「亀戸駅」は、戦時中仕事で亡き父が亀戸に行き、アメリカ爆撃機に遭遇し、線路を挟んで左右に逃げ、父は、左に逃げて命拾い、右に逃げた人たちは一人として助からなっかと云う。
久し振りの、東の天満宮・亀戸天神である。
「菅原道真」845-903 官僚・文人・学者の家に生まれ、文章博士、讃岐守に、宇多天皇に認められ、醍醐天皇時右大臣。
左大臣藤原時平と対立し、左遷され、自邸の愛した梅、九州へ赴任時。
「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
太宰府天満宮に、道真が愛した梅「飛び梅」がある。天満宮は、道真の祟りをおさめるため、祀られている。
「亀戸天神社」は、菅原道真を祀り、学問の神様として親しまれている。
特に1,2月の受験シーズンには、道真の加護を求めて絵馬を奉納する受験生で境内が溢れる。「亀戸天神、亀戸天満宮、東宰府天満宮」
大鳥居

1644年 - 1647年、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。
1661年、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、
四代将軍徳川家綱は、その鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。
1662年、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営されたと云う。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、
1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。
境内中央は池、それに架かる太鼓橋 藤棚6月が楽しみ

「うそ替え神事」は、例年1月24日 - 25日。縁起物である木彫りの鷽(ウソ)が授与される。
「去年の悪(あ)しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」との言い伝えによる。
木彫りの鷽は、高さ5 - 22cmくらい、白木の円柱に上部3分の1位が荒削りされ、頭部と腹部となり、背後は削り掛けの手法で尾羽が切り込まれ彩色は頭が黒、胸は朱、背の羽は緑と黒である。
「梅まつり」は、例年2月第2日曜日から3月第2日曜日まで。
「藤まつり」は、4月25日から5月5日まで。
敷地内の藤棚が一斉に開花し、神社中が一面藤色に染まる。
太鼓橋の上から見渡すことで、一面の藤棚を上から見下ろすことができることも特徴。
江戸時代から亀戸の藤と呼ばれた藤の名所。同時に学業講祭も行われ、学業祈願の祈願者も多く訪れると云う。
「菊まつり」例年10月下旬から11月下旬まで。
境内から見える東京スカイツリー 落ち着く境内

末社、
「花園社」ー道真の妻である島田宣来子および14人の子供を祀る。安産、子宝、立身出世の守護神として信仰されている。
「弁天社」-亀戸天神の心字池を上野不忍池に見立て、この社を「弁天堂」と呼んだことから、七福神の1つである弁才天として信仰されるようになった。
「紅梅殿」-1662年に太宰府天満宮の御神木である飛梅の実生を勧請したもの。現在の社は、1988年に再建。「神牛殿」。
「御嶽神社」-道真の教学上の師である「延暦寺第十三代座主、法性坊尊意僧正」を祀る。
「卯の神」として知られ、正月初卯、二の卯、三の卯には、卯槌や卯の神札が授与されると云う。
「神牛殿」-菅原道真は845年6月25日の乙丑年に生まれ、903年に亡くなったが、葬送中、遺体を乗せた車を引く黒牛が動かなくなり、その場所を墓所と定めたと云う。
拝殿

「横十間川」
1659年 - 徳山重政・山崎重政両名(翌年本所奉行に任命)によって開削された。
江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから。別名の天神川は、亀戸天神の横を流れることに由来すると云う。
広重の「名所江戸百景」「柳しま」に、横十間川と北十間川、筑波山が描かれている。
横十間川は、東京都墨田区・江東区を流れる運河で、天神川や釜屋堀、横十間堀、横十間堀川ともよばれ、東京市(東京15区時代)と南葛飾郡との市郡境、東京市内(東京35区時代)の本所区・深川区と城東区との区境にもなっていたと云う。
江戸の旦那衆は、初卯詣りは、陸地と舟を使っていたと云う。
横十間川栗原橋 くず餅の老舗船橋屋

「龍眼寺・萩寺」
開基、良博大和尚。寺創建は、1395年、大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、 村に流行していた疾病を
平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号したとある。
寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名、 江戸初期には、住職が百種類もの萩を
諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で
賑わう様子が描かれている。
萩寺の竜眼寺

