砲への過渡期となるが、戦国時代の古式軍法も残った。それは味方戦死者の首級は敵に渡さない、捉えた敵は斬首する。重症者は味方が介錯した。
ー宇都宮城での戦いで東軍の伝習隊の兵がおじけずいたことで土方歳三が「退却するものは誰でもこうである」と兵士を切り捨てる事件が起こる(西軍でも同じようなことが山形有朋軍でも長岡再落城時に起こった)戦死した兵士は皆お寺に合葬墓として残した。
ー宇都宮城では桑名藩は城内の米を市民に分配、衣類布団なども提供したとある。今市に向かう桑名藩に逆に百姓たちが山盛りの握り飯などを振舞ったともある。(徳川家への恩に報いる為)
ー備中松山藩主板倉勝静の提言で日光での争いは回避された「この日光徳川家の神域を血で汚してはならん」の一言
恭順派の勝海舟「人の手柄を横取りする大ボラもので少しも謙虚さや誠意がない」と評価、さらにかつは妻妾など一つの矢野の下で10数人を同居させていた、と悪評価
ー幕臣では小栗上野介忠順(のちに斬首)、五稜郭で戦った榎本武揚は高評価された
ー家老の吉村権左衛門(恭順派に寝返り)は抗戦派の軍事奉行山脇に誅殺される
ー柏崎での桑名藩は総勢360名(町民兵士30名で実質中精兵200名程度)で戦死者33人の碑が柏崎大久保にある勝願寺にある。
柏崎の星野藤兵衛(豪商)が東軍への軍需物資などを調達していた。(食料92万食など)
ー長岡藩軍事総督河井継之助(42歳)は兵割に高所するが西軍の軍監岩村(土佐藩23歳、その後解任)との物別れで北越戦争となる(継之助の交渉相手が若すぎて建設的な事にはならなかった)
ー長岡藩の家老山下帯刀(戊辰戦争で戦死)と山本五十六・山本勘助の家系の繋がりがある
ー山県の敗戦・越後平野における旭山から北越戦争に東4千人vs西2万5千人(昼間の銃撃戦は強いが兵士は民兵であり桑名兵の武士の刀戦いは弱い)
北越戦争での3傑とは
長岡藩の河井継之助(42歳)、会津藩の佐川官兵衛(36歳)、桑名藩の山脇十左衛門(48歳)
ー奥州越列藩同盟により米沢藩6百人、会津藩等東で合計3千人が加わったが軍事組織人材に禄高が高い年寄りばかりで戦力に乏しかったvs西の薩摩藩3百人、で会津3百人が戦死。戦力のあったのは東では庄内藩と桑名藩で強かったとある。(桑名藩はすでに2ヶ月で150人となった)
ー7月22日乙茂の小競り合いで神風隊玉井五郎兵衛と馬場三九郎が戦死(常禅寺に墓)
ー新堀田藩の西側への加担の裏切りで長岡城を奪回した河井は敗戦
8月4日東側防衛は数か5百vs西側は5千人と北越戦争・加茂防衛戦が最後の戦いとなる
    5ヶ月戦い北越戦での結果 戦死者数は東1180名、西1048名
    結果的に東軍が苦戦したが検討した戦いでその戦史は有名ではない(東側の苦杯戦争には史上に残したくない)
    土方歳三の「必ず尽力すべし、心を安ぜよ。速やかに我が隊に来れ」と桑名藩兵士を入隊
    桑名藩兵士17名は新撰組に入隊し大江丸にて蝦夷地へ向かう
    庄内藩と桑名藩の残り兵士260名は最後の寒河江の血戦、凄惨悲壮へと向かった
ー降伏
    米沢藩使者「義をもってこれに至る。死すとも謝る可けんや」
    9月23日会津鶴ヶ島城開城、容保含め5千人が降伏、
戦歴史の誤解
    「蛤御門の変」は実は薩摩勢は全く戦っておらず長州を負かしたのは会津藩の戦果だった
    「お由良騒動」(久光派は黒、斉彬派は白)も全く事実は逆だった事実
    「ええじゃないか」騒動も西郷の高森の陰謀説に疑問
    「坂本龍馬・伊東甲子太郎暗殺」にも薩摩藩が暗躍していた
    「長州の桂小五郎」狡猾な男、尊王を唱えながら政権獲得を狙った
    「錦旗」は大久保利通の偽物作
ー超名人の名訓
    大鳥圭介総督「自分はこれまで戦場に出た事なければ、身体の事未熟でありその大任を荷ふ事能わず」
    長州藩品川弥二郎「黒田清隆や山県有朋が河井に会わないで、岩村のような小僧を出したのが、大きな誤算であった」
    ナポレオン「敵の大群を打ち破るには、敵兵力を分散し、素早い攻撃で撃破すれば良い」
    英国参謀長アラン・ブルーク元帥「ウスノロは何度戦ってもウスノロである」



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