1月20日熱海梅園に行きましたが、まだあまり咲いてないからと入場無料でした。
熱海梅園を開設した「茂木 惣兵衛」は、1827~1894 横浜の豪商。高崎から横浜へ、 横浜の基礎をつくった日本一の生糸貿易商、開港間もない横浜で活躍した豪商で、 1859年、幕府はアメリカなど四カ国と修好通商条約を結び、神奈川港など四港を開港。
当時、人影まばらで寂しい漁村でしかなかった横浜が、急に海外貿易の中心港になる。
開港には上州商人が大勢入り、港の商取引を支配したと伝えられている。その中に、茂木惣兵衛の姿が。
惣兵衛は、高崎の質商大黒屋の長男として生まれ、12歳の時に新田郡太田の太物商今井仙七の家に奉公し、才能を認められて支配人に抜擢され、26歳で桐生の絹商人新井長兵衛の養子となって絹取引で幅広い活躍をする。
その後、開港間もない横浜で貿易商として進出していた埼玉県出身の野沢屋庄三郎率いる野沢屋に、生糸貿易の経験を買われて勤め。
1860年に養子として、横浜商人石川屋平右衛門の石川屋を相続、1861年の野沢屋庄三郎の死をきっかけに、一年ほどして野沢屋の暖簾を譲り受け石川屋を野沢屋と改称。
野沢屋惣兵衛と名乗り独立。地道な努力によって幕末の混乱期を乗り切って、1876年には取扱生糸量が生糸売込商人中第一位となり、惣兵衛の存命中ほぼ維持されたといわれます。
生糸輸出を中心に幅広い活躍をし、横浜商人の逸物といわれる豪商になり、その性格は、温厚で謙虚。人相は耳たぶの大きな福耳に特色があったと伝えられている。
横浜銀行、横浜松坂屋、熱海の梅園等で、現代につながる惣兵衛の功績は大きい。惣兵衛は蓄えられた資産を常に公共のために投じている。
その一つが1886年に開設された「熱海の梅園」。
内務省の初代衛生局長である長与専斎がわが国初の温泉療養施設「きゅう汽館」に遊歩公園造成を提唱したのを受けて、惣兵衛が出資し地元の協力を得て完成させている。皇室財産、国有財産を経て、1960年に熱海市に譲渡された。
滝の内側から
滝壺にふきが青々と芽を葺いている
熱海梅園の中にある「韓国庭園」
キムチなど漬物の壺、台所の裏にある
かまど
居室
熱海梅園を開設した「茂木 惣兵衛」は、1827~1894 横浜の豪商。高崎から横浜へ、 横浜の基礎をつくった日本一の生糸貿易商、開港間もない横浜で活躍した豪商で、 1859年、幕府はアメリカなど四カ国と修好通商条約を結び、神奈川港など四港を開港。
当時、人影まばらで寂しい漁村でしかなかった横浜が、急に海外貿易の中心港になる。
開港には上州商人が大勢入り、港の商取引を支配したと伝えられている。その中に、茂木惣兵衛の姿が。
惣兵衛は、高崎の質商大黒屋の長男として生まれ、12歳の時に新田郡太田の太物商今井仙七の家に奉公し、才能を認められて支配人に抜擢され、26歳で桐生の絹商人新井長兵衛の養子となって絹取引で幅広い活躍をする。
その後、開港間もない横浜で貿易商として進出していた埼玉県出身の野沢屋庄三郎率いる野沢屋に、生糸貿易の経験を買われて勤め。
1860年に養子として、横浜商人石川屋平右衛門の石川屋を相続、1861年の野沢屋庄三郎の死をきっかけに、一年ほどして野沢屋の暖簾を譲り受け石川屋を野沢屋と改称。
野沢屋惣兵衛と名乗り独立。地道な努力によって幕末の混乱期を乗り切って、1876年には取扱生糸量が生糸売込商人中第一位となり、惣兵衛の存命中ほぼ維持されたといわれます。
生糸輸出を中心に幅広い活躍をし、横浜商人の逸物といわれる豪商になり、その性格は、温厚で謙虚。人相は耳たぶの大きな福耳に特色があったと伝えられている。
横浜銀行、横浜松坂屋、熱海の梅園等で、現代につながる惣兵衛の功績は大きい。惣兵衛は蓄えられた資産を常に公共のために投じている。
その一つが1886年に開設された「熱海の梅園」。
内務省の初代衛生局長である長与専斎がわが国初の温泉療養施設「きゅう汽館」に遊歩公園造成を提唱したのを受けて、惣兵衛が出資し地元の協力を得て完成させている。皇室財産、国有財産を経て、1960年に熱海市に譲渡された。
滝の内側から
滝壺にふきが青々と芽を葺いている
熱海梅園の中にある「韓国庭園」
キムチなど漬物の壺、台所の裏にある
かまど
居室