七福神めぐりは、天地地変、火災、盗難などの七つの災害を削除し、7つの福徳を授けられると言われ信仰を集めてきた。
龍眼寺には、布袋尊が安置。亀戸火地福神は、寿老人(延命長寿)常光寺 亀戸4-48-3・弁財天(芸道富裕)東覚寺 亀戸4-24-1・
恵比寿神(愛敬富財) 香取神社 亀戸3-57-2・大黒神(有富蓄財) 香取神社 亀戸3-57-2・毘沙門天(勇気授福)普門院 亀戸3-43-3
福禄寿(人望福徳) 天祖神社 亀戸3-38-35・布袋尊(清簾度量)龍眼寺 亀戸3-34-2。

榎本其角 「つき見とも見えずや露あり庭の萩」。 大納言家長郷 「ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は」
の句
正面に、松尾芭蕉 「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」句碑。

夢殿を模し、八聖道にちなんだ八角のお堂。 八正道とは、理想の境地に達するために実践する正しい行いや生活態度のことと云う。
不動堂ー、護摩木にお書き、祈祷。布袋堂ー亀戸七福神の布袋尊を安置している。

松尾芭蕉句碑ー「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」 奥の細道の旅で小松に滞在中の7月26日に歓生亭で巻かれた「俳五十句」
明治5年葛飾の素丸が建立。 都内の芭蕉句碑37基の中で最も古い句碑
螺舎一堂句碑ー「月や秋 あきや夜にして 十五日」と句が彫られている 。
百寿句碑ー「春盛る梅のうしろに□の花」と句が彫られている (文字不鮮明のため判読不可能)
冬嶺市町句碑ー冬嶺 「ひと色を千々の錦や萩見寺」、 市町 「露の世にこぼさぬ露や萩の上」と句が彫られている 。
その他、庚申塔が 老舗の和菓子「船橋屋」
江戸文化2年 1805年の創業の「くず餅」一筋の、お店に。
200年の老舗で、文人も好んだ「船橋屋」

下町は2回で終了。次回から奈良方面に。
久し振りの、東の天満宮・亀戸天神である。
「菅原道真」845-903 官僚・文人・学者の家に生まれ、文章博士、讃岐守に、宇多天皇に認められ、醍醐天皇時右大臣。
左大臣藤原時平と対立し、左遷され、自邸の愛した梅、九州へ赴任時。
「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
太宰府天満宮に、道真が愛した梅「飛び梅」がある。天満宮は、道真の祟りをおさめるため、祀られている。
「亀戸天神社」は、菅原道真を祀り、学問の神様として親しまれている。
特に1,2月の受験シーズンには、道真の加護を求めて絵馬を奉納する受験生で境内が溢れる。「亀戸天神、亀戸天満宮、東宰府天満宮」
大鳥居

1644年 - 1647年、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。
1661年、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、
四代将軍徳川家綱は、その鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。
1662年、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営されたと云う。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、
1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。
境内中央は池、それに架かる太鼓橋 藤棚6月が楽しみ



「うそ替え神事」は、例年1月24日 - 25日。縁起物である木彫りの鷽(ウソ)が授与される。
「去年の悪(あ)しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」との言い伝えによる。
木彫りの鷽は、高さ5 - 22cmくらい、白木の円柱に上部3分の1位が荒削りされ、頭部と腹部となり、背後は削り掛けの手法で尾羽が切り込まれ彩色は頭が黒、胸は朱、背の羽は緑と黒である。
「梅まつり」は、例年2月第2日曜日から3月第2日曜日まで。
「藤まつり」は、4月25日から5月5日まで。
敷地内の藤棚が一斉に開花し、神社中が一面藤色に染まる。
太鼓橋の上から見渡すことで、一面の藤棚を上から見下ろすことができることも特徴。
江戸時代から亀戸の藤と呼ばれた藤の名所。同時に学業講祭も行われ、学業祈願の祈願者も多く訪れると云う。
「菊まつり」例年10月下旬から11月下旬まで。
境内から見える東京スカイツリー 落ち着く境内



