9・10月は、雄鹿の角が大きく硬くなる、雄鹿の立派な角も人間に怪我を負わすので秋の風物詩「角伐り」がある。鑑賞席がも置けられ
男達の取り押さえ奮闘を見る事が出来る。
県指定文化財の「翁舞」豆比古神社も10月、談山神社の「蹴鞠祭」が11月。若草山「山焼き」が1月中旬。大安寺「光仁会」(光仁天皇
62歳皇位開運長寿の行事が1月下旬。「鬼追う式」興福寺が2月。西日本四大性神事飛鳥坐神社の「おんだ祭」(縁結び子宝で知られている)2月上旬。「チャンチャン祭」大和神社4月と奈良ならではの古式伝統行事が行われている。
3月に行われる「修二会・お水取り」は、東大寺二月堂本尊十一面観音の前で、東大寺僧侶が、全ての人の罪を懺悔し、国家の安泰と万民の
幸せを祈る法要が「修二会」。
752年に実忠和尚が笠置山の竜穴で菩薩の行法を見た事から、二月堂を建立し旧暦の2月に始めたと云う。
古代インドの火法とも云われる荒行で、400kgものの大松明を手にした修行僧が、二月堂内を駆け回る様子は勇壮。
「行基」668-749 奈良時代の百済系渡來氏族出の僧侶。法相宗の道昭のもとで学ぶ、師の影響にとって、社会事業で人々を救おうとした。
広く諸国を巡り、僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船2・池15・溝7・堀川4・直道1など造ったと云う。
朝廷は、勝手に民間を遊行する行基の一行は、寺院寂居の僧侶の掟に背くと云って弾圧したが、朝廷は行基を招き入れ、大仏建立をする。
最後は、大僧正に任じられている。
「行基年譜」で行跡を記している。行基以降僧侶の民間布教は出ていない。
近鉄奈良駅前 「行基」像
世界遺産「東大寺」は、奈良公園北東華厳宗総本山。
南部七大寺の一つ、本尊は、像高さ14.87m国宝銅造盧舎那仏坐像「大仏」で、奈良の大仏さんの名で親しまれている。
平城京の東方に建てられた官大寺と云う意味と云う。
聖徳太子の発願で「光明皇后」の勧めにより建立されたと云われている。
光明皇后 701-760 聖武天皇の皇后・藤原不比等3女、甥の藤原仲麻呂を引き立て、支配する紫微中台は、太政官を凌ぐ権威を持つようになり紫微令の仲麻呂の専制が行われた。皇后は、病人を救う、施薬院と孤児院の「悲田院」を設置し、仏教の教えによって千人風呂を設け
千人の体を清め、千人目の病人の体を洗っている。その病人は、仏の姿になったと云い伝わる。
聖武天皇と仲良く仏教興に尽くした。2人は佐保山稜に合葬された。
世界遺産・古都奈良文化財 「東大寺」
大仏の造営は、743年紫香楽宮(滋賀県)造営の最中に、金剛盧舎那大仏像造立の詔が発せられ、平城遷都後の747年、大和国の金鐘寺
の地で造立が再開されている。
741年全国国分寺の中心となり、総国分寺と呼ばれた。金光明四天王護国寺とも云い、国家鎮護記念法灯を伝えている。
若草山と大仏殿は奈良のシンボル、 我が国代表の大寺天平~鎌倉の仏像群が
奈良時代、寺社中最大の封戸と墾田を有する勢力を持った「盧舎那仏」は、「法華経」の宇宙である蓮華蔵世界を統一する仏で、
大仏造営勧進の役は、僧「行基」が命ぜられている。
国家的大事業で、銅13万3千貫約500t・錫・練金・水銀・炭などが使われいる。流し込み作業で749年完成。
752年に開眼供養が営まれた。金色に輝いた大仏であったと云う。
平安時代の地震で頭部が落下している・1180年「平 重衝」の焼き討ちにあっている・1567年兵火で仏殿炎上等があったが、
徳川綱吉・母桂昌院等の援助で1692年現在の大仏殿が完成し現在に。
東西相対して「運慶」・「快慶」の作とされる阿吽一対の国宝乾漆金剛力士立像
本尊盧舎那大仏の東方に木造妙意観世音、盧空蔵菩薩坐像を脇侍に、四天王像の内広目天・多聞天立像を安置し、南面して建ち、南方正面
