syuの日記・気まま旅

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関ケ原から伏見桃山城へ

2014-02-07 | 気まま旅
奈良から和歌山方面へ旅をしました。

東海道新幹線は、関ケ原トンネル付近を通過、窓から1377mの日本花の百名山「伊吹山」が見え白い雪を被っていた。
岐阜揖斐川から滋賀県米原に、伊吹山と云えば、古事記に日本武尊伝説・平安時代に日本七高山(関西霊山)の一つ・織田信長の薬草菜園など
で知られる。
窓からそれほど大きくないが「関ケ原古戦場」の看板がみえた。

「関ヶ原の戦い」
小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃する。
大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。
ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。

宣教師のフェルナン・ゲレイロはその報告の中で奉行(石田三成)側の軍勢中には裏切り行為によってざわめきが起きて陣列の混乱が続いたと述べている。
大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、関ヶ原一の死闘を繰り広げている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を始めた。
ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定したと云う。

新幹線の窓から見た関ケ原


新幹線は、京都で奈良線に乗り換え、以前京都編で「東福寺」-「稲荷」までを旅をし、今日は、藤森・「桃山」駅からスタートする。
桃山は、京都市伏見区、市の南部、伏見区の中央の地域になる。
桃山丘陵の南、1593年豊臣秀吉が、伏見城を築いたが、豊臣氏滅亡後に取り壊され、城跡一帯に桃の木を植えたことから「桃山」となった。
明治に入り、明治天皇などの「桃山御陵」造られ、1960年観光用の模擬伏見桃山城が建設された。

模擬天守閣の「伏見城」へ、(1964年10万平方)京都駅から奈良線「伏見駅」下車
    

「伏見城」は、天正の末年、秀吉が桃山の南丘の地に別荘風の邸宅的城郭として築いたのが起こりで、たまたま征韓の役にあたって和議が成立せんと、近く明国施設が来朝する事になり 1592年、新たに伏見山に大規模な城を起工。
25万人の工人を要し4年の年月を費して完成したと伝える。
築城資材などの運搬は宇治川の水運を利用、宇治川は巨椋池に注いでいたが、この時に堤(槇島堤)を築いて池と分断し、川の水量を
指月の浜に導いた。
また巨椋池の中に小倉堤を築いて大和街道を設け、鴨川の流れを勧進橋から西に切り替えて淀に注がせ伏見の地形を一変させた。
1596年 に城は竣工し「伏見城」と称した。
五重の天主は雲にそびえ金色の瓦は燦然と伏見山頂に輝きわたり明国使節の度肝を抜くに相応しい威容だったと思われ、間もなく起こった
「伏見地震」によって城の大切な部分が倒壊したので明使との謁見は城内の御花畠山荘で行われた。
翌年早々、震災の復旧工事が行われ 1598年に完成したが、その年の8月、秀吉は伏見城で没し伏見城に在したのは5年に過ぎなかった。

1591年9月に、秀吉は諸将に対して準備命令を出した。12月、秀吉は朝鮮の役に専念するため関白を辞し、豊臣秀次を関白とした。


秀吉の没後、秀頼は大坂城に移り伏見城は徳川家康の預かるところになったが
1600年、関ヶ原の前哨戦として西軍に攻められ、守将・鳥居元忠以下多くの徳川勢が戦死した。
この時の兵火で本丸以下、主要な建物は焼失したが、間もなく家康が修築し家康の子・秀康を置いて近畿に於ける徳川の本拠に。
1614年、豊臣滅亡後は軍事拠点としての伏見城の存在価値がなくなり、加えて豊臣氏の威光を偲ばせる城の存在は徳川にとって好ましくなく
1623年、家光の三代将軍宣下式、祝賀会を伏見城で行ったの最後として廃城、主だった建造物は京都の社寺などに寄贈され城中の一木一石に至るまで徹底的に取り払われ伏見城は完全に地上から消滅した。
廃城後の江戸時代には桃の名所となり、桃山御陵造営によって大半が御陵地となり地形にも大きな変化をみた。
今は往時を偲ぶべきものは見られないが、御陵の北、本丸跡を城山、古城山ととも呼び内堀の一部は紅雪堀や治部池、貯水池(北堀公園)として残っている。
伏見大手筋は城内大手門に面した道路であったと伝え、伏見には
福島太夫、毛利長戸、松平筑前、羽柴長吉、伯耆、景勝、弾正、毛利、正宗などという他に類例をみない珍しい町名や地名があり、いずれも往時の諸大名の屋敷跡にちなんで名付けられたと云う。

1592年、諸将に出陣を命じた。2月、朝鮮に最後の使者を送ったが、返報はなし、日本の先鋒隊は対馬まで渡り、3月12日に進撃。
    
指月城は、文禄3年(1594年)8月、豊臣秀吉入城。慶長元年(1596年)慶長の大地震て倒壊した。
木幡城は、慶長2年(1597年)5月、秀吉入城。3年(1598年)秀吉没。5年(1600年)関が原の戦いの前哨戦で炎上した。

1番隊 小西行長・宋義智ら(1万8700人)釜山浦に入港、13日に釜山鎮城を攻め落として、戦闘が始まった。 
    

廃城となった古城山には伏見の人たちによって、桃の木が植えられ元禄時代には桃の名所として名を知られた。
昭和38年、近畿日本鉄道が「遊園地キャッスルランド」を開園し大天守閣と小天守閣の連結式の伏見桃山城を旧二の丸北方の御花畠山荘跡に建造。
大天守閣は姫路城を参考に名古屋城と同じ大きさに小天守閣は彦根城を模して建てられたと伝える。
外観も位置も当時の伏見城とは全く異なるが下町から桃陵の丘に立つ城姿を見ると豊太閤の見果てぬ夢と往時が偲ばれると云う。

軍の編成は、次のようになっていた。2番隊 加藤清正・鍋島直茂ら2万2800人、、、、。総数は、158000人。
    

「豊臣秀吉」、農民から関白太政大臣、天下人(太閤)になった戦国武将。
織田信長の五軍団(柴田勝家、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉)の1人。
1582年、「天王山の戦い」で明智光秀を破り、1590年、天下統一を成し遂げた。
戦後は織田信孝、柴田勝家との後継者争いとなり、1583年、柴田勝家を滅ぼし実質的な後継者となる。
1583年、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康と戦うが、勝てずに講和。
その後、四国、九州を平定し、小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一した。
1585年、関白。1586年、太政大臣に任ぜられるなど位人臣を窮め、関白を養子・秀次に譲った後、太閤と称した。
太閤検地・刀狩りなどを行うなど、荘園制を廃してその後の幕藩体制の基礎を。
1594年、伏見城築城。

1592年の文禄の役において、李氏朝鮮の国王が漢城(ソウル)の景福宮(王宮)を脱出したあと、日本軍の入城を前に、朝鮮の民衆によって略奪・放火されて焼失したと云う。
離宮の昌徳宮が使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。
    

次回は、伏見桃山陵へ。