ウトロで唯一つ港や国道に面して、面白い形をしたオロンコ岩やゴジラ岩がある観光遊覧船乗場。
北海道釧路支庁管内川上郡弟子屈町にある温泉。川湯の名は、アイヌ語のセセキ(熱い)ペツ(川)を意訳したもので、温泉街のなかを高温の温泉川が流れている。
日本でも珍しい『源泉100%かけ流し宣言』をしている温泉街で、リウマチス・糖尿病・皮フ病に効くといわれている温泉として有名。
阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖などの名所がある阿寒国立公園の川湯温泉の一角に、北海道が誇る不世出の大横綱「大鵬」を称えた記念館がある。
大鵬は昭和15年5月29日にロシアのサハリンで生まれ、5歳の時に北海道岩内町に引き揚げ、その後道内を転々とし11歳から16歳までここ川湯で過ごしてる。
「川湯相撲記念館」は、大鵬の偉大な功績を後世に伝えるべく、昭和59年に開館。
大鵬の生い立ちから引退までの半生が数多くの写真で紹介、32枚の優勝額や賜盃のレプリカなど、偉大な功績の証が展示されている。
入館料有料
「48代横綱・大鵬幸喜は、優勝回数32回、戦後最強の横綱、様々な大記録を打ち立てたレコードホルダー。
昭和相撲史の主役であり、「巨人、大鵬、卵焼き」と子ども達からの人気も高かった。
サハリンは日本領であった為、大鵬は外国出身横綱。
終戦直後に北海道に渡るが、当初は小樽まで小笠原丸で行くつもりであったが、幼い大鵬が「降りたい、降りたい」とぐずった為、やむを得ず稚内で船を降りた。
その船「小笠原丸」は、小樽に到達する事なく、魚雷の攻撃で沈没している。
少年時代の苦労は大きく、納豆を販売し家計を助け、営林署に務めながら高校に進学し、二所ノ関部屋の元力士である紅葉山の目に止まりスカウトをされ、入門。
線が細かった為、身体検査をギリギリで通過し昭和51年に初土俵を踏んだ。
川湯神社の横に立派な土俵があった。さすが、横綱大鵬の育った町、神社祭で、恒例の相撲大会が行われるという。
「川湯神社」は、弟子屈町の鎮座、朝の散歩で参拝する。境内には樹齢300年の神木が、地元の人に聞くと明治20年ごろ創建されたと云う。
「御神手湯」の看板が、
手水舎が暑い温泉であった。神社の横の小川から湯気がもくもく立ち昇っていた。
川湯神社本殿 賽銭箱が大きく見えた。
北海道釧路支庁管内川上郡弟子屈町にある温泉。川湯の名は、アイヌ語のセセキ(熱い)ペツ(川)を意訳したもので、温泉街のなかを高温の温泉川が流れている。
日本でも珍しい『源泉100%かけ流し宣言』をしている温泉街で、リウマチス・糖尿病・皮フ病に効くといわれている温泉として有名。
阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖などの名所がある阿寒国立公園の川湯温泉の一角に、北海道が誇る不世出の大横綱「大鵬」を称えた記念館がある。
大鵬は昭和15年5月29日にロシアのサハリンで生まれ、5歳の時に北海道岩内町に引き揚げ、その後道内を転々とし11歳から16歳までここ川湯で過ごしてる。
「川湯相撲記念館」は、大鵬の偉大な功績を後世に伝えるべく、昭和59年に開館。
大鵬の生い立ちから引退までの半生が数多くの写真で紹介、32枚の優勝額や賜盃のレプリカなど、偉大な功績の証が展示されている。
入館料有料
「48代横綱・大鵬幸喜は、優勝回数32回、戦後最強の横綱、様々な大記録を打ち立てたレコードホルダー。
昭和相撲史の主役であり、「巨人、大鵬、卵焼き」と子ども達からの人気も高かった。
サハリンは日本領であった為、大鵬は外国出身横綱。
終戦直後に北海道に渡るが、当初は小樽まで小笠原丸で行くつもりであったが、幼い大鵬が「降りたい、降りたい」とぐずった為、やむを得ず稚内で船を降りた。
その船「小笠原丸」は、小樽に到達する事なく、魚雷の攻撃で沈没している。
少年時代の苦労は大きく、納豆を販売し家計を助け、営林署に務めながら高校に進学し、二所ノ関部屋の元力士である紅葉山の目に止まりスカウトをされ、入門。
線が細かった為、身体検査をギリギリで通過し昭和51年に初土俵を踏んだ。
川湯神社の横に立派な土俵があった。さすが、横綱大鵬の育った町、神社祭で、恒例の相撲大会が行われるという。
「川湯神社」は、弟子屈町の鎮座、朝の散歩で参拝する。境内には樹齢300年の神木が、地元の人に聞くと明治20年ごろ創建されたと云う。
「御神手湯」の看板が、
手水舎が暑い温泉であった。神社の横の小川から湯気がもくもく立ち昇っていた。
川湯神社本殿 賽銭箱が大きく見えた。