@坂口安吾氏(1906年生まれ)は日本史の「謎」を探求し続けた文学者であり歴史家。それは「異端の日本史」にあるように日本は疑史、偽史の類の捏造された文献が多くあることから探究心旺盛な人だったとある。文中にある伊勢神宮、天皇系絵図、聖徳太子など歴史を紐解く「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」「台記」「玉葉」などの文献からのもので疎い私には理解できない事柄が多く割愛です。が、気になったのが隠れキリシタンのその後、埼玉県の入間郡高麗神社など先祖は古くから朝鮮半島からの今でいう移民の人たちだったのも興味深いものがあった。
『人間・歴史・風土』坂口安吾
自然の風土の中で生きる人間をとおして作られるのが真実の歴史であるとする安吾独得の歴史観を背景に、自ら現地に足を運び、卓抜した洞察力を働かせてものした歴史紀行の中から「天草四郎」「安吾・伊勢神宮にゆく」「飛騨・高山の抹殺」など10篇を収録。
ー天草四郎(16歳の美青年)
キリシタン一団と農民一団が起こした島原半島にある廃墟の城で決起し、全員が死亡したと言う
城内にの空壕にいたと言う3千人の女と子供は喜々として死んだ
四郎は長崎の小物商を商う丁稚という説と、父と一緒に小物商を大阪江戸などで行商した説
武将は猪突し死亡した武将 板倉、後に豪勇、名称とされる その後松平伊豆守によって終結
ー直江山城(当主は上杉謙信、弟子は真田幸村)
上杉謙信の家老が秀吉から30万石の城主となり東北の守刀となる
山城は信長、秀吉、家康に仕えることになる律儀温厚な人物、関ヶ原の戦いには三成に協力
ー勝海舟(江戸徳川で国防で中立)
薩長との戦争をせず江戸幕府が負けることに努力、だが維新後の政治に登用されなかった
勝海舟の心得第一は「高い税金は国を滅ぼす」で「形式ばるな」の思考が型破りだった
勝海舟の父親は喧嘩好きで剣術好き、人助けも大胆にだが、金を取ることはしなかった
ー飛鳥の幻
吉野には蔵王堂、聖地の本堂(山伏の根元道場)の九三建築としては東大寺の次の大きさ
長子相続は大化の改新から始まり壬申の乱を起こす(藤原一族の勢力の兄弟争い)
藤原武士にも3種の神器があり、長者の印、漆器、台盤
仏教の伝来以降急速に文字が普及した、聖徳太子以降の学問僧により憲法を定め、12階を定め、7大寺を建立、仏典を講じる文化生活が始まった
古文書などでは□□などが多くある写文、天皇系の古文書でも兄弟争いの□□も多い
ー長崎ちゃんぽん
長崎には古い地図が一才ない(参謀本部の拠点が多く禁止されていた)
隠れキリシタンの英雄的存在徳田球一は近隣の藩等(数万の人材)を巻き込んだ捕物劇を演じた
匿った隠れキリシタン含めた人々も五百余名を数え死刑にされた(35日間の捕物劇)
徳田は1637年に処刑されており島原の乱には参加は不可能で、名残谷に「金鍔」で有名
長崎のの原爆で亡くなった人はその当時8500名、キリシタンが1万人いたと言う
昭和24年の調査では原爆死は73,884名、行方不明1,887名、重軽傷者76,796名
長崎人の大食(1日3合)ちゃんぽんでは特大サイズであり、棄教したのは食不足だった
ー飛騨高山
千光寺は縁起の上での空海の弟子真如が開山となり、ここがスクナの墓(否、大友皇子、日本武尊らの運命を負った人々の霊場)
ー高麗神社(満州、朝鮮からの移民地区)
霊亀2年5月に高麗村に移された1799名は元は高句麗等の出身者
向島にある白髭神社は武蔵野にある高麗神社が総本家だと言われる
ー富山の薬と越後の毒消し
富山の薬の元は岡山、江戸城殿中の急病で利用されたことで有名、富山の薬箱(後払い)
薬で有名なのが反魂丹とケロリン、越後の毒消しは女の行商人が日用雑貨と共に売った
富山薬売りは製造と販売売子(帳主)に分かれており売子は現金で購入、利用者は後払い
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