末社、
「花園社」ー道真の妻である島田宣来子および14人の子供を祀る。安産、子宝、立身出世の守護神として信仰されている。
「弁天社」-亀戸天神の心字池を上野不忍池に見立て、この社を「弁天堂」と呼んだことから、七福神の1つである弁才天として信仰されるようになった。
「紅梅殿」-1662年に太宰府天満宮の御神木である飛梅の実生を勧請したもの。現在の社は、1988年に再建。「神牛殿」。
「御嶽神社」-道真の教学上の師である「延暦寺第十三代座主、法性坊尊意僧正」を祀る。
「卯の神」として知られ、正月初卯、二の卯、三の卯には、卯槌や卯の神札が授与されると云う。
「神牛殿」-菅原道真は845年6月25日の乙丑年に生まれ、903年に亡くなったが、葬送中、遺体を乗せた車を引く黒牛が動かなくなり、その場所を墓所と定めたと云う。
拝殿

「横十間川」
1659年 - 徳山重政・山崎重政両名(翌年本所奉行に任命)によって開削された。
江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから。別名の天神川は、亀戸天神の横を流れることに由来すると云う。
広重の「名所江戸百景」「柳しま」に、横十間川と北十間川、筑波山が描かれている。
横十間川は、東京都墨田区・江東区を流れる運河で、天神川や釜屋堀、横十間堀、横十間堀川ともよばれ、東京市(東京15区時代)と南葛飾郡との市郡境、東京市内(東京35区時代)の本所区・深川区と城東区との区境にもなっていたと云う。
江戸の旦那衆は、初卯詣りは、陸地と舟を使っていたと云う。
横十間川栗原橋 くず餅の老舗船橋屋



「龍眼寺・萩寺」
開基、良博大和尚。寺創建は、1395年、大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、 村に流行していた疾病を
平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号したとある。
寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名、 江戸初期には、住職が百種類もの萩を
諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で
賑わう様子が描かれている。
萩寺の竜眼寺

七福神めぐりは、天地地変、火災、盗難などの七つの災害を削除し、7つの福徳を授けられると言われ信仰を集めてきた。
龍眼寺には、布袋尊が安置。亀戸火地福神は、寿老人(延命長寿)常光寺 亀戸4-48-3・弁財天(芸道富裕)東覚寺 亀戸4-24-1・
恵比寿神(愛敬富財) 香取神社 亀戸3-57-2・大黒神(有富蓄財) 香取神社 亀戸3-57-2・毘沙門天(勇気授福)普門院 亀戸3-43-3
福禄寿(人望福徳) 天祖神社 亀戸3-38-35・布袋尊(清簾度量)龍眼寺 亀戸3-34-2。



榎本其角 「つき見とも見えずや露あり庭の萩」。 大納言家長郷 「ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は」
の句
正面に、松尾芭蕉 「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」句碑。



夢殿を模し、八聖道にちなんだ八角のお堂。 八正道とは、理想の境地に達するために実践する正しい行いや生活態度のことと云う。
不動堂ー、護摩木にお書き、祈祷。布袋堂ー亀戸七福神の布袋尊を安置している。


松尾芭蕉句碑ー「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」 奥の細道の旅で小松に滞在中の7月26日に歓生亭で巻かれた「俳五十句」
明治5年葛飾の素丸が建立。 都内の芭蕉句碑37基の中で最も古い句碑
螺舎一堂句碑ー「月や秋 あきや夜にして 十五日」と句が彫られている 。
百寿句碑ー「春盛る梅のうしろに□の花」と句が彫られている (文字不鮮明のため判読不可能)
冬嶺市町句碑ー冬嶺 「ひと色を千々の錦や萩見寺」、 市町 「露の世にこぼさぬ露や萩の上」と句が彫られている 。
その他、庚申塔が 老舗の和菓子「船橋屋」
江戸文化2年 1805年の創業の「くず餅」一筋の、お店に。
200年の老舗で、文人も好んだ「船橋屋」



下町は2回で終了。次回から奈良方面に。