正倉院工事中と、朝からの雨で人影が無い、大仏池に幼稚園があるのか制服を着た園児と若いお母さん達が、忙しそうに2~3組いるだけであった。東大寺の裏手、龍蔵院・持宝院・宝厳院とお地蔵・中性院・観音院・神宝殿の間に「四月堂」で、向かいに「二月堂」「三月堂」
「手向山八幡宮」と並んでいる。
746年以降、「法華経」を講ずる法華会が旧暦3月に行われる堂を「三月堂」と呼ばれている。ここにも国宝が多く、日光。月光仏など知られた仏像が多く天平彫刻の宝庫と云われている。
二月堂は、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定。「お水取り」の行事が行われる建物。
二月堂は、1669年の再建で、本尊十一面観音像(秘仏)前で罪を懺悔する「修二会」の為の堂で、旧暦二月行われる。
東大寺では、檀家的制度が無い、東大寺は多くの観光客収入によってなりたっている。東大寺の僧侶は、24人と云う。寺内に僧侶は、ほとんど見たことない。
「修二会」は天平時代から1200年続いている。
春を呼ぶ「お水取り」の行事は二月堂で「修二会」、3月1日二週間で、12~14日は夜に行われる達陀は、約40k大松明を持った僧が
回廊を走る抜ける様は勇壮である。
雨の静かな雰囲気の堂であった。
本尊にささげる「お香水」を井戸から汲む
740年から7年頃の建築一番古い「法華堂」1198年増築されている。毎年3月「法華会」が行われている。
東大寺二月堂の「お水取り」は、旧暦二月(現在は三月一日から十四日まで)におこなわれることから正しくは修二会という。奈良に春を呼ぶ行事として知られている。
「お水取り」では身心の穢れを祓った練行衆と呼ばれる僧侶たちが本尊十一面観音像の前で観音の宝号を唱え、五体投身などの荒行を行うことで罪障を懺悔し、天下安穏・五穀成熟・万民豊楽を祈願する。東大寺の実忠和尚が天平勝宝四年(752)に創祀した十一面観音悔過の行法に始まるといわれる。「不退の行法」として千二百五十年余りの間、一度も休むことなく続けられてきた。
修二会において、最初と最後にお参りされる三社、興成神社・飯道神社・遠敷神社。こちらの三社は二月堂練行の神社で、三社とも実忠和尚の勧請と伝える。飯道・遠敷・興成の三社はいずれも二月堂鎮守神である。
「興成神社」(東大寺境内)、祭神 豊玉媛命。
良辨杉ー二月堂のすぐ下に鎮座する。お水取りのおたいまつには、上から火の粉をあびるようなところにあり、近くに若い世代の良弁杉がある。祭神は豊玉媛命で、玉依姫命は御妹で海神といわれる。二月堂練行の神社で、一説に東大寺八興社の一社とされている。
社殿は板玉垣をめぐらし、西に鳥居が立つ。二月堂からの見た目。近くにあるのは良弁杉。現在のものは三代目。その伝説は昔から芝居などで有名。
「飯道神社」(東大寺境内)、祭神 軻具突智神・埴山媛命・稚皇産霊神
瓦葺三扉の社殿に軻具突智神・埴山媛命・稚皇産霊神の三神が祭られている。軻具突智神は火の神、埴山媛命は土の神、稚皇産霊神は五穀の神といわれる。「はんどう神社」また、「いいみち神社」と呼んでいる。
「遠敷神社」(東大寺境内)、祭神 彦火火出見命・ 若狭井戸
二月堂の北東に当たる上手にある、板玉垣と鳥居の中に瓦葺の社殿が鎮座する。二月堂お水取り行法は、福井県小浜市の遠敷川の神水を遠敷明神が二月堂観音に送水し、この閼伽水をくむ行法であって、遠敷明神を祭る神社が若狭彦神社で、その祭神が彦火火出見命である。
お水取り 普段は、静かな境内
堂の手前左右(南北)に階段があり、堂への通路となっている。北側の階段は屋根付きで「登廊」と称され、練行衆が参籠宿舎から二月堂へ上堂する時にここを通る。南側の階段は3月12日深夜の「水取り」の時に若狭井へ下りる際に使用される。堂の手前には鎮守社の1つである興成社(こうじょうしゃ)があり、その脇に良弁杉がある。また、堂の下方(西方)には、修二会に関わる付属建物である参籠所、閼伽井屋、仏餉屋(ぶっしょうのや)、湯屋などが建つ。
堂内の構成は複雑で、一般的な仏堂建築とはかなり異なっている。平面は前述のとおり正面7間、奥行10間で、後寄りに3間×3間の内陣を設ける。内陣中央の須弥壇には秘仏本尊の十一面観音を安置し、その周囲は修二会のさまざまな作法が行われる場で、練行衆以外の立ち入りは禁止されている。内陣外側の左右と背面(北面・東面・南面)は1間幅の外陣となり、外陣のさらに外側(北面・東面・南面)は小部屋に仕切られ、「局」(つぼね)と呼ばれている。内陣の手前(西面)は5間×3間の板床の礼堂となり、礼堂の左右(南北)は北が「勧進の間」、南が「例時の間」と呼ぶ小部屋になっている。礼堂の手前(西側)にも局があり、「西局」と呼ばれる。西局の西側、すなわち建物の正面は吹き放ちの舞台となっている。
