奈良は710年の平城京への遷都に始まるが、それ以前の弥生時代から盆地部に人々は生活している「佐紀楯列古墳群」春日山山麓を中心に和田春日系の氏族・菅原、秋篠土師氏・渡米系の氏族など居住していた。
平城遷都は、「藤原不比等」らの主導で行われ、70年の間奈良に都が置かれた。
その奈良駅に着いたのが5時を過ぎていた。
JR奈良駅から奈良公園方面に、東の延びる「三条通り」の中心街路で、特に今日は、
世界遺産・春日大社の「春日若宮おん祭」で大勢の人で「三条通り」は、人で溢れていた。
平安末期、保延2年(1136年)に、関白藤原忠通が五穀豊穣を祈るために始めた祭礼で歴史がある。国の重要無形民俗文化財に指定、
今年で878回目を数えると云う。
今日は17日で「お渡り式」、地域の学校は休校になると云う。
見る事が出来なかったが、平安期から江戸期代までの時代装束で着飾った大行列が市内を練り歩き、又神楽・舞楽などの神事芸能が行われた。
地元では、年末行事の「春日若宮おん祭」でお正月準備に入ると云われ、一年を締めくくる大事の行事となっている。
奈良駅 駅前広場 伝統を踏まえた格調高い三条通り

藤原不比等 659-720 太政大臣、養老律令撰定推進者、鎌足の子、天武天皇が後援し、蘇我連子の娘と娶せ、持統朝に国政を担い、律令
制定や官制の整備に関与・文武朝に大納言・和銅元年右大臣に進んでいる。太政大臣・正一位は不比等没後追贈されている。
藤原忠通 1097~1164 平安後期の公卿・歌人。摂政関白藤原忠実の長男。慈円の父。藤原氏の氏長者として摂政・関白・太政大臣となる。
一度は氏長者の地位を弟頼長に奪われたが、保元の乱で頼長を倒して回復した。書にも優れ、法性寺流を開いた。
「大宿所祭」
大宿所とは、昔、おん祭に参勤する大和士がお祭に先立ってここに泊まりこみ、精進潔斎をした場所。
その際、当日の行列に必要な装束や武具等を飾り、若宮神への奉賽として各自持参した鳥、獣、魚等を前庭に飾り立てるのが懸物。
町挙げての春日大社 「おん祭」屋台が両側に

「田楽座宵宮詣」・「宵宮祭」若宮神社拝舎で行われ、神楽殿で社伝の御巫神楽があげられる。
「遷幸の儀」
二基の大松明を先導に、宮司の奉持する御神霊を、数十名の神職が榊を手に人垣でこれを囲み、口に警蹕を唱え一団となって進む。
伶人が道楽を奏しながらこれに続き、表参道を1キロ余り西のお旅所まで神様をお遷し申し上げます。 約50分を要する神幸。
「猿沢池」は、奈良公園にある周囲360 メートルの池。興福寺五重塔が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢 池月」 は南都八景のひとつとなっている。池の周りに、電灯屋台が

平安時代以降から現在の「奈良」であるが、以前は「平城」で「なら」と云っていた。
「お渡り式」
平安時代から江戸時代に至る風俗を満載した伝統行列がお旅所まで練り歩く。
途中、興福寺南大門前石段に並ぶ衆徒(僧兵)の前で交名の儀が、次に一之鳥居を入った影向の松の下で松の下の儀と呼ばれる儀礼的所作が行われ、三条通りに。
「御旅所祭」
おん祭の中心的祭典で、お染御供と呼ばれる美しく飾り立てた神饌等が捧げられ、宮司や日使の奉幣、祝詞奏上の後、行列に加わった各座等の代表の拝礼があり、引き続き社伝神楽、東遊、田楽、細男、猿楽、和舞、そして11曲の舞楽が23時頃まで続きます。
参道では競馬、流鏑馬が行われる。
西国9番札興福寺南円堂階段付近、

遷幸の儀と同様にお旅所から若宮神社まで神様をお遷し申し上げます。
「奉納相撲」
奈良県相撲連盟、奈良市体育協会、奈良市相撲協会の協力のもと執行されます。
「後宴能」
お旅所の芝舞台で能2番、狂言1番が仮御殿を背に行われ、28日、「御煤払式」。31日、「年越大祓式」識らずしらずのうちに身についた罪や一年間の穢れを祓い去り、新年を清らかな心身で迎える。
春日大社手前の「飛火野」で伝統儀式

三条通りは、ホテル、銀行、商店などが建ち並び、これに直交する狭い東向通りと餅飯殿通りの小さな店が並んでいる。
街並みにも多数の貴重な文化財が残っている。
猿沢池の南の元興寺界隈が奈良町、ここには江戸・明治の古い街並が残り、屋根裏物置、切妻造り、桟瓦ぶき等の家屋が集中している。
「大宿所」とは、昔、おん祭に参勤する大和士がお祭に先立ってここに泊まりこみ、精進潔斎をした場所。
その際、当日の行列に必要な装束や武具等を飾り、若宮神への奉賽として各自持参した鳥、獣、魚等を前庭に飾り立てるのが懸物。

東向商店街を抜けると「近鉄奈良駅」
古い街並も、都市化に押され年々減少で、街造りと開発の調和に大きな課題があると云う。
数十名の神職が榊を手に人垣で囲み、口に警蹕を唱え一団となって進む、神様をお遷し申し上げると云う神幸。

