syuの日記・気まま旅

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興福寺 五重塔

2014-02-23 | 気まま旅
縄文・高塚遺跡、大淀桜ヶ丘遺跡、布留遺跡、宮滝遺跡。弥生・鍵遺跡、新沢一町遺跡。古墳・桜井メスリ山古墳、佐紀盾列古墳
宮山古墳、見瀬丸山古墳、明日香村高松古墳。588年蘇我馬子法興寺建立。593年聖徳太子摂政(推古一年)。
中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿暗殺。694年持統天皇「藤原宮」に遷都。710年平城京に遷都・藤原不比等春日に氏寺興福寺移す。

登大路町「法相宗」総本山。南都七大寺の一つ。本尊は、釈迦如来。669年藤原鎌足の病気平癒を祈願して、京都山科に建立され「山階寺」に始まる。
その後、厩坂、平城遷都後現在地に移り「興福寺」を号したと云う。

「札所」西国三十三所は、 8 長谷寺 -- 9「興福寺」-- 10 三室戸寺 (南円堂)・ 南都七大寺2番・ 西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道16番。

右猿沢池、左興福寺・鎌倉時代の三重塔は、平安様式。          南大門跡並んで五重塔と続く
    

「藤原鎌足」610-669 大化改新推進者、古代の中央豪族で藤原氏の祖。
中大兄皇子と結び蘇我入鹿を倒す。大織冠を与えられている。天智天皇(中大兄皇子)と大海人皇子との争いを仲裁した話は知られている。
額田王を取り合い争い、酒宴の場で天皇に無礼をし皇子を罰しようとしたが鎌足が押し止めたと云う。
近年、「阿武山古墳」が鎌足の墓と云われている。

平安時代初期までに、中金堂・東金堂・五重塔・北円堂などの諸堂宇がととなっていた。

南円堂、西国33所9番札所・本尊不空羅索観音   銅灯籠                  国宝館
    

藤原氏の氏神である春日社の実権も持っている。平安時代末には、多くの僧兵を抱え、朝廷に対して強訴に及ぶなど強大な力を持ち、
「奈良の法師」と呼ばれて恐れられた。
1180年の兵火では、平重衡による焼き討ちで伽藍のほとんどを焼失するが、鎌倉時代に復興されている。

                     中金堂は工事中
  

仏教の修復新造「無著菩薩・世親菩薩立像」に代表されるような写実的彫刻が多く残されているが全て運慶一派があたっている。
「伽藍と文化財」1717年の火災で講堂・中金堂・中門・南大門・南円堂などを失っている。その後、南円堂は再興されている。

                             本坊
  

伽藍の中心である中金堂は、一世紀後に仮堂が建立、明治の廃仏稀釈は「興福寺」の弱体化に拍車をかけ、「築地塀」は、取り払われた。
一乗院は、没収され多くの建築物は、売却されるなど、廃寺同然の状態となった。

                            東金堂
    

神仏分離で「春日社」とも分けられ、旧興福寺境内と猿沢池、その周辺は奈良公園として再生されている。現在の寺域は、旧境内。

国宝ー北円堂・三重塔・五重塔・東金堂など、重文ー大湯屋など堂宇が残る。北円堂は、鎌倉時代造営の八角堂で、運慶作の弥勒仏、
無著菩薩、世親菩薩などを安置する。
猱沢池と五重塔が良く合うが1426年再建されている。五重塔は、東寺に次ぐ高さでやく50m。東金堂は、1415年再建で天平古様式をつたえ、
堂内に国宝の「木造維摩居士坐像・文殊菩薩坐像」など安置。
西金堂に国宝阿修羅像が(知名度高い)、、、、、他にも多数の国宝・重文が残されている。一部国宝館に保存されている。

巡礼参詣者が多い   會津八一氏は、奈良の古跡古美術を詠んだ歌人、古刹寺院を中心に歌碑が建立されている。その一つ
  

明治に入り、「廃仏毀釈」が騒がれた頃、「興福寺の五重塔や三重塔」が破格の値段、叩き売り状態で売りに出された。
興福寺は宗名や寺号を名乗ることも許されず、境内以外全て没収されるという窮地に立たされ、廃寺同様に、買い手のついた五重塔は、薪の材料にされかかり、それを奈良町の人々の大反対により、なんとか薪材になることを逃れた。
興福寺の再興が熱心に願われ、明治14年にようやく寺号の複合が許された。
翌年には管理する権利が興福寺に返され、再興への道を歩み、後年には「世界遺産」に登録されるまでに。
奈良県には、社寺などの歴史を見ると、幾度も焼失したり、歴史の中で翻弄されて、悲しい軌跡を歩んでいるものが多い。

ライトアップされた五重塔                おん祭で遅くまで猿沢池は賑わっていた。
  

次回は、市内の志賀直哉旧宅へ。