syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

志賀直哉旧居 高幡サロン

2014-02-25 | 気まま旅

「奈良下の禰宣道」は、奈良公園から春日大社を経て高畑→頭塔→奈良町に、 下の禰宣道は、「ささやきの小径」として散策路になっている。 鹿の親子が飛び出してきた。
山道を抜けると、志賀直哉旧居。


「志賀直哉」1883-1971 独自のリアリズムを形成した小説家。
宮城県の名家、学習院に学び、東大文学部中退、学習院時代の武者小路実篤らと雑誌白樺・創刊、第一号「網走まで」、次いで
「大津順吉」「留女」等と続き写実描写によって純粋な自我を感じさせる短編を発表。父と対立し尾道・松江等転々として千葉県に落ち着き父と不和解消。
「和解」「暗夜行路」刊行を始め、奈良に住む、文化勲章受賞する。

志賀直哉は1910年に「白樺」を創刊、実父との対立から広島県尾道に住み、夏目漱石の奨めにより後に「暗夜行路」の原型となる「時任謙作」を執筆している。

1913年には上京していたが、同年8月に里見と芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰る途中、線路の側を歩いていて山手線の電車に後からはね飛ばされ重傷を負う。

東京病院に暫く入院して助かったが、療養のために兵庫県にある城崎温泉「三木屋」という旅館に宿泊。その後は松江や京都など各地を点々とし、1914年には結婚する。
1917年には「佐々木の場合」「好人物の夫婦」「赤西蠣太の恋」などの作品を発表し、同年10月には実父との和解が成立。
事故に際した自らの体験から徹底した観察力で生と死の意味を考え執筆され、簡素で無駄のない文体と適切な描写で無類の名文とされている。

あらすじは、東京山手線の電車にはねられ怪我をした「自分」は、後養生に兵庫県の城崎温泉を訪れる。
「自分」は一匹の蜂の死骸に、寂しいが静かな死への親しみを感じ、首に串が刺さった鼠が石を投げられ、必死に逃げ惑っている姿を見て死の直前の動騒が恐ろしくなる。
そんなある日、何気なく見た小川の石の上にイモリがいた。

驚かそうと投げた石がそのイモリに当って死んでしまう。哀れみを感じると同時に生き物の淋しさを感じている「自分」。これらの動物達の死と生きている自分について考え、生きていることと死んでしまっていること、それは両極ではなかったという感慨を持つ。そして命拾いした「自分」を省みる。

深い森に囲まれて森林浴、アセビの名所の散歩道。人通りが少なくひっそり、歴史も深く、静かに歩きたいときには「下の禰宜道」
    

1929年に竣工した志賀直哉自らが設計したとされる和洋中折衷住宅。
モダンな食堂兼娯楽室とサンルームと庭園を備え、多くの文人画家の集いの場となっていたから、彼らの間で「高畑サロン」と呼ばれた。

書斎は、天井が葦張りの数奇屋作りで窓から和風庭園と借景である若草山の眺望をうることができる。
ここで「暗夜行路」、「鳥取」、「雪の遠足」、「リズム」、「万歴赤絵」、「日曜日」、「颱風」、「豊年虫」 などの作品が書き上げられた。2008年から当時(昭和初期)の姿に復元する改修工事が。

「下の禰宜道」を抜けると、志賀直哉旧居
  

志賀直哉旧居 (奈良市高畑)は、小説家志賀直哉の旧居「高畑サロン」とも呼ばれ、一般公開されている。
奈良文化女子短期大学のセミナーハウスとしても使用されている。

直哉は、奈良の文化財と自然を愛し、自ら希望して、
    

1925年(大正14年) 京都山科から奈良市幸町に転居。昭和4年 奈良市幸町から上高畑に転居。昭和12年 「暗夜行路」を完結する。

1938年(昭和13年) 上高畑から鎌倉に転居。

関西一円の古美術行脚を                 奈良京都を中心に
    

開館時間  AM8:40~PM4:30、(休館日 - 木曜)。
竣工 1929年、 構造は、 木造、数寄屋造、 敷地面積 1,440m²、 延床面積 - 442m²。

志賀直哉一家揃って                  中庭
  

奈良福井の大師「不空院」は、鑑真の住坊跡に建立された寺院と伝え、810 - 824年には空海が興福寺南円堂(八角円堂)建立に先立ち、その雛形を当寺に建てたという。
鎌倉時代には西大寺の叡尊、興福寺の円晴、唐招提寺の覚盛、西方院(唐招提寺子院)の有厳が当院で戒律を講じたという。
室町時代には興福寺の二大院家の1つの大乗院の末寺となっていた。
近世は本堂に弁才天が安置されていること、また院号の「不空院」が転じて「福院」とも呼ばれたことで、「かけこみ寺」として奈良町の芸妓達の信仰を集めていたと云う。
1854年の安政の大地震で堂宇が倒壊。大正年間に三谷弘厳によって再興された。

奈良福井の大師                  「不空院」
  

萩の古寺「新薬師寺」
聖武天皇眼病平癒祈願の為、747年に光明皇后が建立したとあるが確かな事は解っていない。
堂には、薬師如来(国宝)と十二神将11体が安置されている。

薬師如来は、平安初期の一本造りで、大きな目が特徴の魅力的な風貌の仏様。本尊を守る十二神将は、躍動的な造形美の天平仏である。
この寺独特の仏で知られている。(撮影禁)入場料600円。

新薬師寺                   古い山門
    

新薬師寺は、創建時、金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったと云う。
が、次第に衰退した。「続日本紀」によれば、780年の落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼している。
また、962年に台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊し、以後、復興はしたものの、往時の規模に戻ることはなかったと云う。
現在の本堂は様式からみて奈良時代の建築だが、本来の金堂ではなく、他の堂を転用したもので、現本尊の薬師如来像は様式・技法上、平安時代初期の制作とするのが一般的だが、本堂建立と同時期までさかのぼる可能性も指摘されている。
1180年の平重衡の兵火で、東大寺、興福寺は主要伽藍を焼失したが、新薬師寺は焼け残った。
鎌倉時代には華厳宗中興の祖である明恵が一時入寺し、復興に努め、現存する本堂以外の主要建物は鎌倉時代のものであると云う。

「南都鏡神社」は、新薬師寺に隣接している。
社伝には、遣唐使発遣の祈祷所であった当地に平城 天皇即位の大同元年 806年 新薬師寺鎮守として創祠されたとある。
祭神は天照皇大神 、藤原広嗣公、地主神で、本殿は奈良市指定文化財。

新薬師寺に隣接                  南都鏡神社
    

「開化天皇春日率川坂上陵」が、駅前三条通りにある。
代数は、第9代天皇、開化天皇。父 孝元天皇・母 皇后欝色謎命  陵 名「春日川坂上陵」、陵形は、前方後円 。
所在地は、市油阪町。

三条通り商店街・ホテルの間に            「開化天皇陵」
  

次回は、近鉄線二つ目「西大寺」方面に。