syuの日記・気まま旅

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御香宮と伏見の街

2014-02-10 | 気まま旅

「御香宮神社」伏見地区の産土神。
神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。
神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集め、社務所内に小堀政一(遠州)が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設している。

豊臣秀吉は、伏見城築城の際に神社を城内に移し、鬼門の守護神とした。
現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定。

徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。

表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。

酒どころとして有名な京都・伏見。 名水が湧き出る地であることから、かつて「伏水」と呼ばれ、その名水を使ったお酒の製造が今日でも盛んに行われている。日本の名水百選に選ばれた「御香水」がある神社に参拝


御香宮神社楼門(伏見城の大手門)                        拝殿
  

862年に社殿を修造記録があり、伝承によると、
境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。
実際には菟芸泥赴によると、「筑前国糟谷郡の香椎御宮から神功皇后を勧請し皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す「とあり筑紫の香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力であるが神社側は説の一つにに過ぎないとして否定していると云う。

湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。


12月中卯日 醸造初神事が行われる。伏見は、酒処で大手酒造・中小酒造が集中している。

月桂冠・黄桜等の献上樽酒                           社殿との廊下
    

重要文化財 は、本殿 - 徳川家康の命令で建立、極彩色の彫刻が復元された。 表門(旧伏見城大手門) - 元和8年(1622年)徳川頼房の寄進によって建立。中国の二十四孝の蟇股がある。 金熨斗付太刀 - 備前長光が作ったとされる。

その他 拝殿 - 京都府指定有形文化財、1625年、徳川頼宣の寄進によって建立による割拝殿の構造となっている建物。
中国の登龍門の故事に基づいた極彩色彫刻が唐破風元にある。 算額 -1863年 西岡天極斎奉納、絵馬堂に掲額。
算額 - 1683年 山本宗信奉納(復元)、 絵馬堂に掲額など。

龍馬も来たであろう境内
    

明治元年(1868年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となった。

明治はここから                    戊辰戦争の傷跡も
    

「伏見義民事蹟」の碑
1779年に奉行となった「小堀政方」は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものがあったと云う。
「文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛」の7人は、
奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を坐視するに忍びず、苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に直訴した。
このため、1785年、政方は奉行を罷免されたが、九助ら7人も獄中で相ついで病死した。
この碑は明治20年に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。
毎年5月18日には伏見儀民顕彰会によって慰霊祭が執行される。

末社                         伏見義民事蹟
    

「京橋」付近
豊臣秀吉の伏見城築城に際し開港され、江戸時代には、三十石船、二十石船、十五石船、高瀬船など2千隻もの船舶が往来し港町として賑わいました。
これらの船は幕府公認の通航証を持った過書船と言い、1611年、角倉了以が、二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を開削し、更に水路を南浜迄延ばし、港は水上交通の要となり大小の船が集中するようになり発展。
京橋付近が伏見港の中心地で参勤交代の西国大名の本陣や脇本陣が置かれ、宿場町としても多くの旅人で賑わった。

街の中
   



次回は、龍馬通りへ。 

明治天皇・皇后陵

2014-02-10 | 気まま旅
「明治天皇陵」
122代・明治天皇ー1867 - 1912年( 慶応2年 - 明治45年)、名は陸仁、即位礼ー慶応4年 1868年、大嘗祭ー1871年、 
摂政ー二条斉敬、将軍、徳川慶喜、総裁、有栖川宮熾仁親王・輔相、岩倉具視・三条実美・左大臣、有栖川宮熾仁親王
右大臣、三条実美・太政大臣、三条実美
先代、孝明天皇の第二皇子・次代、大正天皇・母は、中山忠能の娘 慶子

即位後、薩長両藩へ倒幕の密勅を降下し、徳川慶喜の「大政奉還」を許し、王政復古の大号令をかけるという1867年から68年にかけての
政治的大変動は、明治天皇が年少であったことが容易にした。
江戸から東京と改芽られ、「明治」と改元、版籍奉還・廃藩置県によって国家が統一されていく。
1868年「五箇条の誓文」は、新政府の基本方針でもあった。
明治天皇の在位期間は、日本の資本主義の上昇期で国際的地位の上昇を象徴する時でもあった。内外とも「英主」と仰がれた。

桃山・明治天皇・昭憲皇太后陵は、桃山城と隣接。


五箇条の御誓文

一、 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ・一、 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ・一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マラサシメン事ヲ要ス・一、 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ・一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ

「憲法発布勅語」「大日本帝国憲法」は、この五箇条の御誓文に基づくとされ、憲法類の筆頭規範と考えられていました。

雑木林に囲まれた陵内、参道


江戸開城から半年を経た明治元年、、明治天皇は初めて江戸に行幸し、江戸城は東京城に改められた(東京奠都)。
一旦京都に還幸後、1869年に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住。
1869年には、版籍奉還の上表を勅許し、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、
次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっている。
明治4年、1871年には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立。

岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。

天皇の埋葬は火葬が主流となるが、幕末、孝明天皇の時に土葬となり、以後、皇室では、これに倣って、明治天皇もその皇后も土葬である。


日本が初めて直面した近代戦争である「日清戦争と日露戦争」では、
天皇は、大本営で直接戦争指導に当たった。
外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。
日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用。

1911年には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となる。

                             伏見桃山明治天皇陵


次回は、伏見町へ。