に南中門がある。大仏殿前には、寺創建当初の国宝八角燈籠が置かれている。
南大門は寺の正面
大仏殿東側、二月堂・三月堂・四月堂が立つ、三月堂背後に「お水取り」で知られている。
木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)
大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造である。京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。
如意輪観音像は 1738年ごろの完成、虚空蔵菩薩像は遅れて 1752年の完成。
南大門 銅灯籠 大仏殿
多聞天像(金堂東北隅)・広目天像(金堂西北隅)・虚空蔵菩薩像(重要文化財)・意輪観音菩薩像(重要文化財)・金銅八角燈籠(国宝)
金銅八角燈籠の音声(おんじょう)菩薩像(西北面)など多数ある。
大仏殿世界最大の木造建築 これで創建時の三分の二 東大寺の本尊「大仏」
「正倉院」東大寺境内にある宝物庫。は、工事中で休館していた。
正倉院は、元来、寺院の倉庫の一画を指していたが、現在正倉院のみが存在し、檜造り、で単層、寄棟本瓦葺、高床式、校倉造りで、
間口33m奥行9.4m床下2.7m南北両倉と、両倉を繋ぐ中倉からなる一棟三倉の建物で、二階建、建築年代は不明と云う。
「正倉院」 講堂あと北西にある宝物公開10月
8世紀中ごろと云われている。
宝物は、聖武天皇遺品、武具、文具、古文書類、中国製品、西アジア、ギリシア、ローマなど9000点あると云う。
工事
大正2年の解体修理以来、約100年ぶりの大修理となる正倉院の屋根瓦葺き替え工事。
4年に及ぶ工事期間中、正倉院外構の一般公開は休止されていますが、この工事期間中に現場公開が実施されているとの事。
広々とした正倉院前 (朝から雨)
次回は、東大寺三月堂へ。
男達の取り押さえ奮闘を見る事が出来る。
県指定文化財の「翁舞」豆比古神社も10月、談山神社の「蹴鞠祭」が11月。若草山「山焼き」が1月中旬。大安寺「光仁会」(光仁天皇
62歳皇位開運長寿の行事が1月下旬。「鬼追う式」興福寺が2月。西日本四大性神事飛鳥坐神社の「おんだ祭」(縁結び子宝で知られている)2月上旬。「チャンチャン祭」大和神社4月と奈良ならではの古式伝統行事が行われている。
3月に行われる「修二会・お水取り」は、東大寺二月堂本尊十一面観音の前で、東大寺僧侶が、全ての人の罪を懺悔し、国家の安泰と万民の
幸せを祈る法要が「修二会」。
752年に実忠和尚が笠置山の竜穴で菩薩の行法を見た事から、二月堂を建立し旧暦の2月に始めたと云う。
古代インドの火法とも云われる荒行で、400kgものの大松明を手にした修行僧が、二月堂内を駆け回る様子は勇壮。
「行基」668-749 奈良時代の百済系渡來氏族出の僧侶。法相宗の道昭のもとで学ぶ、師の影響にとって、社会事業で人々を救おうとした。
広く諸国を巡り、僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船2・池15・溝7・堀川4・直道1など造ったと云う。
朝廷は、勝手に民間を遊行する行基の一行は、寺院寂居の僧侶の掟に背くと云って弾圧したが、朝廷は行基を招き入れ、大仏建立をする。
最後は、大僧正に任じられている。
「行基年譜」で行跡を記している。行基以降僧侶の民間布教は出ていない。
近鉄奈良駅前 「行基」像
世界遺産「東大寺」は、奈良公園北東華厳宗総本山。
南部七大寺の一つ、本尊は、像高さ14.87m国宝銅造盧舎那仏坐像「大仏」で、奈良の大仏さんの名で親しまれている。
平城京の東方に建てられた官大寺と云う意味と云う。
