「御香宮神社」伏見地区の産土神。
神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。
神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集め、社務所内に小堀政一(遠州)が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設している。
豊臣秀吉は、伏見城築城の際に神社を城内に移し、鬼門の守護神とした。
現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定。
徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。
表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。
酒どころとして有名な京都・伏見。 名水が湧き出る地であることから、かつて「伏水」と呼ばれ、その名水を使ったお酒の製造が今日でも盛んに行われている。日本の名水百選に選ばれた「御香水」がある神社に参拝
御香宮神社楼門(伏見城の大手門) 拝殿
862年に社殿を修造記録があり、伝承によると、
境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。
実際には菟芸泥赴によると、「筑前国糟谷郡の香椎御宮から神功皇后を勧請し皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す「とあり筑紫の香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力であるが神社側は説の一つにに過ぎないとして否定していると云う。
湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。
12月中卯日 醸造初神事が行われる。伏見は、酒処で大手酒造・中小酒造が集中している。
月桂冠・黄桜等の献上樽酒 社殿との廊下
重要文化財 は、本殿 - 徳川家康の命令で建立、極彩色の彫刻が復元された。 表門(旧伏見城大手門) - 元和8年(1622年)徳川頼房の寄進によって建立。中国の二十四孝の蟇股がある。 金熨斗付太刀 - 備前長光が作ったとされる。
その他 拝殿 - 京都府指定有形文化財、1625年、徳川頼宣の寄進によって建立による割拝殿の構造となっている建物。
中国の登龍門の故事に基づいた極彩色彫刻が唐破風元にある。 算額 -1863年 西岡天極斎奉納、絵馬堂に掲額。
算額 - 1683年 山本宗信奉納(復元)、 絵馬堂に掲額など。
龍馬も来たであろう境内
明治元年(1868年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となった。
明治はここから 戊辰戦争の傷跡も
「伏見義民事蹟」の碑
1779年に奉行となった「小堀政方」は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものがあったと云う。
「文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛」の7人は、
奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を坐視するに忍びず、苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に直訴した。
このため、1785年、政方は奉行を罷免されたが、九助ら7人も獄中で相ついで病死した。
この碑は明治20年に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。
毎年5月18日には伏見儀民顕彰会によって慰霊祭が執行される。
末社 伏見義民事蹟
「京橋」付近
豊臣秀吉の伏見城築城に際し開港され、江戸時代には、三十石船、二十石船、十五石船、高瀬船など2千隻もの船舶が往来し港町として賑わいました。
これらの船は幕府公認の通航証を持った過書船と言い、1611年、角倉了以が、二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を開削し、更に水路を南浜迄延ばし、港は水上交通の要となり大小の船が集中するようになり発展。
京橋付近が伏見港の中心地で参勤交代の西国大名の本陣や脇本陣が置かれ、宿場町としても多くの旅人で賑わった。
街の中
次回は、龍馬通りへ。