弁天堂 三月堂(法華堂) 若狭井・開山堂等が
鎮守社
二月堂の手前(西)に興成社、東北に遠敷社、東南に飯道社がある。
遠敷社はお水取りと縁の深い、若狭の遠敷明神を勧請したもの。飯道社は由来ははっきりしないが、実忠ゆかりの地である近江国甲賀郡の
飯道神社を勧請したものとされ、興成社は東大寺の地主神である。
修二会の初日である3月1日の夕方と、法会終了後の3月14日深夜(正確には15日未明)には、練行衆が修二会のとどこおりない執行を願い、感謝するために、練行衆がこれら3社に参詣する。
これを「惣神所」と呼んでいる。
観音院 絵馬堂 校倉などが
「行基堂・不動堂」は、大仏殿や二月堂の賑わいと比べてほとんど観光客は少ない、 酉年の方やお不動さんが好きな方は。
東大寺には二月堂、三月堂のほかに、「四月堂」というお堂がある。お水取りが行われる有名な「二月堂」・不空羂索観音の法華堂「三月堂」
影に隠れてひっそりと佇んでいるのが、三昧堂と呼ばれる小さなお堂。毎年四月に法華三昧会という法事が行われたことから、いつしか
「四月堂」と呼ばれるようになった。
「四月堂」の本尊は、腕が42本の、高さ266cm、千手観音立像。静かな中に厳しさを合わせ持った表情は、何事にも動じない決意を感じさせる
不動堂
「若狭彦神社」は、福井県小浜市にある神社。
式内社(名神大社)、若狭国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
上社・下社の2社からなり、上社を若狭彦神社、下社を若狭姫神社という。遠敷明神とも呼ばれる。
手向山八幡宮 本殿
祭神ー若狭彦神社(上社) 若狭彦大神 (彦火火出見尊) 若狭姫神社(下社) 若狭姫大神 (豊玉姫命)。創建ー和銅7年(714年)
八幡宮周辺境内 池
伝承では、ある年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。
白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。
今日では、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われている。
神社拝殿 谷川喜六慰霊碑
「西南役陣亡陸海軍人の碑」は、谷川喜六が明治26年 に、(瀬戸内海で商船と衝突沈没)殉職者と喜六氏の亡父50回忌を
東大寺大仏殿で営み、 それを紀念してこの慰霊碑を建立。とある。
次回は、興福寺へ。
「手向山八幡宮」と並んでいる。
746年以降、「法華経」を講ずる法華会が旧暦3月に行われる堂を「三月堂」と呼ばれている。ここにも国宝が多く、日光。月光仏など知られた仏像が多く天平彫刻の宝庫と云われている。
二月堂は、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定。「お水取り」の行事が行われる建物。
二月堂は、1669年の再建で、本尊十一面観音像(秘仏)前で罪を懺悔する「修二会」の為の堂で、旧暦二月行われる。
東大寺では、檀家的制度が無い、東大寺は多くの観光客収入によってなりたっている。東大寺の僧侶は、24人と云う。寺内に僧侶は、ほとんど見たことない。
「修二会」は天平時代から1200年続いている。
春を呼ぶ「お水取り」の行事は二月堂で「修二会」、3月1日二週間で、12~14日は夜に行われる達陀は、約40k大松明を持った僧が
回廊を走る抜ける様は勇壮である。
雨の静かな雰囲気の堂であった。
本尊にささげる「お香水」を井戸から汲む
740年から7年頃の建築一番古い「法華堂」1198年増築されている。毎年3月「法華会」が行われている。
東大寺二月堂の「お水取り」は、旧暦二月(現在は三月一日から十四日まで)におこなわれることから正しくは修二会という。奈良に春を呼ぶ行事として知られている。
「お水取り」では身心の穢れを祓った練行衆と呼ばれる僧侶たちが本尊十一面観音像の前で観音の宝号を唱え、五体投身などの荒行を行うことで罪障を懺悔し、天下安穏・五穀成熟・万民豊楽を祈願する。東大寺の実忠和尚が天平勝宝四年(752)に創祀した十一面観音悔過の行法に始まるといわれる。「不退の行法」として千二百五十年余りの間、一度も休むことなく続けられてきた。
修二会において、最初と最後にお参りされる三社、興成神社・飯道神社・遠敷神社。こちらの三社は二月堂練行の神社で、三社とも実忠和尚の勧請と伝える。飯道・遠敷・興成の三社はいずれも二月堂鎮守神である。
「興成神社」(東大寺境内)、祭神 豊玉媛命。
良辨杉ー二月堂のすぐ下に鎮座する。お水取りのおたいまつには、上から火の粉をあびるようなところにあり、近くに若い世代の良弁杉がある。祭神は豊玉媛命で、玉依姫命は御妹で海神といわれる。二月堂練行の神社で、一説に東大寺八興社の一社とされている。