聖徳太子の発願で「光明皇后」の勧めにより建立されたと云われている。
光明皇后 701-760 聖武天皇の皇后・藤原不比等3女、甥の藤原仲麻呂を引き立て、支配する紫微中台は、太政官を凌ぐ権威を持つようになり紫微令の仲麻呂の専制が行われた。皇后は、病人を救う、施薬院と孤児院の「悲田院」を設置し、仏教の教えによって千人風呂を設け
千人の体を清め、千人目の病人の体を洗っている。その病人は、仏の姿になったと云い伝わる。
聖武天皇と仲良く仏教興に尽くした。2人は佐保山稜に合葬された。
世界遺産・古都奈良文化財 「東大寺」
大仏の造営は、743年紫香楽宮(滋賀県)造営の最中に、金剛盧舎那大仏像造立の詔が発せられ、平城遷都後の747年、大和国の金鐘寺
の地で造立が再開されている。
741年全国国分寺の中心となり、総国分寺と呼ばれた。金光明四天王護国寺とも云い、国家鎮護記念法灯を伝えている。
若草山と大仏殿は奈良のシンボル、 我が国代表の大寺天平~鎌倉の仏像群が
奈良時代、寺社中最大の封戸と墾田を有する勢力を持った「盧舎那仏」は、「法華経」の宇宙である蓮華蔵世界を統一する仏で、
大仏造営勧進の役は、僧「行基」が命ぜられている。
国家的大事業で、銅13万3千貫約500t・錫・練金・水銀・炭などが使われいる。流し込み作業で749年完成。
752年に開眼供養が営まれた。金色に輝いた大仏であったと云う。
平安時代の地震で頭部が落下している・1180年「平 重衝」の焼き討ちにあっている・1567年兵火で仏殿炎上等があったが、
徳川綱吉・母桂昌院等の援助で1692年現在の大仏殿が完成し現在に。
東西相対して「運慶」・「快慶」の作とされる阿吽一対の国宝乾漆金剛力士立像
本尊盧舎那大仏の東方に木造妙意観世音、盧空蔵菩薩坐像を脇侍に、四天王像の内広目天・多聞天立像を安置し、南面して建ち、南方正面
に南中門がある。大仏殿前には、寺創建当初の国宝八角燈籠が置かれている。
南大門は寺の正面
大仏殿東側、二月堂・三月堂・四月堂が立つ、三月堂背後に「お水取り」で知られている。
木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)
大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造である。京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。
如意輪観音像は 1738年ごろの完成、虚空蔵菩薩像は遅れて 1752年の完成。
南大門 銅灯籠 大仏殿
多聞天像(金堂東北隅)・広目天像(金堂西北隅)・虚空蔵菩薩像(重要文化財)・意輪観音菩薩像(重要文化財)・金銅八角燈籠(国宝)
金銅八角燈籠の音声(おんじょう)菩薩像(西北面)など多数ある。
大仏殿世界最大の木造建築 これで創建時の三分の二 東大寺の本尊「大仏」
「正倉院」東大寺境内にある宝物庫。は、工事中で休館していた。
正倉院は、元来、寺院の倉庫の一画を指していたが、現在正倉院のみが存在し、檜造り、で単層、寄棟本瓦葺、高床式、校倉造りで、
間口33m奥行9.4m床下2.7m南北両倉と、両倉を繋ぐ中倉からなる一棟三倉の建物で、二階建、建築年代は不明と云う。
「正倉院」 講堂あと北西にある宝物公開10月
8世紀中ごろと云われている。
宝物は、聖武天皇遺品、武具、文具、古文書類、中国製品、西アジア、ギリシア、ローマなど9000点あると云う。
工事
大正2年の解体修理以来、約100年ぶりの大修理となる正倉院の屋根瓦葺き替え工事。
4年に及ぶ工事期間中、正倉院外構の一般公開は休止されていますが、この工事期間中に現場公開が実施されているとの事。
広々とした正倉院前 (朝から雨)
次回は、東大寺三月堂へ。