JR北海道、富良野駅ー旭川を結ぶ、富良野駅に近い。
中富良野のハーブ園「富田フアーム」は、空知川から石狩川流域、道内主要穀倉地帯で、南部の夕張山地や中央部の空知炭鉱の米と石炭二大産業の街であったが、
開拓初期は、樺戸の集治監の囚人を炭鉱や道路開削、開墾に使役させた歴史がある。
1960年代以降、石炭産業は衰退、坑内鑛は閉山が相次ぎ1996年から、露天掘は、11炭鉱すべて、跡地利用の再開発と進められている。
水田は、戦後上流部から南の下流へ拡大され、米の生産高は、全道の60%近くを占めている。が、減反政策により小麦、野菜、花へと転換が
進められてきた。
空知川は、日高北部を水源として夕張山地で峡谷や盆地をつくって、本流石狩川へと注いでいる。
空知川の中流、富良野盆地、芦別河谷平野、赤平谷底平野が開け、ダム、農業灌漑水路、北海灌漑溝の使われ石狩川と注ぐ、長さ173m。
富田フアーム・ハーブ園も、農地からハーブ花畑に。
時期が少し遅かったのでラベンダーは終わり、サルビアの赤と青が今は満開。


1897年に北海道国有未開地処分法が制定され、本州等から北海道へ移住してくる人々が急増、その中にファーム富田の創始者である富田徳馬もいた。
富田徳馬はその後1903年に現在の北海道中富良野町に開墾の鍬を下ろし、その苗字がファームの由来となる。
徳馬の孫、富田忠雄は1953年、当時富良野一帯においてラベンダー栽培の先駆的人物であった上田美一のラベンダー畑に出会い、1958年より香料用としての
ラベンダー栽培を開始。妻と共に開始した畑は10アールの広さにまで及んだ。
その後ラベンダー畑はおよそ1.2haにまで拡大、富良野地方全体でもラベンダーの栽培地域が230ha以上に拡大したが、以降は急激に衰退。
ピーク時にはラベンダー栽培農家が250戸以上・全道のラベンダーオイル生産量も5トンに上っていたが、1972年頃から貿易の自由化が始まって価格の低い
香料が広まり、合成香料の技術が進み始めると、製造していたラベンダーオイルの買い上げの価格も急落。
翌1973年には近隣一帯のラベンダー栽培農家がほぼファーム富田のみとなってしまった。

ポプラ並木のなかを散策。富良野のラベンダー園の中でも1番人気のファーム富田。毎年90万人もの人が訪れ、富田さんはファームを訪れる人を「花人」と呼んでいる。
また富田さんは フランス・オートプロバンスから「ラベンダーナイト」の称号を受けた方としても知られている。
ファーム富田内には「花人の舎」「ドライフラワーの舎」 「ポプリの舎」などがあり見所満載。


十勝岳連峰

「セブンスターの木」
美瑛の風景を代表する景勝スポットで、1976(昭和51)年にはタバコ「セブンスター」のパッケージに登場した。1本のカシワの木が、
広大な畑の中にポツンと立つ風景は、いかにも北海道らしい。パッチワークの路にある、記念撮影の定番スポットだ。

