syuの日記・気まま旅

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桓武天皇 栢原陵

2014-02-09 | 気まま旅
「桓武天皇・柏原陵」
第50代ー桓武天皇、(父光仁天皇・母 贈太皇太后天高知日之子)、陵 名 柏原陵、陵形 円丘、所在地 :京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎 (伏見城と隣接)。

737-806年、千年の都、「平安亰」を造営した天皇。
50代天皇44歳で即位。長岡亰に遷都したが藤原種継暗殺事件が起こり平安京に遷都。律令制を再編し強化した。
蝦夷征討を積極的に進め、門閥にとらわれ事無く有能な役人を登用し、渡來系氏族を重んじた。
天皇即位し、弟の「早良親王」を跡継ぎとしたが、藤原種継暗殺事件に関係ありとして、親王を乙訓寺に幽閉した。
親王は、飲食を断って憤死した。
天皇は、我が子の「安殿親王」を皇太子に立てたが、病気になり、后妃らも相次いで死亡したため、これは、早良親王の怨霊によるとされた。

桓武天皇が造営した「平安京」は、京都で、明治維新まで皇居があった。
桓武天皇・柏原陵


桓武天皇と征夷大将軍坂上田村麻呂
797年、桓武天皇は、第3回蝦夷征討で、征夷将軍坂上田村麻呂を派遣、801年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、蝦夷を討伏して、閉伊地方まで進出した。802年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、胆沢城(岩手県)を築いて多賀城から鎮守府を移した。
803年、征夷将軍の坂上田村麻呂は、志波城(岩手県)を築き、804年、桓武天皇は、征夷将軍の坂上田村麻呂を征夷大将軍とした。
811年、征夷大将軍文室綿麻呂は、蝦夷を平定し、太平洋側の征討を完了。

「秋田城」前回取り上げています。
760年、 阿支太城(秋田城)が初めて史料に登場する。780年、 出羽国鎮狄将軍安倍家麻呂、秋田城の棄守につき指示を求める。これについて国司一人を専当とし、秋田城、由理柵を保守することを命ずる。794年 平安京(京都)に遷都 。804年、 出羽国の請により秋田城制を停めて郡制とする。830年、 秋田地方大地震、城郭、四天王寺等の建物と丈六の仏像が倒壊。878年、 夷俘が反乱し秋田城を襲う、多くの建物等が焼ける。939年、 出羽国で俘囚が反乱、、、、、。

桃山は、城跡の石が今でもある
1592年、比高25mの指月の台地に、豊臣 秀吉が隠居城として築いたが、1596の大地震によって倒壊し、指月の地から木幡山に城


次回は、隣の明治天皇陵へ。