次回は、奈良公園から春日大社へ。
平城遷都は、「藤原不比等」らの主導で行われ、70年の間奈良に都が置かれた。
その奈良駅に着いたのが5時を過ぎていた。
JR奈良駅から奈良公園方面に、東の延びる「三条通り」の中心街路で、特に今日は、
世界遺産・春日大社の「春日若宮おん祭」で大勢の人で「三条通り」は、人で溢れていた。
平安末期、保延2年(1136年)に、関白藤原忠通が五穀豊穣を祈るために始めた祭礼で歴史がある。国の重要無形民俗文化財に指定、
今年で878回目を数えると云う。
今日は17日で「お渡り式」、地域の学校は休校になると云う。
見る事が出来なかったが、平安期から江戸期代までの時代装束で着飾った大行列が市内を練り歩き、又神楽・舞楽などの神事芸能が行われた。
地元では、年末行事の「春日若宮おん祭」でお正月準備に入ると云われ、一年を締めくくる大事の行事となっている。
奈良駅 駅前広場 伝統を踏まえた格調高い三条通り



藤原不比等 659-720 太政大臣、養老律令撰定推進者、鎌足の子、天武天皇が後援し、蘇我連子の娘と娶せ、持統朝に国政を担い、律令
制定や官制の整備に関与・文武朝に大納言・和銅元年右大臣に進んでいる。太政大臣・正一位は不比等没後追贈されている。
藤原忠通 1097~1164 平安後期の公卿・歌人。摂政関白藤原忠実の長男。慈円の父。藤原氏の氏長者として摂政・関白・太政大臣となる。
一度は氏長者の地位を弟頼長に奪われたが、保元の乱で頼長を倒して回復した。書にも優れ、法性寺流を開いた。
「大宿所祭」
大宿所とは、昔、おん祭に参勤する大和士がお祭に先立ってここに泊まりこみ、精進潔斎をした場所。
その際、当日の行列に必要な装束や武具等を飾り、若宮神への奉賽として各自持参した鳥、獣、魚等を前庭に飾り立てるのが懸物。
町挙げての春日大社 「おん祭」屋台が両側に


「田楽座宵宮詣」・「宵宮祭」若宮神社拝舎で行われ、神楽殿で社伝の御巫神楽があげられる。
「遷幸の儀」
二基の大松明を先導に、宮司の奉持する御神霊を、数十名の神職が榊を手に人垣でこれを囲み、口に警蹕を唱え一団となって進む。
伶人が道楽を奏しながらこれに続き、表参道を1キロ余り西のお旅所まで神様をお遷し申し上げます。 約50分を要する神幸。
「猿沢池」は、奈良公園にある周囲360 メートルの池。興福寺五重塔が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢 池月」 は南都八景のひとつとなっている。池の周りに、電灯屋台が



平安時代以降から現在の「奈良」であるが、以前は「平城」で「なら」と云っていた。
「お渡り式」
平安時代から江戸時代に至る風俗を満載した伝統行列がお旅所まで練り歩く。
途中、興福寺南大門前石段に並ぶ衆徒(僧兵)の前で交名の儀が、次に一之鳥居を入った影向の松の下で松の下の儀と呼ばれる儀礼的所作が行われ、三条通りに。
「御旅所祭」
おん祭の中心的祭典で、お染御供と呼ばれる美しく飾り立てた神饌等が捧げられ、宮司や日使の奉幣、祝詞奏上の後、行列に加わった各座等の代表の拝礼があり、引き続き社伝神楽、東遊、田楽、細男、猿楽、和舞、そして11曲の舞楽が23時頃まで続きます。
参道では競馬、流鏑馬が行われる。
西国9番札興福寺南円堂階段付近、



遷幸の儀と同様にお旅所から若宮神社まで神様をお遷し申し上げます。
「奉納相撲」
奈良県相撲連盟、奈良市体育協会、奈良市相撲協会の協力のもと執行されます。
「後宴能」
お旅所の芝舞台で能2番、狂言1番が仮御殿を背に行われ、28日、「御煤払式」。31日、「年越大祓式」識らずしらずのうちに身についた罪や一年間の穢れを祓い去り、新年を清らかな心身で迎える。
春日大社手前の「飛火野」で伝統儀式


三条通りは、ホテル、銀行、商店などが建ち並び、これに直交する狭い東向通りと餅飯殿通りの小さな店が並んでいる。
街並みにも多数の貴重な文化財が残っている。
猿沢池の南の元興寺界隈が奈良町、ここには江戸・明治の古い街並が残り、屋根裏物置、切妻造り、桟瓦ぶき等の家屋が集中している。
「大宿所」とは、昔、おん祭に参勤する大和士がお祭に先立ってここに泊まりこみ、精進潔斎をした場所。
その際、当日の行列に必要な装束や武具等を飾り、若宮神への奉賽として各自持参した鳥、獣、魚等を前庭に飾り立てるのが懸物。


東向商店街を抜けると「近鉄奈良駅」
古い街並も、都市化に押され年々減少で、街造りと開発の調和に大きな課題があると云う。
数十名の神職が榊を手に人垣で囲み、口に警蹕を唱え一団となって進む、神様をお遷し申し上げると云う神幸。


次回は、奈良公園から春日大社へ。