「昨日はね、お父さんが来ていたのよ」
父は平成10年の12月に亡くなっています。
その直後から、母は「父の声が聞こえた」「来てくれた」というようになりました。
別に母がおかしくなった訳ではありません。
自分でも「夢なのかしら?」と言っています。
遺族ケアの会でも、同じようなことを話す方がよくいます。
私は「あら、よかったですね」といつも答えます。
霊感がある、というものではなく、何か感じるものがあるのだと思います。
父の存在を感じたと話す母は幸せそうな様子です。
父は昔から母が大好きな人でした。
母にために何でもしてあげる、と言いながら、
自分勝手な考えで行動していた人です。
母は膝が悪くて、歩くと痛みが出ます。
でも父は毎日、外出したい人でしたので、
「母のために運動をさせている」という理由をつけて連れ出します。
帰ってくると母は私に「足が痛い」「お父さんは自分勝手」とよく電話でこぼしていました。
父は傍から見ても母と離れたがらず「自分の幸せ=母の幸せ」と思い込んでいたのでしょう。
母から愚痴を聞くたびに、私は父を「我儘で母が可哀想」思っていました。
でも、父を亡くした後の母は
・・・お父さんは私のために何でもしてくれた・・・・と話すようになりました。
会うことが叶わなくなって、恋しくなって、姿や声を感じたくなる
それは、長年空気のようでも圧倒的な存在だった人ならば
至極当たり前の感情なんですね。
また、あの世に行った父が今でも母のそばにいたいと言い張っている気もします。
秋のお彼岸は雨続きでまだお墓参りにも来れない母です。
代わりにお墓に行ってくると約束した私ですが
忙しくて!と理由をつけてまだお墓に行けない自分に
後ろめたさを感じる今日この頃です。
父は平成10年の12月に亡くなっています。
その直後から、母は「父の声が聞こえた」「来てくれた」というようになりました。
別に母がおかしくなった訳ではありません。
自分でも「夢なのかしら?」と言っています。
遺族ケアの会でも、同じようなことを話す方がよくいます。
私は「あら、よかったですね」といつも答えます。
霊感がある、というものではなく、何か感じるものがあるのだと思います。
父の存在を感じたと話す母は幸せそうな様子です。
父は昔から母が大好きな人でした。
母にために何でもしてあげる、と言いながら、
自分勝手な考えで行動していた人です。
母は膝が悪くて、歩くと痛みが出ます。
でも父は毎日、外出したい人でしたので、
「母のために運動をさせている」という理由をつけて連れ出します。
帰ってくると母は私に「足が痛い」「お父さんは自分勝手」とよく電話でこぼしていました。
父は傍から見ても母と離れたがらず「自分の幸せ=母の幸せ」と思い込んでいたのでしょう。
母から愚痴を聞くたびに、私は父を「我儘で母が可哀想」思っていました。
でも、父を亡くした後の母は
・・・お父さんは私のために何でもしてくれた・・・・と話すようになりました。
会うことが叶わなくなって、恋しくなって、姿や声を感じたくなる
それは、長年空気のようでも圧倒的な存在だった人ならば
至極当たり前の感情なんですね。
また、あの世に行った父が今でも母のそばにいたいと言い張っている気もします。
秋のお彼岸は雨続きでまだお墓参りにも来れない母です。
代わりにお墓に行ってくると約束した私ですが
忙しくて!と理由をつけてまだお墓に行けない自分に
後ろめたさを感じる今日この頃です。