「弁財天・長建寺」は、伏見区 東柳町にある、真言宗醍醐派の寺院、創建1699年、本尊 弁財天、別名「島の弁天さん」
豊臣秀吉没後、徳川3代まで使われた伏見城は、1619年廃城後、伏見の町は衰退、
13代目伏見奉行 建部政宇は、1699年、壕川を開拓するとき、深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を分離して現在地に移築。
建部姓の一字と長寿を願いと名づけたのが寺の起こりと云う。
(かつての中書島遊郭の一角にあった。)
弁財天長建寺 門楼 本殿

伽藍・ 朱色の竜宮門 中国風、朱色の土塀、 鐘楼 三十石船及び町に時を知らせたという。 弁天型灯籠 元禄12年(1699年)に奉納
奉納者は、伏見奉行建部内匠頭政宇とある。
寺宝・ 八臂弁財天 本尊、秘仏(鎌倉時代後期作)毎年元旦から15日間のみ開帳。8本の腕を持った音楽・財富・智恵・延命を司る弁天様。
裸形弁財天 脇仏、 賓頭盧尊者なで仏は、釈迦の弟子で十六羅漢の一人と云われている。等
「中書島」
元禄12年(1699)に第20代の伏見奉行に就任した「建部内匠頭」は、 伏見の人口が、秀吉時代の6万人から、諸大名の江戸移転や町民の大坂への集団移住、それに慶長14年の大火災などで3万人位に減っていた。
その伏見を支えていたのは、水上運輸と宿場であった。
建部氏は、伏見復興の為、まず観光事業を活発にしようと、荒廃して葭が雑生していた中書島に阿波橋の西の方にあった、柳町(通称泥町)の傾城郭を名前と共に移転させ、東柳・西柳とし、又民家も建築させ、今福橋と蓬莱橋を架け、島への交通の便を良くして旅客の誘致を図った。
この中書島遊郭は創立当時(元禄時代)忽ち三十石船の船客らの人気を呼び全国的に有名になり、京都島原に次ぐものとなった。
全盛時には、400人程の遊女がいたと云う。
境内 滾々と湧水

拝殿 弁天堂の横に湧き出ているのが「閼伽水」、伏見の水特有のまろやかな味。

「坂本龍馬」1835-67、土佐藩士、北辰一刀流剣術、千葉定吉に学び、武市瑞山結成した土佐勤王党に加盟し、その後勝海舟に入門
神戸海軍操練所で修行する。慶応元年に亀山社中を組織、翌年に薩長同盟を締結させた。
慶応3年海援隊長となり、商業を志して倒幕運動に尽くした。「船中八策」を著して「大政奉還」を成し遂げた。
「日本を洗濯、、」といって徳川幕府打倒に奔走した龍馬は、故郷を脱藩してからわずか5年で無血革命と云う偉業達成している。
大政奉還は土佐の「後藤象二郎」の名であるが龍馬は、「事は十中の八か九までを自分でやりとげ残り一か二を他人に譲って手柄に
させるのが良いのだ」、又、窮屈な役人には成りたくないと云って、龍馬の字は名簿から外している。
海援隊士陸奥宗光は「龍馬は西郷よりずっと大きな人物、、、」後々語っている。
龍馬通り 新撰組も見回りを

王政復古を目前にして京都の「近江屋」で幕府の見廻り組に襲われ、中岡慎太郎と共に凶刃をうけて絶命した。
「寺田屋騒動・事件」
文久2、1862年年4月(旧暦)、寺田屋にいた薩摩の過激派の尊攘派浪士たちを島津久光の命で薩摩藩士が粛清した事件で、寺田屋騒動とも呼ばれ、 慶応2、1866年1月(旧暦)、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の役人が襲撃した事件。二つとも「寺田屋事件」と呼ばれている。
寺田屋は、現在 でも素泊まりで宿泊可能。

「お龍」
龍馬との出会いのいきさつは色々書かれています。父・楢崎将作が亡くなってから、母親が方広寺で勤王の志士達の炊事を手伝っており、お龍も方広寺へ出入りしていました。
苦しい生活を助けるため 1846年8月龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となる。
龍馬とお龍の仲はますます良くなり、お龍も龍馬のために京都の情報を集めたりして協力します。
1865年9月の龍馬の手紙では、土佐にいる乙女姉さんにお龍にプレゼントする帯・着物などを送って欲しいとねだり、家族を助けているお龍の頑張りを伝えている。
龍馬は、長崎の亀山社中に移って薩長同盟をつくることに精出し、慶応2年1月ついにこれが完成。
そのあと寺田屋で休んでいた龍馬は幕府の伏見奉行所の捕り手に囲まれますが、お龍がこの動きを知って風呂から飛び出し龍馬に知らせたので逃げる事ができた。
龍馬はこの年の12月手紙の中で「お龍がいたから龍馬の命は助かった」と書いている。
龍馬は薩長同盟締結後、愛妻お龍と共に過ごし、志を共にする同志 達と夢を語り明かし、京都で凶刃に倒れ、この地に戻ることは出来い。

龍馬も利用した10石・30石舟。
豊臣秀吉が伏見城の城下町として整備した伏見。
発展させたこの地は、 陸上交通が発達する明治時代まで、水上交通の要所として繁栄。
何千もの舟が行き交い、商人が集まる一大港町だった。 伏見城の外堀だった濠川(ほりかわ)には今も十石舟が運航しており、
酒蔵や寺田屋の横を通り抜けながら、当時に想いを馳せて旅情を楽しむことができる。伏見の名水から造られる酒・豆腐など、食の楽しみも。
伏見城の外堀だった濠川には 今も十石舟が運航。月桂冠 酒蔵や寺田屋の横を通り抜けながら、
次回は、伏見戦争を。
豊臣秀吉没後、徳川3代まで使われた伏見城は、1619年廃城後、伏見の町は衰退、
13代目伏見奉行 建部政宇は、1699年、壕川を開拓するとき、深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を分離して現在地に移築。
建部姓の一字と長寿を願いと名づけたのが寺の起こりと云う。
(かつての中書島遊郭の一角にあった。)
弁財天長建寺 門楼 本殿