社殿は板玉垣をめぐらし、西に鳥居が立つ。二月堂からの見た目。近くにあるのは良弁杉。現在のものは三代目。その伝説は昔から芝居などで有名。
「飯道神社」(東大寺境内)、祭神 軻具突智神・埴山媛命・稚皇産霊神
瓦葺三扉の社殿に軻具突智神・埴山媛命・稚皇産霊神の三神が祭られている。軻具突智神は火の神、埴山媛命は土の神、稚皇産霊神は五穀の神といわれる。「はんどう神社」また、「いいみち神社」と呼んでいる。
「遠敷神社」(東大寺境内)、祭神 彦火火出見命・ 若狭井戸
二月堂の北東に当たる上手にある、板玉垣と鳥居の中に瓦葺の社殿が鎮座する。二月堂お水取り行法は、福井県小浜市の遠敷川の神水を遠敷明神が二月堂観音に送水し、この閼伽水をくむ行法であって、遠敷明神を祭る神社が若狭彦神社で、その祭神が彦火火出見命である。
お水取り 普段は、静かな境内
堂の手前左右(南北)に階段があり、堂への通路となっている。北側の階段は屋根付きで「登廊」と称され、練行衆が参籠宿舎から二月堂へ上堂する時にここを通る。南側の階段は3月12日深夜の「水取り」の時に若狭井へ下りる際に使用される。堂の手前には鎮守社の1つである興成社(こうじょうしゃ)があり、その脇に良弁杉がある。また、堂の下方(西方)には、修二会に関わる付属建物である参籠所、閼伽井屋、仏餉屋(ぶっしょうのや)、湯屋などが建つ。
堂内の構成は複雑で、一般的な仏堂建築とはかなり異なっている。平面は前述のとおり正面7間、奥行10間で、後寄りに3間×3間の内陣を設ける。内陣中央の須弥壇には秘仏本尊の十一面観音を安置し、その周囲は修二会のさまざまな作法が行われる場で、練行衆以外の立ち入りは禁止されている。内陣外側の左右と背面(北面・東面・南面)は1間幅の外陣となり、外陣のさらに外側(北面・東面・南面)は小部屋に仕切られ、「局」(つぼね)と呼ばれている。内陣の手前(西面)は5間×3間の板床の礼堂となり、礼堂の左右(南北)は北が「勧進の間」、南が「例時の間」と呼ぶ小部屋になっている。礼堂の手前(西側)にも局があり、「西局」と呼ばれる。西局の西側、すなわち建物の正面は吹き放ちの舞台となっている。
弁天堂 三月堂(法華堂) 若狭井・開山堂等が
鎮守社
二月堂の手前(西)に興成社、東北に遠敷社、東南に飯道社がある。
遠敷社はお水取りと縁の深い、若狭の遠敷明神を勧請したもの。飯道社は由来ははっきりしないが、実忠ゆかりの地である近江国甲賀郡の
飯道神社を勧請したものとされ、興成社は東大寺の地主神である。
修二会の初日である3月1日の夕方と、法会終了後の3月14日深夜(正確には15日未明)には、練行衆が修二会のとどこおりない執行を願い、感謝するために、練行衆がこれら3社に参詣する。
これを「惣神所」と呼んでいる。
観音院 絵馬堂 校倉などが
「行基堂・不動堂」は、大仏殿や二月堂の賑わいと比べてほとんど観光客は少ない、 酉年の方やお不動さんが好きな方は。
東大寺には二月堂、三月堂のほかに、「四月堂」というお堂がある。お水取りが行われる有名な「二月堂」・不空羂索観音の法華堂「三月堂」
影に隠れてひっそりと佇んでいるのが、三昧堂と呼ばれる小さなお堂。毎年四月に法華三昧会という法事が行われたことから、いつしか
「四月堂」と呼ばれるようになった。
「四月堂」の本尊は、腕が42本の、高さ266cm、千手観音立像。静かな中に厳しさを合わせ持った表情は、何事にも動じない決意を感じさせる
不動堂
「若狭彦神社」は、福井県小浜市にある神社。
式内社(名神大社)、若狭国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
上社・下社の2社からなり、上社を若狭彦神社、下社を若狭姫神社という。遠敷明神とも呼ばれる。
手向山八幡宮 本殿
祭神ー若狭彦神社(上社) 若狭彦大神 (彦火火出見尊) 若狭姫神社(下社) 若狭姫大神 (豊玉姫命)。創建ー和銅7年(714年)
八幡宮周辺境内 池
伝承では、ある年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。
白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。
今日では、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われている。
神社拝殿 谷川喜六慰霊碑
「西南役陣亡陸海軍人の碑」は、谷川喜六が明治26年 に、(瀬戸内海で商船と衝突沈没)殉職者と喜六氏の亡父50回忌を
東大寺大仏殿で営み、 それを紀念してこの慰霊碑を建立。とある。
次回は、興福寺へ。