伽藍・ 朱色の竜宮門 中国風、朱色の土塀、 鐘楼 三十石船及び町に時を知らせたという。 弁天型灯籠 元禄12年(1699年)に奉納
奉納者は、伏見奉行建部内匠頭政宇とある。
寺宝・ 八臂弁財天 本尊、秘仏(鎌倉時代後期作)毎年元旦から15日間のみ開帳。8本の腕を持った音楽・財富・智恵・延命を司る弁天様。
裸形弁財天 脇仏、 賓頭盧尊者なで仏は、釈迦の弟子で十六羅漢の一人と云われている。等
「中書島」
元禄12年(1699)に第20代の伏見奉行に就任した「建部内匠頭」は、 伏見の人口が、秀吉時代の6万人から、諸大名の江戸移転や町民の大坂への集団移住、それに慶長14年の大火災などで3万人位に減っていた。
その伏見を支えていたのは、水上運輸と宿場であった。
建部氏は、伏見復興の為、まず観光事業を活発にしようと、荒廃して葭が雑生していた中書島に阿波橋の西の方にあった、柳町(通称泥町)の傾城郭を名前と共に移転させ、東柳・西柳とし、又民家も建築させ、今福橋と蓬莱橋を架け、島への交通の便を良くして旅客の誘致を図った。
この中書島遊郭は創立当時(元禄時代)忽ち三十石船の船客らの人気を呼び全国的に有名になり、京都島原に次ぐものとなった。
全盛時には、400人程の遊女がいたと云う。
境内 滾々と湧水



拝殿 弁天堂の横に湧き出ているのが「閼伽水」、伏見の水特有のまろやかな味。



「坂本龍馬」1835-67、土佐藩士、北辰一刀流剣術、千葉定吉に学び、武市瑞山結成した土佐勤王党に加盟し、その後勝海舟に入門
神戸海軍操練所で修行する。慶応元年に亀山社中を組織、翌年に薩長同盟を締結させた。
慶応3年海援隊長となり、商業を志して倒幕運動に尽くした。「船中八策」を著して「大政奉還」を成し遂げた。
「日本を洗濯、、」といって徳川幕府打倒に奔走した龍馬は、故郷を脱藩してからわずか5年で無血革命と云う偉業達成している。
大政奉還は土佐の「後藤象二郎」の名であるが龍馬は、「事は十中の八か九までを自分でやりとげ残り一か二を他人に譲って手柄に
させるのが良いのだ」、又、窮屈な役人には成りたくないと云って、龍馬の字は名簿から外している。
海援隊士陸奥宗光は「龍馬は西郷よりずっと大きな人物、、、」後々語っている。
龍馬通り 新撰組も見回りを



王政復古を目前にして京都の「近江屋」で幕府の見廻り組に襲われ、中岡慎太郎と共に凶刃をうけて絶命した。
「寺田屋騒動・事件」
文久2、1862年年4月(旧暦)、寺田屋にいた薩摩の過激派の尊攘派浪士たちを島津久光の命で薩摩藩士が粛清した事件で、寺田屋騒動とも呼ばれ、 慶応2、1866年1月(旧暦)、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の役人が襲撃した事件。二つとも「寺田屋事件」と呼ばれている。
寺田屋は、現在 でも素泊まりで宿泊可能。



「お龍」
龍馬との出会いのいきさつは色々書かれています。父・楢崎将作が亡くなってから、母親が方広寺で勤王の志士達の炊事を手伝っており、お龍も方広寺へ出入りしていました。
苦しい生活を助けるため 1846年8月龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となる。
龍馬とお龍の仲はますます良くなり、お龍も龍馬のために京都の情報を集めたりして協力します。
1865年9月の龍馬の手紙では、土佐にいる乙女姉さんにお龍にプレゼントする帯・着物などを送って欲しいとねだり、家族を助けているお龍の頑張りを伝えている。
龍馬は、長崎の亀山社中に移って薩長同盟をつくることに精出し、慶応2年1月ついにこれが完成。
そのあと寺田屋で休んでいた龍馬は幕府の伏見奉行所の捕り手に囲まれますが、お龍がこの動きを知って風呂から飛び出し龍馬に知らせたので逃げる事ができた。
龍馬はこの年の12月手紙の中で「お龍がいたから龍馬の命は助かった」と書いている。
龍馬は薩長同盟締結後、愛妻お龍と共に過ごし、志を共にする同志 達と夢を語り明かし、京都で凶刃に倒れ、この地に戻ることは出来い。



龍馬も利用した10石・30石舟。
豊臣秀吉が伏見城の城下町として整備した伏見。
発展させたこの地は、 陸上交通が発達する明治時代まで、水上交通の要所として繁栄。
何千もの舟が行き交い、商人が集まる一大港町だった。 伏見城の外堀だった濠川(ほりかわ)には今も十石舟が運航しており、
酒蔵や寺田屋の横を通り抜けながら、当時に想いを馳せて旅情を楽しむことができる。伏見の名水から造られる酒・豆腐など、食の楽しみも。
伏見城の外堀だった濠川には 今も十石舟が運航。月桂冠 酒蔵や寺田屋の横を通り抜けながら、



次回は、伏見戦争を。